【連載】「いるものの呼吸」#2 山登り納得派
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山は登れる墓である。隆起した古墳のように、それはある。わたしはいつも半分死にに行くつもりで山に登るのである。だって、山で人は死ぬから。つまづいたら死ぬ。この風がもう少し強かったら死ぬ。暗くなったら死ぬ。大きなザックには行動食、防寒着、それから死も詰め込んで、肌身離さず背負って歩くのである。安らぐこの場所。死の気配、幽霊と近い。喧騒からは遠い。
八ヶ岳の黒百合ヒュッテで会ったとある登山者がいた。季節は冬で、山小屋にはその人と私たちだけしかいなかった。熱い甘酒に舌が驚いて、うれしそう。あったかい。山小屋にひとつしかないストーブを囲んで話していると、彼は退職後の趣味で登山を始め、いま百名山を登っているのだと教えてくれた。いま何座目か尋ねると99座目だと教えてくれた。思わず「あとひとつなんですね!」と99もの彼のあらゆる歩きがあったことに感動していると、「100個目は、もう5年ほど登っていない、これからも死ぬまでずっと登らない」のだとどこか誇らしげに言った。理由を尋ねると、「いつでも登れるから」と彼は笑った。いつでも登れる、100個目の山とのその距離感。達成することよりも途中でいることを選んだのだろうか。真意はわからないけど、「いつでも」のなかには、生きているうちという意味以外も含まれているような、そんな解釈の余地があってあの人は不思議だった。
レベッカ・ソルニット著『ウォークス 歩くことの精神史』(東辻賢治郎訳、左右社)の第9章に記されている古今東西、登山にまつわる精神史の中でも、「世界のいたるところで山は霊界に近い場所として、この世とその向こう側の境界のように考えられてきた」と書かれている。山はその大きく深い呼吸の中に、人々を誘ってきた。このわたしもそのひとり。
遡ること20数年前、わたしはあえりえないほどスポーツを強要させられる幼稚園に通っていた。そこに通っている時、みんなで富士山に登ったことがあった。富士山に登ることがサマーキャンプの一大イベントになっていたのだ。
わたしの代の時は、雨が降った。足元が滑り、危険が増す中で、先生たちの判断により、登山が中止されたのだった。
すごくがっかりしたのを覚えている。同じ幼稚園に通っていた兄は富士山に登ったのにわたしは登ることができないのがとても悔しかった。でも、予定が変更され、富士山の洞窟探検に行くことになった。
怖かった。暗くて、じっとりしていた。ロープを必死に掴んで、一歩ずつ確かめるように歩いた。今になると不思議なのだが、その時のわたしはこう思ったのだ。ここにはガイコツが転がっている。わたしはそれを決して踏みつけてはいけないんだ。だから、慎重に歩かないといけない。ガイコツたちに怒られないように歩かないといけない。そう思った。
あの時から、山は死とともにそびえ立っていることをちょっとだけかじるように、それでも感じたのかもしれない。幽霊に会いたいわたしが、山に登るのはとても自然な流れなのかもしれない。
いまとなっては、すっかり山登りにハマった私。装備の高額さに辟易しながら山それぞれと出会っていく。車を登山口まで走らせていると、今日登る山が窓の背景になる。近づいていくと、山は全貌を隠す。登山口の前に立つ。それはただの道。
山と初対面の挨拶などなく、準備運動したらぬんめりとそこに入る。もう、ここは山のなかだ。境界を越えたその時を忘れている。道路を走る車の音が聞こえなくなってきて、この場所は「ちょっとコンビニ行ってくるけどなんかいるものある?」という言葉で響く優しさを知らない。
しばらく登っていくと、山登りロマン派と呼ばれている(わたしが呼んでいる)人々の形跡に出会う。小さな石たちが人の手によって歪な塔になっている。
