【後編】大森時生×品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)『IMONを創る』復刊記念対談「IMONを再起動(リブート)する」
2024年2月17日、いがらしみきお著『IMONを創る』の復刊を記念して行われた大森時生さんと品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)さんの対談「IMONを再起動する」(於・SCOOL)の模様を二回に分けてお届けします。
2023年末、30年の時を経て復刊された『IMONを創る』。デビューから近作『人間一生図巻』に至るまで、人間とその世界の実相を描き続けるいがらしみきおさんの、時代をはるかに追い抜いた思想の核心が書き込まれた本書を大森さんと品田さんとともに読み解きます。(前編はこちら)
▼「ほっといてくれ!」が不可能な現代/ハリウッドザコシショウの凄み/結局「楽しく生きるには」が書いてある本
大森 もう一つめちゃくちゃいいなと思ったフレーズが、帯の裏にも書いてある「やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!」。これはいがらしさんの事務所の社訓で、乗代雄介さんが座右の銘にするのも分かります。
品田 でもこれを全部やるというのは、なかなか難しい。さっきの「自分の役割として固定化されているものを演じ続けてしまう」というのは、この「なんでもやれ!」の部分が怪しくなっている状態ということですね。
大森 僕は、この中で今一番難しいのは圧倒的に「ほっといてくれ!」だと思っていて。「やめるな! 一生やれ! なんでもやれ!」だけでいうと、実は迷惑系YouTuberとかでもやっていると思うんですよ。「何でもいいから目立つんだ!」という強い目的をもって、異常な行動力でなんでもやっている。やっていることは最悪中の最悪ですけど、全力で生きている感じがあって、すごく目が生き生きしている。
品田 確かにね(笑)。
大森 暴露系YouTuberもそうですけど、「人生ここで燃え尽きるんだ!」という覚悟を感じる目をしているというか、「ここが俺の人生の頂点や!」という表情をしているじゃないですか。
品田 私人逮捕の人とかもそうですよね。
大森 それをやっていった先に最悪な結末が待っていることは本人たちにも分かりきっているはずなのに突き進んでいってしまう。でもそれは、自分の中の「良い」を突き詰めて刷新していく行為ではなくて、単純にインプレッションを集めるためにやっていることだから、「ほっといてくれ!」とは真逆だと思うんです。
品田 「これを公開したらこういうコメントが来て、これくらい再生されるだろうな」という。
大森 「炎上するけど広がるし、ほめてくれる人はいないけど再生数は30万とか40万とかいくだろう」ということを想定して、それを実現させるための行動。でも「ほっといてくれ!」というのは、誰も見ていないとしても自分の中の「良い」を追求して何かやってみて、そのうえで見つけた改善点とか手ごたえをコツコツ積み重ねていく行為だと思うんですよね。
ハリウッドザコシショウさんは、実はヒカキンより早くYouTubeを始めているんですよ。
品田 それってすごいことですよね。ヒカキンもかなり早かったですけど。
大森 当時はYouTubeというものをそもそも誰も見ていないし、しかもザコシショウさんもまったく売れていなかった時代だから、再生数はほぼ0だったはずなのに、今やっていることと同じ「しょんべんが」とか……(笑)。
品田 「運棒が」とかね。
大森 それを一人で刷新し続けた。「この『しょんべん』よりこっちの『しょんべん』の言い方の方が良いぞ」みたいなことを、ちゃんと研磨している。
品田 ずっと同じことをやっているんだけど、その「同じこと」の中に実は変化がある。本人の中にOSとソフトウェアがちゃんとあるんですよね。ただ変換しているだけではなくて。「やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!」はハリウッドザコシショウのことだったのか(笑)。一番IMONに近いのはこういうスタンスかもしれないですね。
大森 この前恐山さんが「これすごくないですか」って送ってくれた動画、なんでしたっけ?
