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真相が解明されないミステリー『ゾディアック』

映画は結末が重要なのだろうか。ラブストーリーなら恋人になり、アクションなら悪党を退治し、ミステリーなら謎が解ける。映画とオチは常にセットで考えられるし、「ラストが残念」等の感想文も散見される。私たちは映画を観るとき、知らず知らずのうちに、主人公達の世界に没入している。2~3時間の物語に感情移入させられた観客は主人公の見届け人といっていい。結末がいい加減だとしても、他人事とは思えず納得できないのである。

『ゾディアック』は、結末が限りなく曖昧なミステリー映画だ。
物語は、カリフォルニア州バレーホで若いカップルが何者か殺害される事件から始まる。一ヶ月後、新聞社に「ゾディアック」と名乗る犯人から、謎の暗号と自らが犯人であるという証拠として警察しか知り得ない情報が記載された犯行声明が送られてくる。

サンフランコ・クロニクル紙に勤める記者ポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)と風刺漫画家のロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)は事件の真相を掴むため取材を始める。同じ頃、サンフランシスコ市警のデイブ・トースキー捜査官(マーク・ラファロ)も犯人を追うが捜査は難航する。ゾディアックの犯行声明文と連続殺人はその後も止まらず、手も足も出ない状況が続く。

長い年月が経ち、警察の捜査体制もすっかり縮小され、記者のエイブリーも薬物と酒に浸り新聞社を退職してしまう。漫画家のグレイスミスだけは独自の調査を続け、ゾディアック事件を纏めた本の執筆を始めるのであった。

暗号解読や筆跡鑑定、ミステリーの要素はしっかり抑えられ、158分という長尺を感じさせない見応えのある作品だ。だが、実際に起こった未解決連続殺人事件を題材にした作品なので「犯人を逮捕する」というカタルシスが用意されていないのは当然と言える。もし、映画は結末が全てであり、結末はミステリーの綺麗なオチ(殺人犯逮捕までの道筋)によって判断されるべきという視点で考えると、本作は間違いなく駄作だろう。

しかし、この本作はアメリカで最も有名な未解決事件とも言われている題材だ。観客も犯人が逮捕されていないのは百も承知である。デヴィッド・フィンチャー監督をはじめ製作陣も勿論、ミステリー映画を作る気は一切ない。描きたかったのは、「ゾディアック事件の真相」ではなく「事件に取り憑かれた人間たち」だろう。

絵本作家のグレイスミスは、家族そっちのけで取材や解読をする描写、警察のトースキーは、妻との就寝中に電話で起こされる描写、記者のエイブリーは酒やドラッグに溺れる描写を三者それぞれ多用することで崩壊していく様子を見せつける。仕事も辞め、キャリアに傷がつき、家族の絆も断絶される。謎を解く代償として、あまりに酷い仕打ちである。
また最初は凶悪な犯人を捕まえるという正義感が、いつしか謎を解きたい(そして早く解放されたい)という私情に嵌っていく構成も見事だ。

映画は本の出版(本作の原作でもある)という結末を用意してはいるが、本作は結末の良し悪しに左右されないタイプだ。スタンダードなミステリー映画とは異なり、謎を解く側を客観的に映し出している(苦悩をキャラクターに大袈裟に語らせずに描写で暗に示す)。また本作はミステリー映画に付き物である「謎解き」という視点に深みを持たせた。謎への執着は人間を狂わせるという代償もしっかり示している。

先日見た『新聞記者』にも通じるが、社会的に意義がある何かを暴き世の中が少しマシになったとしても、当の本人は代償を払うことになる。あまりにやるせなく感じてしまう『ゾディアック』は、ひどい現実を描いているような気がする。

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