安定性のある大きな石を見たある人がこう思う。「ここ、なんか置ける」。その人はまずそこに石を三つ置いた。また別の人が三つ置かれた石を見て、隣に石を並べたいと思った。それを見た人が重ねたいと思った。そしてもっと重ねたいと思った。そうやって、積み石はできていく。お呼びではない温かいタスキリレー。山でもこうやって、ささいな繋がりを求めて、創作する人たち。これが山登りのロマン派だ。
このロマン派の形跡は時間を押し広げる装置でもあって、それは幽霊性を帯びている。幽霊性というのは、蓄積の気配、記憶の気配、幽霊の可能性のことだ。その装置は人に見られることで初めて機能する。場所が見られることによって場所になるように。積み重なった石は、ただの景色。私の視線がその奥行きを見る。どこの誰だかわからない、石をおいたその手を想像する。私の中に、ない記憶が立ち現れ、石をおいた音がする。その音は幽霊の音。
わたしは何派かというと、山登り納得派である。山で「納得」を捕まえにいく。これが山登りの目的の一つである。
「納得」はどんな形をしているだろうか。わたしにとっては限りなく丸に近い。色は銀色。手触りはつるつる(待って、これはパチンコの球? でもそれとは違う)。大きさはおにぎりサイズ。結構重い。持ち帰れる。でも、それは次第に溶けていく。だいたい2、3ヶ月はもつが、早いものでは1週間で消える時もある。その納得のことを、納得玉と名付けてみた。
納得玉は登山開始からしばらくすると気配を見せ始める。それは山の状態がいかなる時もだ。寒くても、ガスガスでも、雨でも、晴!でも。自分の足で歩いてきたという揺るがない事実の積み重ねが納得玉を作っていく。
例えば、頂上につく。どんな山にも頂上はある。頂上に孤独に突っ立っている山頂標識とハイタッチをして、そこからの景色を見たとき、わたしの右手には納得玉の重量がある。綺麗とか、きもちいとか、そういうものを感じる前に、納得玉を手にしたわたしは「それはそうだよね」と思うのだ。わたしが、この足で、歩いてきたし、それはそうだよね。
雨で頂上を断念した時も、納得玉は手に入る。だって、天気はどうすることもできない。わたしが喚いても、祈っても、自然はわたしを見てもいない。
でも、これで納得玉が完成されるわけではない。最終精製に入るのは下山の時だ。歩いてきた軌跡を再度なぞって、登りのハイライトを回顧する。この場所は、登りで小休憩をしたところだ。この場所は写真を頼まれたところだ。この場所では手作りのおにぎりを食べた。この場所で転びそうになって肝が冷えた。この場所でカモシカに会った。この場所で「頂上まであと2時間」と書かれた看板を見て絶望した。そういう記憶が押し寄せるのだ。その時、わたしは下山と背中合わせで登っているのだ。降りながら登ってる。そうすると、納得玉はどんどん形になっていく。わたしが登ってきたものを、わたしが降りて確かめる。丸に、丸になっていく。下山のルートが登りと違うときは、納得玉は完全な丸にはならなかったりする。
登山の帰りに寄った温泉に納得玉を浮かべてぼーっと見る。水面に揺れる山での無音の記憶。小さな悲鳴をあげている身体。じわっと、あたためて夜ご飯のことを考える。この時間がたまらなく好きだ。
家に着くと、納得玉が急に音を立て始める。クエン酸と重曹を合わせて、ぬるま湯をかけた時の、急いで震え上がるあの音。流入する生活に戸惑っている音なのかもしれない。
この納得玉は、わたしの生活のたんぱく質のような役割を果たす。動ける、動けるぞ。身体は少しの筋肉痛になっても、心のハリが全然違う。でも、それは長持ちしない。だから山に何度でも登りたくなる。ちなみに、納得玉は山登りでしか作れないかというとそういうわけではない。料理の時にも小さい納得玉はよくできる。
山登りロマン派、納得派、そうやって括らずともいろんな人が、山に登っている。山を見ている。山を嗅いでいる。山を聞いている。山を思っている。動物たちの声と、植物や虫たちのざわめきに、いろんな人の声、そして幽霊の吐息。山は全てを飲み込んで、そこに立っているのだ。
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