品田 HASAMI groupというミュージシャンの方がYouTubeのチャンネルに毎年載せている「YouTubeベストビデオ100」というまとめで知った動画ですね。「ベストビデオ」といってもミュージックビデオとかそういうかっこいい動画のまとめではなくて、世界中の一般の人が載せている再生回数60くらいの、どうやって検索してこれにたどり着いたんだ? というビデオの「なんかいいよね」というところを集めたもので。
大森 言うなれば、まったくバズっていないてんどんまんソロをいっぱい見つけてきているという感じですよね。
品田 そう。てんどんまんとかちょんまげ小僧とか、ああいう心の中に最初からあったような、世界のどこかで展開されていたけど誰も見ていなかった風景。そういうものが集められた中にランクインしていた動画で、めちゃくちゃ良いのでフルバージョンが見たいと思って見てみたんです。たしかチャンネル名が「ひこうきTV」っていうんですけど。
大森 (笑)。
品田 後ろに田んぼが広がっている田舎の夕方の光景の中に、段ボールで作ったロボットを被った子供が登場して、さらに別の子供が横から出てきて、「私はなになに博士じゃ。今からこのロボットを動かしてみるぞ!」みたいなことを言って、演劇のようなコントのようなものを2分くらいやる。妹らしき子供も登場して。
大森 家族総出で(笑)。
品田 最後にどこからかか細い音楽が流れてきて、地平線の方向にみんながロボット歩きで帰って行って、夕方の影が長~く伸びていくという……(笑)。
大森 よくたとえで言われる「夢の中みたいな」ということじゃなくて、ほんとの夢みたいな映像でしたね。
品田 いい感じの昼寝をしている時に見る、懐かしくて起きたら泣いているときの夢というか。あれはぜひ見てほしいですね。
大森 ああいうものを作ることもそうですけど、それを集めている「ベストビデオ100」も「やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!」に近いですよね。なんらビジネス的な価値はないし、大バズすることもない。なぜならその人が「なんかいい」と思っているだけだし、明確に笑えるとか感動するとかでもないから。あくまで固有の感覚の積み重ねで毎年「ベスト100」を作るような行為って、簡単に言うと「楽しく生きる」ためにすごく大事な考え方だと思うんですよね。
品田 そう。いろいろ言っているんだけども、結局『IMONを創る』は「楽しく生きるためには」ということが書いてある本だと思います。「ほっといてくれ!」の精神を維持するんだけど、でもそれは例えば企業の公式アカウントに半年間粘着するといったようなことではない。そこには、自分のやっていることへの検討がないから。
大森 そうですよね。「(笑)」にも繋がりますけど、自分の中に基準があって、自分のやることを俯瞰しつつそれを刷新し続けていくということがないと、IMONではない。
品田 そこが単なるパラノイア的な状態と、「いい感じに狂う」ということとの違いというか。「いい感じに狂う」ための方法を知っておかないと、ChatGPTが考えた倫理観で生きなきゃならないしんどい時代が到来しそうな気がします。
大森 そうですね。自分の中の「いい」という感覚とか感情をいかにアウトソーシングしすぎないかが、これから楽しく生きるためには大事だと思います。
この前、芸能人の方が雑談しながら悩みを相談し合うみたいな番組に対して、「この悩み、分かる!」と共感する感想を見かけたんですよね。でも悩みって各々のものだし、自分で考えて向き合っていくべきものなのに、他人の悩み、しかもコンテンツとして作られている以上、無理やりその番組のために作ったのかもしれない悩みに乗っかるというのは、それでいいのか? と思ったというか。
品田 それもこの前話しましたね。私はそれを「繊細さのアウトソーシング」と言ったような気がします。「自分で思ってるよりも、自分は繊細である」と思いたいときに、そういうコンテンツとか芸能人の人は利用されている感じがする。「分かる」と言うことで、自分も繊細な気がしちゃうというか。
▼「感情のカーナビ」としてのワイプ/『千鳥の相席食堂』の構造/「余地」としての「(笑)」
品田 10年前にマツコ・デラックスさんが引っ張りだこになり始めたときも、似たようなことを思ったんですが、マツコさんがなぜあんなにテレビに出ているかというと、あの人は多分「視聴者のアバター」なんだと思うんです。
大森 うんうん。
品田 昔みたいに、テレビでやっている内容を視聴者が素直に受け取ってくれる時代ではない。「どうせヤラセなんでしょ」とか、「めちゃくちゃ美味しそうに食べてるけど、たいして美味しくないんでしょ」とか、みんなお茶の間で意地悪く言うわけじゃないですか。そこでマツコさんという、もともとテレビの業界の人ではなく、なおかつ、あえて言えば「男性でも女性でもない」人をフレームの中に入れると、外部の視点が持ち込まれる。だから視聴者は「あ、マツコと考えてること同じだわ」と言って気持ちよくなれる。
大森 なるほど。しかもマツコさんは、「そもそもこういう企画をすることがテレビの傲慢だよ!」みたいな、テレビという舞台から降りたコメントをする方ですよね。それまでは視聴者がテレビの外で言っていたメタな視点からの発言をテレビの内部でし始めたという人だから、そこに乗っかることができる装置として機能しているという感じでしたね、マツコさんが登場された時は。
品田 多分それもあってめちゃくちゃ需要があるんだと考えると、ちょっと怖くなりますね。私たちの自意識というのは、どこまでメディアに解体され、攻略されているんだろうかと。
大森 テレビでいうと、ワイプというものがそもそもそうですもんね。
品田 あ、そうかそうか。
大森 例えば誰かがロケに行って大変な思いをしている動画を、本当はワイプなんてものを入れずに見てそれぞれ何かを思えばいいはずなのに、テレビの内部の人は「それだけだと視聴者は自分の感情が分からない」と思っているからワイプを入れているわけじゃないですか。だから有吉さんが笑っているワイプが入っていて、「ここが笑うところですよ」と分かるという感情のガイドが埋め込まれている。でもそれってよく考えると「舐められたもんだな」って話じゃないですか。
品田 テレビ業界の人なのに、そんなの言っていいんですか?(笑)
でも確かに、あれは「譜面」ですよね。「この順番で、この井森美幸と同じ顔をしろ!」という。
大森 そうですね(笑)。「井森美幸さんが驚いている顔を、お茶の間の皆さんも一緒にしましょう」ということですからね。
品田 そう言われると、ワイプってすごいシステムですね。日本のテレビに特有のものなんですかね?
