我が子を看取る⑦ 母としての覚悟
セッションで、我が子の今回出生にあたる覚悟と想いを知ることができて、私も自分の役割を全うしなくてはいけないと思った。
「母として」というよりは、「私」はどうやってこの出来事に向き合っていくのかの如く、人生から私に何か問われているような感覚だった。
どうやって過ごしていたか
ほぼ精神修行?
それは日々の修行のようでもあった。
頭でわかっていても、気持ちはついていかない。
人は誰でも死ぬと思っても、我が子が自分より先に死ぬということを想像してしまえば涙が溢れた。
あの頃日々どうやって過ごしていたかといえば、平日は娘は保育園に預け、私は都心の職場に向かう。日々のタスクをこなすのに必死だった。
帰宅した後は、長女の大好きな「いつものママ」に戻らなくてはならない。
泣くのは、娘が寝付いた後だった。
そのときは私は役割を置いて、自分自身に戻り、赤ちゃんに話しかけ、そして泣いた。本当にその繰り返しだった。
当時の日記帳には涙が落ちて、よく字が滲んだ。
検査入院で辛かったこと
年明けすぐに検査入院もした。
代わる代わる専門の先生がエコーを見ていく。
母体の状況と赤ちゃんの現状を確認するためなのだろう。忙しい先生方がそれぞれのタイミングで診ることができるように私が入院しているんだなと理解した。
だからそれ以外の時間はとても暇だった(笑)
ただ入院の部屋は新生児室の目の前で、赤ちゃんの泣き声がしょっちゅう聞こえる。そのことが一番辛かった。病室は個室が選べず、他の妊婦さんと同じだが、おそらく管理入院で長く滞在しているような人もいた。
それでも赤ちゃんは元気に生まれるんだろうなと思うと、うらやましくて仕方なかった。私は赤ちゃんの泣き声を聞けるんだろうか。
本当だったら新生児服を見たり、いろんな準備を楽しむ時期なのに、何ひとつできない、自分には必要ないという状況が悲しかった。
妊婦健診エコー時間に考えていたこと
第一子の時は、そんなに長くエコーをすることは妊娠中一度もなかったので、この妊娠ではエコーの時間は私が赤ちゃんの顔を見られる時間だと思うことにした。
七年前と違って、エコーも進化している。
それに一緒に画面を眺めている時間も長かったせいか、私もなんとなくエコーからの様子がわかるようになった気がした。
その当時の赤ちゃんの課題は「脊髄膜瘤」というもので、背骨の終わりのところが体外に出てしまっていたことだった。いつも先生がその瘤のサイズを測っていた。
だけど、エコーの中の赤ちゃんは本当に元気だった。
今更教習所通いをする
それから車の免許取りに教習所に入所した。
これまで助手席生活でなんの問題もなかったのだが、赤ちゃんが生まれて病院通いするようなことがあれば、絶対必要だと思った。(この県立病院・・公共交通機関で通うには不便なんです涙)
周りはどう見ても18歳〜20歳。
それでも私は覚悟決まっているから堂々と通った。
妊婦で教習所きてもらっちゃ困るよねと内心共感しながらも、図々しく通った。
何か達成するものがあってよかったのかもしれない。
結局この免許が役に立つことはなかったが、妊娠中に赤ちゃんとやり遂げたことの一つだ。
母としての覚悟
長女(6歳)にも赤ちゃんの病気を伝えた
もうこの子が何の障害もなく生まれてくる可能性は低い、と思った私は、長女にもそのことを全て伝えることにした。
元々赤ちゃんが病気かもしれないとは伝えてあったけれど、その時長女はこういった。
それを聞いて、ああそういう言葉をちゃんと覚えていてくれるんだと思った反面、もうそんな願いすら私は持てなくなっている現実がまたひどく悲しく感じられた。
それで私が悲しそうな顔をしていたのだろう。
長女はもう赤ちゃんに関する悲しい話を聞きたくないと打ち明けてくれた。
母として涙を見せない決意
そして私はもう長女の前で悲しみを見せるのを止めた。
ただ悲しみを抑えて、幸せそうに振る舞うにもパワーが必要だった。
だけど「今幸せなんだというフリ」をすることは、その時の私にとって必要でもあった。長女にとっても次女にとっても私はもう「母親」だった。
その役割を放り出すことはできなかった。
母だって人間だもの
こうして夜中一人のときに、自分の中に湧き上がってくる悲しみを味わい
それと同時に、今あるこのおなかの幸せとありがたさも痛感する。
そんな毎日だった。
おなかは徐々に大きくなり、いつも就寝時に「ぎゅーして」という長女が
「赤ちゃんが真ん中なのね」とやきもちを焼くようになるぐらいだった(笑)
それはそれで私にとっては子供が二人いる現実を実感して泣けるぐらい幸せだなと思った。
時間は平等だ。
早めることもできないし、止めることもできない。
こうして一日一日が過ぎていった。