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我が子を看取る① 待望の赤ちゃん

2022年10月私は第二子を不妊治療の末に授かった。
当時40歳。第一子とは七歳差になる。
妊娠初期に胎児の先天性異常と重度疾患がわかり、もちろん産むか産まないかの選択も迫られた。
それでも産むと決めて過ごした十月十日。
生まれてきてくれて二日。
我が子を腕に抱いて看取った日。
悲しみに沈んで一年。

少し間は空いてしまったが、私と赤ちゃんの記録を残そうと思う。

私の人生このままでいいの?

長女はかなりのママっ子で、妹も弟もいらないの!と強く主張していた時期もあり、私自身も二人目を考えることもなく、仕事と子育てであっという間に数年経ってしまったのだ。自分の人生はタスクで埋め尽くされていた。
いい母であること、いい妻であること、いい娘であること、無意識のうちに頑張っている一方で、私の人生の方向性はこのままでいいのか、と自問自答を繰り返す。そんな数年だった。
やり残したことはないのかと考えた時に、「もう一度愛して愛されたい」そんな気持ちが湧いて、赤ちゃんを迎えたいと思った。


初めまして 不妊治療という世界

欲しいと思っても簡単にはできないということを知るのもこの時期で、私は卵管閉塞のための二人目不妊だったことがわかり、クリニックに行ってあっという間にステップアップすることになった。
自己流というか、基礎体温のタイミング法から解放されたことでほっとしたのも束の間、自分の身体の現状と不妊治療という世界を知ることになった。

偶然だったが、クリニックの向かいには長女を通わせていた保育園がある。
毎日のように保育園に子どもを預け入れていた身としては、子供が溢れていることを当たり前のように感じていたから、道路を一本挟んでまるで違う対岸の世界にきてしまったかのようだった。

今思えば当時から自分の状況も想いも、素直に発信していればよかったなあと思う。努力と金で解決できない世界にどれだけ適応できるか。それが問われる世界。プライベートでも不妊治療の話をすることもなく、SNSで仲間を作ることもなく過ごした。だけどクリニックの待合室では、静かに待っている女性に勝手に連帯感を感じて、心の中でお互い頑張ろうねと思ったりしていた。

ちなみに私の夫は不妊治療には協力的だった。
元々第二子が欲しいと言っていたからということもある。ただ自然妊娠が難しいと告げても、それだけはあまり納得していない感じもしていた。どこかで普通にできるんじゃないかと最後まで希望を捨てていなかった(苦笑)

クリニックの先生は本当に穏やかで、看護師さんもいつも優しかった。
対人関係ストレスを感じることなく、淡々と通った。
当時は保険適用に移行するようなタイミングで途中から保険適用になった気がする。それでも二回の移植で成功し、クリニック卒業することができたのだ。

不妊治療という世界を終えて

約一年。不妊治療という世界の出口の見えないトンネルを通るということはどんな気持ちか理解した。お金と時間をつぎ込めば成果が確約されているわけではない理不尽。私は待つという時間を思い知らされた。


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