大森 海外だとあんまりないのかな? どうなんだろう。
でも、すごく悲しい、不幸なVTRの上でワイプの中の井森美幸さんが笑ってたら、つられて笑ってしまいそうじゃないですか?
品田 ああ、確かにね(笑)。
大森 それぐらいワイプというものには引力があるというか、人間が内面のアウトソーシングをしてしまう傾向にものすごくマッチしているシステムだから、怖いですよね。
品田 ワイプ論で本が一冊書けそう。視聴者としては天から降ってきたようにもともとそこにあるものだと思っている節がありますけど、あれは人が入れているんですもんね。
大森 そうですね。しかも6人くらい出演者がいたら、その中の一人がワイプに抜かれていることが多いじゃないですか。それがどういう基準で選ばれているかというと、「この時にはこの顔だよね」という表情をしている人を選んでいるんですね。中には収録で疲れちゃって、眠そうだったり退屈そうにしている人もいると思うんですけど……。
品田 (笑)。
大森 「ここは笑ってもらうシーンだよな」というところで、微笑んでるAさんとにっこり笑ってるBさんがいたら、やっぱり感情のガイドとしてBさんが選ばれる。だから本当に、カーナビみたいなものですよね。
品田 感情のカーナビ(笑)。最近、ビビる大木さんがYouTubeチャンネルか何かで『トリビアの泉』のレギュラーだった頃の裏話をされてたんですよ。あれはほぼVTRを見る番組じゃないですか。その検証VTRを見ている時に、ワイプの中のビビるさんが「あっ、〇〇だ!」とか「あっ、〇〇じゃん!」とか、めちゃくちゃちょうどいい感じの、視聴者目線のコメントをするんですって。それのおかげでかなり番組が面白くなっていたらしくて、ビビるさんの「あっ!」の部分だけ単独で別撮りしていたという話で。
大森 そういうことになるくらい、「視聴者は感情のカーナビがないと分からない」ということになっているというのが良くないところだなと思いますね。
品田 なるほど。でもテレビのいいところとして、ちゃんとアンチテーゼ的な思想が生きているということがあると思います。大森さんの作る番組も、定型的なジャンルや番組に対するパロディの形をとったカウンターというところがありますよね。他でいうと、例えば『千鳥の相席食堂』は旅ロケ番組のパロディじゃないですか。
大森 そうですね。
品田 普通の旅ロケをタレントにやらせて、わざとグダグダになった部分だけ残したりとか、「その反応おかしくない?」というところとか、変な素人が出てきたところで千鳥がツッコミを入れて止めますよね。あれも、テレビ側が用意した「こういう風に感心しろ!」とか「海鮮丼食べたいって思え!」という、一種類の受け止め方しか許さない作り方に対する「ちょっと待てい!!」でもあって。千鳥さんは「いや、私はこっちからツッコむ」みたいなアンチのスタンスが上手いから採用されているんだと思う。
大森 ああいう構造にしているから、VTRの方もなんでもいけるようになっている。それこそ前に恐山さんが仰っていた、誰かの回で急におじさんを肩車したおじさんが現れたシーンとか……(笑)。
品田 コウメ太夫さんの回ですね。
大森 それって普通だったら、わけが分からなくてみんな困惑するからカットされるところなんだけど、千鳥さんというセーフティネットが機能しているおかげで堂々と放送することができる。
品田 テレビってめちゃくちゃ上手くカット編集されているから、ずっと見ていると現実がいかに混沌としているかを忘れそうになるんですけど、実際はもっとヤバいことや変な人がカメラに写ったりしているんですよね。私は最近仕事で動画を作るようになってから、世の中どれだけ多くの救急車とパトカーと選挙カーが走り回っているか、いかに多くの道路工事が行われているかに初めて気づきました。テレビってまるで、この世にそれらが存在しないかのように編集されていますよね。
大森 あと、誰も言いよどんだりしないですしね。カメラ6台とかで同時に撮っているから、どこかをごっそり抜いても画がつながるし、音も専門のMA室できれいに編集できてしまう。そういうかりそめの完璧さがいっぱい作れてしまうというのが恐ろしいところだなと思いますね。
品田 編集された完璧な現実。いっぱい見てるんでしょうね、いろんなタレントさんが本当はそんなに面白くないというところを。
大森 逆に言えば、本当に一線級のお笑い芸人さんは現場で見ると腰抜かしますよ。面白すぎて。
品田 現場だとその差がそのまま出てしまう。それが現実ですもんね。
大森 無理やり話を戻すと、現実というものがいかに混沌としたものかを一度ちゃんと受け入れなきゃいけないということですね。
