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【連載】「いるものの呼吸」#7 演技と幽霊 町屋良平『生きる演技』

 幽霊、場所、まだ生まれていないもの――。目に見えない、声を持たないものたちの呼吸に耳を澄まし、その存在に目を凝らす。わたしたちの「外部」とともに生きるために。
『眠る虫』(2020年)、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)など、特異な視点と表現による作品で注目を集める映画監督・金子由里奈さんの不定期連載エッセイ。
 第七回は、町屋良平著『生きる演技』について。今年三月に刊行された傑作長篇小説を、金子さんの演技観・幽霊観から読み解きます。
*本文中に『生きる演技』の内容に関する記述があります。

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 社会性とは演技で、友達の前のわたしとひとりでいる時のわたしは全くの別人なんだよね、なんて言ったりすると「そんなんみんなそうだよね」と返されそうだけど、だけど、なんで「そんなんみんなそう」なのだろうか。わたしたちはなにに要請されそういう「演技」をしているのだろう。その「演技」を要請するなにかを、読者を全く新しい視座に立たせることで現前させる小説、町屋良平の『生きる演技』(河出書房新社)。フィクションの「ほんとう」を胃液すらでなくなるまで吐かせた一つの到達点であった。苛烈な読書体験でわたしの身体を変えてしまった本であることは間違いない。
 わたしは町屋良平の文体が、自己同一性の葛藤が、諦念が大好きだ。その身体感覚。身体と心の反復横跳び、リズム、男と男(大江文学にも通ずる!)、幽霊、そして暴力。町屋良平の文体は語り手の中にいる語り手が身体からはみ出たり、流動したり、場にズレたり、そういうゆらぎと共に生き生きとそこにあるかんじ。だからこそ、言葉がわたしの身体に浸透してからざわめきだしておもしろい。

 町屋良平は書けば書くほど霊性が強まる作家のような気がする。書けば書くほど幽霊が寄ってくるというか。『ふたりでちょうど200%』(同前)は本の外にある霊たちの囁きを物語に取り込むような構造で、同時にフィクションとして登場人物が生きることの存在論的寂しさを途方もなく感じられるようになっていて、『恋の幽霊』(朝日新聞出版)では4人の人物がないまぜになった身体で紡がれその関係性の中に幽霊を生み出し、そして『ほんのこども』(講談社)ではそこに作家自身の身体すらも巻き込み、フィクションと常に隣り合わせの暴力を読者に問いかけた。さいきんの町屋良平の本の地層は深く大きくなっていき容易に飛び込むことができない印象すらある。
『生きる演技』の語り手は演技経験があるふたりの男子高校生。一人は元子役のざきよう。かれは場に敏感だ。幽霊も見える。場にいる「われわれ」に意識を集中させればすぐに泣く芝居とかできる。
 もうひとりはささおかいつき。彼は自分のことをフィクション化することで社会と接続するような炎上系俳優である。かれは「昔から警官を見ると腹の底から怒りが込み上げてき、」「しね」と言ってしまう。
 そんな二人が高校で出会った。物語は「かれ」という人称によって、ふたりを交差しながら進んでいく。「かれ」以外に「われわれ」という奇妙な人称が冒頭で登場し動揺する。なにか得体の知れないものが背後にいる感覚。
 笹岡は生崎からも「われわれ」からも嫌われている。なんでかっていうと、その場に要請されている「演技」をしないから。簡単に言えば空気が読めない。わたしたちは、空気とかそういう「場」になにを求められているかを習慣化されたその社会性で身につけてしまっている。

 いま思い出した話をするんだけど、銀兵衛の「ドーナツ」というネタがあって。みんな生きるのしんどいよねという小松海佑の共感から始まるそのネタは、何歳の時までが幸せだったかというと、「3歳と4歳のあいだ」だという。3歳と4歳の間、あなたが、道端で親にドーナツを見せながら「なんでドーナツって穴空いてるの?」と聞いた瞬間。それは出来事が先にあって、それとハイタッチして自然と出てきた言葉だという。いままでは純粋に疑問があったら親に聞いていたけど、その出来事とハイタッチした瞬間から、「子供としての役割」で発言する。そこからわたしたちは地獄を育てるのだという。これは「われわれ」に要請された演技をするそのはじまりであるのと通ずるし、「出来事とハイタッチ」というのは、それを親と会話をする子供としてそのシーンを客観的に認識してしまった瞬間なのだと思う。
 生崎と笹岡は、正反対のようだけど、「演技」を常態化していて、「家族」という物語を憎んでいる。
 やがて、ふたりは同級生たちと文化祭で戦争、立川の米軍俘虜虐殺事件をテーマに演劇をすることになる。
 この演劇のテーマも一体誰が決めたのだろうか。生崎なのか。笹岡なのか。読書感想文を書いたクラスメイトの市井なのか。読書感想文を市井に書かせた幽霊か。それとも、町屋良平か。今日の世界情勢がそうさせたのか。
果たして、フィクションとしてここにあるものは作者によって自発的に「書かれた」ものなのだろうか。なるほど、わたしから出てくる物語がわたしそのものの声帯の震えなんてことはこれまでたったひとつもなかった。それはいつだって、他者によって、場によって、「われわれ」の震えによって響く声だ。

