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『改元』刊行記念対談第2弾「歴史≠小説の生成」 畠山丑雄×円城塔

 2024年12月7日(土)、京都の深夜喫茶/ホール多聞にて行われた畠山丑雄著『改元』刊行記念対談第2弾「歴史≠小説の生成」の模様を採録してお届けします。
 「歴史小説」の語り口や日本(語)の外の書き方をめぐって、畠山丑雄さん、円城塔さんお二人の技術論と作家性の根源が垣間見える白熱の対談です。
 (*樋口恭介さんをお招きした『改元』刊行記念対談第1弾はこちら。)

畠山丑雄著『改元』 装丁: 川名潤

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▼歴史を語るための文体/「今ここ」と歴史を結ぶ語り口

円城 塔(以下、円城) 『改元』の刊行記念イベントはこれが二度目ということで、第一回の樋口恭介さんとの対談がnoteの記事になっているんですが、樋口さんがすごくちゃんとした感想を言っていて、「こんなにちゃんとした感想を言わねばならないのか」と、ちょっと困ったな、となっています。僕はあまりちゃんとした感想を言えないんですが、人称の使い方がすごく不思議だなというのが一番印象に残ったところです。
 一人称と三人称が混ざると、普通はその変わり目——現実と夢と言ってしまうと違うんですが——がガクガクするはずなんですよ。それが滔々とうとうと、滑らかに繋がりながら流れていく。それが面白いと思いながら読みました。あと、やはり天皇制や歴史への感覚が西の人なのかな、という印象がありました。というのが大枠の感想です。

畠山丑雄(以下、畠山) ありがとうございます。人称のことに触れて頂いたのは円城さんが初めてだと思います。確かに「改元」も「死者たち」も伝聞と経験が混ざり、his story が my story になる瞬間があって、「改元」では久間ひさまさんという人物からの謎の電話がかかってきて、森へ入り込んでいくあたりで人称が移ろっていくんですけれども、書いていて「これは一人称では書かれへんな」と思って、一応伝聞の体ではあるんですけど実質的に三人称になっていきました。
 もしかしたら編集者に「ここで人称が変わるのはおかしいですよ」と言われるかもと思ったんですが、幸いそのまま通して頂いたのでありがたかったです。

円城 僕は、小説は形しか見えないというところがあるので「すごく不思議なものを見ている」という感覚がありました。歴史を語るときの方法として、ちゃんと入っては来るのに切り替え方がかなり不思議。
 でも確かに、三人称が入ってこないと歴史は書きづらいですよね。
「久間さんは、祭りのことで込み入った話になるから、ぜひ瑛子に来てもらいたいと言う。」とか、これは何人称なんだろう。無人称とも違うし、この感覚はなかなかない。

畠山 具体的な視点を考えているというわけではないですね。肌感覚的におさまりがいい方に筆先を払う感じというか。「という」を使ってしまいがちなんですが。

円城 説明文もそうですね。「死者たち」の方でいうと、大統領令九〇六六号の箇所とか、地の文といえば地の文なんだけど、三人称の語りとも読める。虚実が入り混じるし文体も異質なものが統合されている。僕は書き方を探ろうとするタイプなんですけど、どうやって書いているか分からない。

畠山 大統領令九〇六六号というのは、大戦直後にアメリカで発令された、「日系人は立ち退きなさい」という大統領命令のことで、日系人の強制収容に繋がった。その時代に向こうに渡航する登場人物がいて、話の都合で避けては通れないところだったので書きました。
 そういう歴史の事実の記述の部分を、普通の人々が動いたり喋ったりする三人称の描写の、場面のある文とうまくつなげなければならない。自分でも肌感覚でエイヤとやっているのでどうやっているかは分からないんですが、すごく気を遣う部分ではありますね。そこで振り落とされたり、ついていけへんという人も出てくるでしょうし。
 デビュー作の『地の底の記憶』でも歴史の事実がドンと出てくるところがあって、そこでも誰の人称か分からないような語りになるので、何か言われるやろうなと思いながらも書いたんですが、選考委員の方々も「ここが面白かった」という人と「ここでついていけなくなった」という人と分かれていました。

円城 あのウォロンツォーフについての記述が滔々と書かれていくところが面白いのに。

畠山 そうなんですよ。歴史小説だったら、その時代の現在形で書いていけると思うんですが、僕は現代という層があって、かつ歴史の層があって……という具合に交わる形で書いているので、何か語り口を考えなあかんというのはありますね。