品田 現実への恐れから、どうしても編集されたものを見てしまうというのはかなりあります。でもずっとそうしていると、自分の今の考えが、どれくらい自分のものなのかが分からなくなってきてしまう。だから『IMONを創る』のような、造語満載の本を一冊書ける胆力が、今の自分に残っているだろうか? と考えてしまいます。
大森 本当は「考えている」ということ自体が、いろんな感情や思想や言葉がぽわぽわとあって、それがなんとなく接続し合って自分の中で生きているわけじゃないですか。
品田 そうですね。
大森 でも今は、分かりやすく整った意見として提出することばかりが求められる。そうなると、それをまとめる作業の過程で、実際に自分の中にあるぽわぽわしたものじゃなくて、どこかで見たり聞いたりした意見や発想をアウトソーシングしてくるということになってしまうんじゃないかと思います。そうやってこしらえたものをアウトプットした時点では、そのうちの何割が自分から出てきたものなのかが自分自身にも分からなくなっている。それは怖いことだなと思いますね。
品田 もうネットが個々の人格の一部を担ってしまっている感じがありますよね。最近びっくりしたというか、何それと思ったのが、麻生太郎さんが上川陽子さんのことを「おばさん」と言ったと。それで怒られて、「撤回します」と言ってたんですが、「それって何を撤回しているんだろう?」と思ったんですよね。「じゃああなたは、もうおばさんだと思っていないってことですか?」となっちゃうじゃないですか。
大森 そんなわけはないですもんね。人間が思ったことは消えるものじゃないから。
品田 単純にその発言がめちゃくちゃ失礼であるということは別として、それに対して「撤回をする」という落とし前しか残っていないこの世というものの地獄性も感じるというか……。
大森 言葉としてアウトプットされたもの=頭の中の思考として扱われていることに苦しさがありますよね。実際はまったくイコールではない別物なのにそれらが同一視されているから、前者を「撤回する」ことによって後者も脳内からデリートされたということに無理やりなってしまっている感じがする。
品田 それは良くない意味で、コンピューター的な気がしますね。ビッブでもないし、IMONでもない。『IMONを創る』の最後の方に戦争をなくす方法が書いてあって、それはなにかというと、「やめる」(笑)。「やめればなくなるのに、なんでやめないのか」ということが言われているんですけど、でもそれは冗談じゃなく本当にそうだなと思うんですよね。やめれば終わるのにやっちゃう、というのは、「やるべきだ!」とか「仕方ないんだ」という議論の余地のない姿勢が、人とか物を動かすトップ層に深く染みついていて、「(笑)」がないんだろうと思います。
大森 お話を聞いていて思ったんですけど、「(笑)」というのはそういう「余地」のようなものかもしれないですね。今は基本的に、余地がなければないほどいいとされているじゃないですか。すべての空白が埋められて、あいまいなところが消えれば消えるほどちゃんとしたものだ、という。でも「(笑)」という、なんだかよく分からない余地が残っていることが、楽しく生きるのには大事ってことなんでしょうね。
品田 そうなんでしょうね……。そんなことしなくていいのに、その時間を空白にしておけばいいのに、どうしても変な炎上とかを見に行っちゃたりしますよね。
大森 本当にどうでもいいことのはずなのに(笑)。
そういう炎上に対する反応でも、日頃SNSとかからの入力に対して「むかつく」とか「かわいい!」とか「感動!」で即座に打ち返すことに慣れすぎていて、例えば対立している二人が本当は50:50で両方悪いかもしれないのに、どちらか一方が「なんかむかつく」と瞬発的に思われることで100悪いことになって、余地がなくなってしまう。
品田 どちらかというと私は、他者を「なんかむかつく」と思ってしまうことはどうしようもないと思うんですよ。そこはI-IMONの世界だから。でも、「なんかむかつくな」という人がいた時に、その人がG-IMONの領域の、儀礼的な意味でのヘマをするまで見張っていて、その瞬間に「やったやった! 今こいつ、これをやりました!!」と言い立てることって、本当はただなんかむかついているだけなのに、形式上はルール違反への糾弾になるわけですよ。でも一方で、「なんかむかつく」を言えないことになっていくのも同じくらい問題だと思います。
大森 なるほど。そういう傾向もあるから、問題化できる瞬間を逃すまいとなっているのかもしれません。
