母を捨てる
苦しい
私は今母と同居している。
なぜ同居を決断したのか、今後悔しても仕方ない。
打算と自分の感情の狭間で毎朝苦しむことになる。
最適解はもうとっくに出ている。
さっさと別居したらいい
四十歳を過ぎてもこうして親のことで悩むなんて時間の浪費としか思えない。
そして自立できていない自分に矛先が向いて腹が立つ。
無力感に襲われる。
母がどうこう、親がどうこういう前にもう自分で解決しなくてはいけない年なのだからと常識を持ち出せば、自分がこれまでできなかったことが次々と蘇ってくる。
私の根底に流れるものーー無力感
無力感といえば、私が思いつくのは両親が不仲だった時になんとかできなかったことだったと思う。
両親の問題だからそもそも私には関係ないことなのだけれど、よくある話で、私に力があれば両親は仲良くなっていたかもしれないとか、母は笑って幸せでいてくれたのかもしれないという間違った考えに至る。
それは自分の叶わなかった希望の塊だった。
ーー両親が幸せでいる
ーー母が幸せでいる
その願いは当然叶うことはなかったけれど、自分の子育ての段になって、その傷を子供には引き継ぎたくないと強く思うようになった。
これまでも家族問題や家族心理、崩壊した家族や家族原理についてなど
二十代から読み漁った。
自分の生きづらさの要因が明確になっていくことは自分にとって新しい酸素が入ってくるようでもあった。
それにいつかこの苦しさから脱出できるのではないかと無意識のうちに期待していたと思う。
母を捨てる、この作者の苦しみが、自分のことのように伝わってくる。
環境や詳細が違っていても、母に愛されなかった苦しみとそれでもそんな母を愛していた健気さが痛い。
優等生として生きる思春期を支えてくれたもの
奇しくも作者とは同じ年。
エヴァンゲリオンに惹かれた理由。同じ年のキャラクターが親からの承認をめぐる思春期の少年少女の痛々しいまでの葛藤、苦しみ傷ついている姿を見て共感したからだったんだ。
物語の詳細も伏線も私にはどうでもいいものだったというのも同感だった。
ただそこにある苦しみに共感することで結果的に癒されるというプロセス
その頃、作者を支えていたのはいつでも死ねるというお守りみたいな言葉。自殺マニュアルだったようだが、私の場合はなんだったんだろう。
私の場合は、死ぬ勇気もなかったし、たかだか親のことで自分の人生を捨てるにはコスパが悪すぎると思えたことだった気がする。
結果的には、決断を先延ばしにしただけだったのだけれど、学校という社会の中で優等生というポジショニングに成功していた私は、そのまま学校生活を全うした。
自分を支えるものは、社会で役に立つ、承認されるということだったと思う。
私は中高ではおそらく優等生という枠で生きてきた。
受験勉強もなんとか乗り切った。
天才肌ではないことは自分が十分知っていたし、努力しかなかった。
帰国子女で英語ができる友人が羨ましかった。
私は英文を単語の意味と文法の構成で、機械的に内容を理解するしかなかったのに、帰国子女の子は、当たり前のように文章を楽しむことができる。
それになめらかで美しい発音で意見を紡いでいく。
私にはさっぱりだった。
自分の本音を思い出す
今思えば、そもそも英語も得意ではなかったし、
外人さんが真っ直ぐな瞳で「君の考えを聞かせて」というかのごとく見つめてくるのが怖かったのだと思う。
私には「自分の考え」が何かわからなかったから。
考えとは
私はこう思う、という簡単なことだと思う。
自分はこう感じる、このようにしたい、という自分の発信。
ただその頃の私は、それを公に話すのが怖かった。
考えに正解はないから何を言っていいかわからなかったのだと思う。
それはおそらく幼少期に、父と母の意見がいつも違うことからだった。
どちらが正しいわけではない。で、親はどちらが子供を味方につけるか見たいな水面化の駆け引きが存在して、私はそれを察知していたから意見を表明したくなかった。どちらかが悲しい顔をする。だから社会的に意見を求められたときに、常に両者の考え方というのが頭に浮かんでしまい、それをうまく折衷する方法はないかと思ってしまうために、当初自分が感じていたことがわからなくなってしまう。
物分かりの良い子供
大人びた子供
そんな言葉は褒め言葉ではない。
私は子供らしい子供になりたかった。
自分が感じるままに
自分が思うままに
それを自由に発言できて
それでも愛される
そうやって自分を成長させたかったし
みんなと仲良くしたかった
誰かが悲しむのも見たくなかった
みんなが幸せでいて欲しかった
パパにも
ママにも
(健気だな、私。思い返して書いていて泣けてくるわ)
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