 最後の数十ページ。本が殴ってくる。私の中にいる私がその衝撃によって肉体からはみ出たのが見えた。そうやってはみ出たわたしが場を飲み込んでまた、身体に戻っていく。これ、生崎がやってたやつ。読むのがこわい。殴る方の言葉が、摩擦熱を帯びながら赤く腫れているのがわかる。そして、いよいよ本が終わりそう。笹岡のあの行動は『万延元年のフットボール』における「本当のこと」を遂行し、濱口竜介の「はらわた」をやっているのだと思った。
『カメラの前で演じること』(左右社)で濱口竜介は「自分が自分のまま、別の何かになる」ことは「起こり得ないのだが、万に一つ起こり得るとしたら、それはたった一つの場において起こる」と言い、それは「演者が自身の『最も深い恥』に出会う場だ。社会の目でなく、ただ自分自身による吟味がなされる場だ。それは日常には現れない自分自身の深部として『はらわた』と呼ぼう」と説明している(P.53)。『生きる演技』にもこの「恥」という言葉は頻出する。笹岡は恥とタイマンしたから小説の最後であの行動をしたのだろう。
 そして、物語は小説の最後のページがそうであるように風みたいに過ぎていき、あっけらかんとした場だけが残った。この部屋でエアコンが効きすぎていたことに読み終わってやっと気づく。外ではセミがカラカラと音を立てて死に急ぎ、リサイクルショップで天板が曲がっているからって破格で買ったテーブルのその歪みに含まれる重層的な記憶が呼び起こされ、前の住人の息がして、家が立つ前に死んだ数多の生活たちがそこにいた。

 そういえば最近、友達が言っててびっくりしたことがある。友達は「映画とか小説って、知らない人が何かやっていることに興味を持てないからどうでもいい」と言っていて、その視点がわたし自身すっぽりと抜け落ちていたこわさに衝撃が走ったことがあった。確かにそうなのだ。生崎はそのことを知っている。そういう登場人物は幽霊であり、「けっきょく生きてる人間のため」に存在することを知っていて、「生きてる人間になにかを感じさせる? 与える? シンプルなとこでは感動とかな。そういう何かを与えるために、ここにいない人間になりきるって、ちょっとえぐいよな。なんか、映画とか作品を見てる人間に、おまえらちゃんと人間じゃないよ、おまえら、人間にはなんか足りないよ、って、言ってるみたいな気分。すげえ独裁者? みたいな」と語る(P.273-274)。
 本も、小説も、まったくの他人がそこでただ「フィクション」の物語を映すことが、現実にどう作用するのかという視点だけで私たちは見ている。他者なのにフィクションの中にいたら、土足で踏み込んでどう捉えてもいいとでもいいように。
 そういうふうにフィクションの中の幽霊たちは現実のわたしたちの心を実際に動かしていることを知らないし、知る由もないのに、ただそれだけのために存在させられている。「面白さ」の暴力とともに。いままでもこれからもフィクションを扱うわたしに、無視できてしまっていたことを突きつけられた。
 ああ、この本を読むまで無視できていたはずのいろんなことの気配から逃れられなくなる。これからわたしは幽霊にかこまれて生きていて、その幽霊すら自分が見たいように見て、幽霊がいなくなったことも気づかない。本当のことなんてひとつも言えない。演技ばかりして死んでいく。そういうことを考えているとなにか茫漠とした虚しさみたいなのが襲ってくる。
 でも、明るい。なんでかっていうと、警察にヒロケンとの会話を邪魔された生崎が」「しね」と連呼したことが明るい。かれは何度も何度も警察が困るくらいに連呼した。生崎は笹岡の笹岡性をいつの間にか受け渡されていた。受け渡された生崎は笹岡を模倣する。笹岡を演じる。また、本の最後で笹岡が原民喜の本を読んで、言葉を紡ぎたくなるのも、原民喜を受け取ったからだろう。だから、わたしたちの社会は明るい。
 人の恥は、優しさは、怒りは伝播する。わたしのやさしさはだれかの模倣であり、社会運動だって友達の模倣からはじめた。そうやって社会は変えられるかもしれない。だってわたしたちはみんな演技ができるじゃないか。

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著者:金子由里奈(かねこ・ゆりな)
東京都出身。立命館大学映像学部在学中に映画制作を開始。山戶結希 企画・プロデュース『21 世紀の女の子』(2018年)公募枠に約200名の中から選出され、伊藤沙莉を主演に迎えて『projection』を監督。また、自主映画『散歩する植物』(2019年)が PFF アワード 2019に入選し、ドイツ・ニッポンコネクション、ソウル国際女性映画祭、香港フレッシュ・ウェーブ短編映画祭でも上映される。初⻑編作品『眠る虫』(2020年)は、MOOSIC LAB2019においてグランプリに輝き、自主配給ながら各地での劇場公開を果たした。初商業作品『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)は、大阪アジアン映画祭、上海国際映画祭で上映されるほか、第15回TAMA映画賞最優秀新進監督賞を受賞した。

バナーデザイン:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)


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