品田 「なんかむかつく」と言うのはダメだけど、「ルール違反したからふん縛れ!」はアリな世の中になってしまうと、ルール違反をした時の破裂が大きくなってしまうということですね。
……そろそろお時間なので、このあたりで質疑応答に入れればと思いますが、何かありましたらどうぞ。
▼ 会場からの質問①
会場 インターネットはこれからどんどん閉じていくという話が一時期あって、Discordのサーバーが盛り上がっている雰囲気があると思います。例えば恐山さんのサーバーだと、スタンプがうごめくエビになっていたりとか、そういう閉じられた空間と決められた秩序の中で無秩序になっていく、というようなことは『IMONを創る』でも書かれているんでしょうか。
品田 私はDiscordというサービスで掲示板コミュニティのようなものを運営しています。ウェブの検索に引っかからない、一種のディープ・ウェブですね。それはどちらかというと、いがらし先生がやっていたパソコン通信みたいに、その当時としては開かれていたけど、今から見ると閉じているコミュニティへの憧れが私の中にあって、そういうものがまた出現しないかな、と思ってやり始めたというところはあります。これは私だけじゃなくて、そういうふうに開かれたインターネットを一回みんながやめ始めているのかもしれないですね。そういう動きは感じますか?
大森 そうですね。今のお話を聞いていて感じたんですが、お笑いとかも今そうなっている気がします。ちょっと前まで、一番みんながお笑いをやっていて面白かったり力を入れていた場って間違いなくテレビだったと思うんですけど、今はライブシーンに戻っている動きを感じます。
品田 そうですか。
大森 お笑いの文脈は人が集まった劇場にしか存在しないというムーブメントは、かなりネットのそういう現象に近い。テレビは老若男女いろんな人が見ていて、いろんなリアクションが来るし、テレビディレクターも「みんなが見てるからこういうふうにしましょう」とか「こういう編集がある」ということを言うんですが、それは芸人さんたちが本来やりたかったことから離れていって、なおかつどんどんクローズドになる。それが進行していくのは、『IMONを創る』で言われている、リアルタイム性が失われて淀む状態になっていくことだと思います。
品田 でも『IMONを創る』が出てから30年後の未来を生きている私たちは、完全に開かれたインターネットが「淀む」状態よりひどいことになるということを知っている。既に二回の失敗を経験している私たちは、第三の場としてどういうものを作れるのか? ということは、ザッカーバーグもまだ知らないことだと思うんです。
どうしたらいいのかなと思うんですけど、私がコミュニティの管理人をやるときに心がけているのは、なるべく理不尽でありたいということですね。「なんか厭だな」と思ったときに、「なんか厭だから」という理由でBANしまくっているんです。
大森 なるほど。
品田 そこで厳密に「こういう言葉を使うのはダメです」とか言うと、ギリギリを突くやつが現れたり、そのルールを笠に着た人が「このルールに違反してます!」と言い出して権力を持ち始めたりする。だから私は、荒ぶる神として気まぐれに拳を振り下ろしてますね。
大森 天災として(笑)。
▼ 会場からの質問②
会場 自分は「(笑)」のイメージが全然つかめないままに『IMONを創る』を読んでいて、最終的に「明るい」というくらいの言語化で終わりになってしまったんですが、先ほどの「余地」というお話を伺ったときに、「明るくて落ち着くんだけど、なんにもない白い空間」みたいなイメージが浮かびました。お二人の中では、キャンバスの余白みたいな、範囲が定められた中での余白なのか、広がっている草原みたいな空間的に広がっているような感じなのか、どっちに近いイメージなのかお聞きしたいです。
品田 空間的なイメージというのは面白いですね。「明るい」というのも大事なポイントだと思います。あんまりちゃんと対象化されていないことですけど、「根が明るい」というのは一体どういうことなのか? とか考えると、意外となにも分からない。
大森 「(笑)」は、仰ったように明るくないと成立しないことだと思いました。でもイメージでいうと、なんなんだろう。
品田 空間のイメージからは離れるんですけど、ふと思い浮かんだのが高校生とかが「この先生、語尾にめっちゃ『ね』をつけるな」と気づいたときに、ノートをとりながら端っこに正の字で「ね」の回数を数えているみたいな、「集中してない感じ」に「(笑)」性を感じます。