円城 客観的な歴史が書かれているというよりは、誰かが語った歴史が何かによって語られている。出来事が客観的なデータらしく出てくるんだけれども、これは具体的な誰かによって語られた、もしくは語られていないんだけれども小説の中では語られている事実である、という畠山さんの肌感覚が強く出ていますね。あと文章を読んでいて楽しい、というのはやはり大事なんだなと思いました。

畠山 ありがとうございます。


▼『コード・ブッダ』の不思議な説得力/リジッドに書かない技術

畠山 それでいうと、新しく出された『コード・ブッダ』を面白く読んだんですが、あまり描写がないのが凄いなと思いました。

円城 したくないんです。

畠山 嫌いなんですか?

円城 下手なんです。下手なのでやらない。畠山さんはかなり書けそうな気がします。

畠山 僕はけっこう描写が好きなんです。

円城 好きな人はいますよね。『すべての見えない光』のアンソニー・ドーアとかは、すごく好きらしくて、浜辺に行くと無限に浜辺についての描写を書いていられるらしいんです。僕にはそんな能力はない。

畠山 『コード・ブッダ』は不思議な小説で、悟りを啓いたAIが仏教の教えを説いているという話なんですが、有名なシーンがあって――もう僕の中では「有名なシーン」になってしまったんですが――そのブッダAIがたまごっちを持って、「このたまごっちすらも悟るのである」喝破かっぱする面白いシーンがあるんですね。
 こういうところも描写がぜんぜんないので、どういう空間でこれが展開しているのかよく分からないんですが、不思議な説得力がある。普通は異世界みたいなものを書こうとすると、そこにリアリティが感じられなければ、つまりその空間を信じられなければ終わりという感じが小説にはあるので、しっかり描写で立ち上げていくのが定石だと思います。「改元」でも龍が出てくるということもあって、かなり濃く描写で塗り固めているところがあるんですが、『コード・ブッダ』ではそれがなくても成立しているのが本当に、なんでなんやろと思いました。

円城 仏教説話も、もともと情景描写はほぼないんですよ。ブッダがいて、そこに誰と誰がいてという説明はあるんですが、描写としては非常にプアですね。本当はマンゴーの木とかがあるはずなのに。
 おそらく重厚な描写があるということと、世界観が一本通っていて揺らがないということは別の話じゃないですか。

畠山 そうですね。

円城 それに関しては、シーンごと、カットごとにかなり自由に飛ぶという技術が駆使されていて、ディテールはあるんだけれども、かならずしもリジッドなグラウンドが広がっているわけではない。今のエンタメ系の作品や群像劇では、カメラが向いていない時でも世界が存在するというものが多いんですが、ギャグマンガとかラブコメだと、世界が通底していると話がすぐ終わってしまうので、バンバン飛ばしてずらしていくというやり方がある。そういう手法で書かれた幻想的なものももちろんあるんだけれども、歴史という本当はリジッドなものを書くときに、この方法を使ったのが上手くいっているんだと思います。

畠山 なるほど。「改元」では、今の天皇制とは別の天皇制が山奥の集落で続いていて、そこの派出所に飛ばされた公務員がそれに接触するという話なんですけど、どうしてもクローズドな環境なので、話の作りの問題として、リジッドな方法で書いていったら話が動かないし詰まっていくし、読んでいてもかなり苦しいものが出来上がってしまうという感覚があったので、小道具を使って飛ばしていこうと思っていました。

円城 偽史的な側面があるので、それでリジッドに、ソリッドに書いてしまうとただの陰謀論に見える。「この人、本当に信じてる人だ!」と(笑)。

畠山 P.K.ディックになってしまう。「改元」では、惟喬親王の代で天皇制が二つに分かれて、その中身である龍と、統治機構がそれぞれ存続していくという設定なんですが、その分かれた時点から現代までのことは詳しく書かれずに、飛んでいるんですね。分かれてから現代までの代々のことを年代記みたいに書こうともしたんですが、書き込んでいくと逆に説得力がなくなってしまう。特に今では、そういう書き方が陰謀論的なタームにすぐ回収されてしまうので、別の形になっています。

円城 陰謀論の本はそうなっていきますよね。そうならないように、常時マークを入れていかないと危ないんですが、最近はそれでも本当のこととして読まれることが多いなと思います。僕は嘘のような本当の話、本当のような嘘の話を取り混ぜていくタイプなんですが、もっと強く「ウソです」というマークを強く出していかなければまずいなという感覚があります。

畠山 信じた人から実際に何かアクションがあったりしたんですか?