大森 集中してない感じもそうだし、ノートに全く関係ない正の字が書いてあるというのも余白性があるというか。
品田 『IMONを創る』という本もそうですよね。本文が上にあって、下の余白にどうでもいい注釈がいっぱい書いてある。
大森 ちゃんと関係あることももちろん書いてあるんですけど、松田聖子についてわざわざ書いてあったりする(笑)。そういう絶対いらないことも書いてあるというのが、まさに「余白」ということなのかもしれないと思いましたね。
品田 空間として捉えると、広さの問題ではないような気がするな。用途の問題というか。
大森 何に使ってもいい部屋が家にあるみたいな感じかもしれないですね。そこはべつに子供が落書きしててもいいし、急にそこをトイレにしてもいいみたいな、どういう風にも使える空きスペースとか余白がある感覚が、「(笑)」のふんわりしたイメージです。
品田 「明るさ」と「広さ」はキーワードだという気がするな。明るく生きるのは難しいですからね。
大森 「陰キャ/陽キャ」みたいな言葉が強力すぎて、そういう意味での「明るさ」とか「暗さ」ということに引っ張られがちなんですけど、そういう概念とは全然別の、明朗に生きるための「明るさ」のようなものがあって、それは大事だと思いますね。
品田 それでいうと、この前、ラッパーのTaiTanさんと対談したときに「最近Diggy-MO'を聴いている」という話をしたんですね。そのDiggy-MO'さんは今仰ったような意味で「明るい」人だと思うんです。根暗とか根明とか以前の、生き物の雄としての明るさというか。歌詞に意味とかがあんまりないんですよ。でも本来ヒップホップというのは、変な言い方をすると「なにくそ根性」のジャンルじゃないですか。
大森 そうですね。ストーリーが乗っていることが大事という。
品田 「スラム育ちでいつかのし上がるぜ」というのが芯のところにあるから、コンプレックスの裏返しとしての強がりという部分もあるんですけど、Diggy-MO'さんは違っていて、「なんか常に機嫌がいい」という。「(笑)」を体現している人としては、あの人をイメージしています。
大森 ただ歌っていて口が気持ちいいから、という感じで書かれている歌詞ですもんね。
品田 最近聴いたやつで、「なんて言ってるんだろう」と思って調べてみたら「明日 スベスベになれ」って言っていてびっくりしました。(*「先生、」(作詞・作曲Diggy-MO'、2017年)より)
大森 「なれ」(笑)。命令されている。
品田 そういう「明るさ」は才能だと思います。訓練でも獲得できるものなのかもしれませんが。
▼ 会場からの質問③
会場 「なんかむかつく」ということは言えた方がいい、というお話を聞いていて思ったんですが、私も言えた方がいいと思うんですけど、「なんかむかつく」に至る感情の分析ができていない状態で「言えた方がいいよね」ということが広まっていくと、殴り合いみたいなことになっていきそうで、今の状況でそうなっていくことを思うと良くない方に進んでいきそうで、「どうなんだろうな」と思ってしまって……。
大森 僕も、「なんかむかつく」と思ったらその人のコメント欄に「お前、なんかむかつくな」とコメントしに行くとか、無条件に言うのは違うなと思います。ただ、そう思うことすらできなくなってないか? と感じるんですよね。
人間の否定しきれない部分として、「生理的になんかむかつく」という感情は絶対に存在する。そう思うこと自体は自分の感情だからしてもいいことのはずなんですけど、今の世の中はそれすらもなかったことにしてしまいがちだなと思うんです。それゆえにそれが鬱積していって、儀礼やルールから外れたものを見ると飛びついちゃうということがあるから、「なんかむかつく」は自分の中にある感情としては否定せずにちゃんと認めた方がいい気がします。ただ、それを言いたい放題言ってしまうと問題が起きたり、仰るとおり本当のディストピアが完成するので良くないと思うんですけど。
品田 私もそこは間違え続けてますね。Twitterの厭なところとかをTwitterに書いて大ごとになったりという経験を何度もしているので、もうTwitterで書くのはやめて、こういう場所で言ったりしています。そういう意味では、閉じた場所が必要だと思うんですよね。プリミティブな「なんか厭だよね」ということについては、少なくとも今のインターネットにはそれを受け入れる余地は残念ながらなくなってきてしまっていると思います。まさかそこで「現実」の出番になるとは思っていなかったんですが。
「なんか厭だよね」で思い出したんですが、芸人のバカリズムさんがどうしても苦手だという知り合いがいるんですよ。何がそんなに苦手なのかと聞いてみたら、「彼には、蛇が憑いている」と(笑)。
大森 憑いてる系だったんですね。
品田 「蛇が憑いてるならしょうがないな……」と思って。そこで「ネタが」とか「言うことが厭だ」みたいな、正義みたいなことに繋げないさっぱりしたところに感銘を受けて、5年以上たった今でも覚えてます。今度から使おうかな、「あいつには〝蛇〟がいるから」。
大森 問答無用の強さはあります。
品田 すぐ正義に頼ろうとする我々の感性へのアンチテーゼとして、呪術的なものを復活させていく。
大森 「ケガレ」とかもそうですね。「なんか厭な感じ」を「ケガレ」という言葉に置き換えていたという。
品田 最近の陰謀論界隈とかを見ていても情けないなと思うのは、スピリチュアル的なものとかも、最終的に「分子が」とか、「量子力学によると」みたいなことを言い出していて、「科学に頼るな!」と思うんですよね。「『魂』でいいだろ! スピリチュアルなんだから!!」と。
大森 より陳腐な物語になってしまうのが良くないですね、今の陰謀論は。
品田 そうですね。陰謀論が科学に頼るのと、人々が好き嫌いを正義に仮託しているのは根が近いような気がします。自分の魂に自信がなくなってきているというか……。「あの男には蛇がおる!!」もそうですけど、おばあちゃんとかとテレビを見てると、そういうことを言いません?
大森 「蛇がおる」みたいなことをですか?
品田 なんか、ぎょっとするほど差別的なこととかを言ったりして。
大森 ああ、思ったことをそのまま言ったりしますよね。
品田 そうそう。『どうぶつ奇想天外!』を見てたら、「飯食ってるときに畜生を見せるな」って言われたり。
大森 (笑)。
品田 その有無を言わさない強さみたいなものから、学ぶべきところは学びたい。
大森 そうですね(笑)。自分の中に発生した生のものとは、それを瞬発的に外に発信したりせずにちゃんと向き合う。その上で、そのプリミティブな感情を社会規範的なものにすり替えたり、外に出しても批判として成立させるために無理やりなロジックに落とし込んだりするのはやめようよという話で。
品田 そうだと思います。難しいのは、思うことと言うことが完全に分離できるわけではなくて、喋りながら考えているということも多いわけですよね。だから喋っている瞬間に、その人がその内容を確固たる主義として主張していますということになると、常にほかの人の顔色を窺いながら喋ることになる。だから喋った後に捨てるということができた方が、トータルでは豊かになるのではと思っていて。
大森 意外と「撤回」の世界観になってくる。
品田 確かに。そうなると、麻生さんの「撤回」も、もしかしたら正しいのか……?(笑)おかしいな。
大森 変なところに繋がってきちゃいましたね(笑)。
▼ 会場からの質問④
会場 社訓の中の「ほっといてくれ!」というのがなかなか難しいんじゃないかというお話がありましたが、それを実現するために役に立つことなど考えておられたら伺いたいです。
大森 僕は正直、全くできていないですね。自分が作ったものはちゃんとバズって欲しいと思うし、見てくれた人の感想がないとやってられないというところもあります。でも何かを作っていて、「こうやった方がバズりそう」という方か、自分の中で「こっちの方がいいんだ!」と思える方か選ぶ場面があった時に、後者を選択することがけっこう多い。それは完璧な「ほっといてくれ!」ではないんだけど、「ほっといてくれ!」性を含んでいると思うんです。完全な「ほっといてくれ!」は正直現代社会では無理だと思うので、そのバランスを探ることかなと思います。あとちょっと深読みすると、「ほっといてくれ!」の中には「とはいえちょっとかまって」性もあるような気がします。
品田 この社訓がよくできているのは、「お前は周りをほっといて、勝手にやれ!」ということではないというところですよね。「一生やれ!」と「なんでもやれ!」は具体的な行動で示すことができるけど、「ほっといてくれ!」はそれができない願望の形式じゃないですか。だから、その場その場ではうまいこと「ほっといてくれ!」を実現できないのは仕方ないんだけど、そのマインドを「南無阿弥陀仏」を唱え続けるみたいにモットーとして自分のものにし続けていくことで、長いスパンで見た時にその人の「ほっといてくれ!」性が浮かび上がってくるという感じじゃないでしょうか。
大森 その魂を持ちながら、やめずに・なんでも・一生やり続けていく過程で、その人固有の「ほっといてくれ!」が形作られていくということですね。
それで思い出したのが、あるプロポーカープレイヤーの方がいて、たしか競技ポーカーだけで年収が三千万くらいあるんですけど、カジノとかで毎日稼いだら年収一億くらいは絶対にいけるらしいんですよ。
品田 凄いですね、プロって。
大森 でもそれをやらないのは、カジノみたいな場では相手を倒すことと儲けることが簡単すぎて、自分の研鑽とかとは全然関係ないから、という理由らしいんですね。
品田 なるほど。
大森 それとちょっと近いところがあるかなと思いました。例えば、さっき言ったように僕が何かを作るときに「バズりたい」という思いがあったとして、そっちに寄せていくと短期的な盛り上がりにはつながるけれども、他者の方を向いてそういうことをやり続けていくと、結果的に「ほっといてくれ!」性、つまり自分の中の「いい」の指針と、それを勝手に追求していくマインドが死んで、全部をアウトソーシングしていくことになる。だから、長く楽しく生きていくためにも、恐山さんがおっしゃるように自分の中にモットーとして「ほっといてくれ!」を持っておくことは必要だと思いますね。
品田 確かに。目標が数字とかになってくると、地獄への一里塚という感じがあります。普段仕事をしているときに同僚とよく話すのが、「魂の汚れ」のことなんですよね。「これをやったらウケるけど、魂が汚れるから……」という。
大森 でもほんと、そういうことですよね。
品田 現世に基準を置いちゃうと、どんどん変な方向に行ってしまう。だからこの世にない自分用の、自分を見張っている神様の目を想定している気はしますね。ご利益とかはなくて、罰だけを与える神様。
大森 (笑)。短期的に見たらご利益はないけど、自分の中の「これはダメだ」の基準になるものというか。僕も高校生の自分が自分を見ている感覚があって、その頃の自分が見て厭だなと思うことは、なんかしたくないなというのがあります。
品田 ありますね。私は編集する立場で若いクリエイターと関わることがあるんですが、やっぱり若い人ほど内なる神の束縛が強くて、「いや、これはできない」ということが多い。そこで私が悪魔の役目になって、「いやいや、受けましょうよここは」と妥協する方向に持っていったりしている。これは難しい、答えが出ないことだと思いますが、この綱引きの中で生きている気がします。
大森 現代社会で「ほっといてくれ!」を追求しすぎると、結局やりたかったことができなくなっていったりしますからね。どこまでいってもお金は必要だったり。
品田 これは大事なところだと思いますが、いがらし先生も『ぼのぼの』を当てているんですよね。ある程度戦略的に、マスコットキャラクター的にウケる作品を描いて大ヒットさせている。『IMONを創る』にも載っているような、めちゃくちゃエッジの効いた四コマから出発しているんだけど、マスにウケることもできる。
大森 これは「なんでもやれ!」にも繋がるところだと思いますが、ある種自分の中で「ほっといてくれ!」のポイントとそうじゃないポイントを多重人格的に持っておくのが大事なのかもしれないですね。ここは「ほっといてくれ!」だけど、ここではアウトソーシングでもなんでもいいから他者に伝わるものを作る、というような。そんなにきれいに分かれるものでもないと思うんですが、そこをなんとなく分けていた方が強く生きていけるんじゃないかと思いました。
品田 確かにそうかもしれないですね。
……そんなところでしょうか。予定より長丁場になってしまったんですが、ありがとうございました。
大森 ありがとうございました。
(完)
いがらしみきお著『IMONを創る』
『ぼのぼの』『I(アイ)』『誰でもないところからの眺め』のいがらしみきおによる幻の予言的文明論にして不朽の人間哲学、30年の時を経て復刊!
解説=乗代雄介
登壇者略歴
大森時生
1995年生まれ、東京都出身。2019年にテレビ東京へ入社。『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』『Raiken Nippon Hair』『このテープもってないですか?』『SIX HACK』「祓除」を担当。Aマッソの単独公演『滑稽』でも企画・演出を務めた。
昨年「世界を変える30歳未満 Forbes JAPAN 30 UNDER 30 」に選出された。
品田遊
作家。著書に『キリンに雷が落ちてどうする』『名称未設定ファイル』(共にコルク)など。ダ・ヴィンチ・恐山の名義でライターなど多方面で活動。日記「居酒屋のウーロン茶マガジン」を毎日投稿。
2024年2月17日(土)於 SCOOL(三鷹)
構成・編集:石原書房