円城 そういうことはまだないんですが、『コード・ブッダ』が出た時には、「科学の方から仏教をとらえ直すと、科学の方が優れている」というように読まれることがあって、「あれをそう読むのはちょっと無理があるんだけど……」というのはあるんですが、そういう「読む前の物語」のようなものが定型化しているということはある気がしますね。

畠山 描写がないのに説得力がある、ということでいうと……。

円城 説得力はないですけどね(笑)。AIのブッダがたまごっちを持っていて、たまごっちが成長してブッダになるというだけのシーンなので。

畠山 それが「こんなんありえへんやろ」と受け入れられないものにならずに、クスッと笑ってしまうしそのまま読んでいける。なぜそれが描写なしに成り立つのかということだと思うんです。
「やっぱりそうか」と思われるかもしれないんですが、「死者たち」を書いていた頃、『雨月物語』を読んでいたんです。そこから積極的に影響を受けようとしていたんですが、今思えば円城さんも『雨月』を訳されているので、あの描写と言えるのかどうかよくわからない感じに影響を受けているんじゃないかと思ったんですが。

円城 『雨月』は描写が変なんですよ。元ネタになっている原典があって、好きなところを引っ張ってきてひっくり返しているから。漢文のかっこいいところとかを描写として入れていたりする。確かに急展開する話の運びとか、「死者たち」には『雨月』を感じるところがあります。

畠山 そこから直接題材をとったわけではないんですが、展開はそうですね。あとは杉浦日向子の『百物語』の感じもそうです。「めちゃくちゃすごい、変なこと起きまっせ」という感じで高めていくのではなくて、日常の中で何気なく障子を開けたり、そこの角を曲がったり、ふっと傘の下に連れ合いが入ってくるような感じで、変なことが起きたり変なものが出てきたりする。「死者たち」でも、金魚が入っている水槽を落としてしても水槽だけが落ちて水と金魚だけ空中に残っているとか、車のバックミラーに死んだはずのお父さんが映っているとか、すごく変なことが起きるんですが、そういうことが『百物語』でもふわっと出てくる。
 樋口恭介さんはそういう感覚について、「水平感がある」と言ってくれたんです。つまり、上からドーッと降りてくるとか、下から這い上がってくるとかそういう感じではなくて、水平方向からパッとやってきて、去る時もすっと去っていく。そういう筆致は意識的に使おうと思っていました。

円城 そこは推薦文を書かれている磯﨑憲一郎さんと技術的に似通うところですね。「雲の前に月が出ていた」というような、それまでのトーンと何も変わらないまま、何か変なことが語られる。

畠山 でかい犬が急に目の前を横切ったりとか(笑)。「死者たち」では、日猷同祖論にちゆうどうそろんという明らかな偽史にハマってしまう人が前半の主人公なんですが、あからさまにおかしなことを中心のところでやっていると、脇から変なものが抜けていきやすいんですよね。信玄堤みたいな感じで。書いたことがある人は感覚的に分かると思うんですが。僕としては、そういう変なものの方がメインというつもりで書いていました。


▼歴史感覚の地域差/固有名詞の絶大な力

円城 「改元」は文芸誌の特集で書いたんでしたっけ。

畠山 いえ、そういうこととは関係なく書きました。
 前のイベントでも話したんですが、生活保護の仕事をしていた時に、高次機能障害を抱える方と接する機会が多くて、それについて勉強しようと思ってカトリーヌ・マラブーの本を読んだのがきっかけでした。脳の可塑性ということをマラブーは言っていて、例えば外傷や疾患で器質的に脳の組織が破損してしまったときに、その部分が司っていた機能が失われてしまうのかというとそうではなくて、脳の他の部分がその機能を補うことがあるんですね。その変化が人格にも反映して、性格が全然変わってしまう場合があるんですが、本人には全くその自覚がなくて、「俺は昔からこうやったやん」という感じで、「別の過去」のようなものが出来上がる。
 この「同一性が保たれながら、実は分岐している」ということが日本の歴史で起きたらどうなるのか、それが河川等の現実の地形と結びついたらどうなるか、ということを考えたのが起点でした。

円城 僕は生まれが北海道で、ノリというか、感性としては東北‐北海道なんですね。東北と北海道でもまた違うんですが、そうすると天皇制に対するおびえみたいなものが割とあるんですよ。僕はだんだん南下してきて、いま大阪に住んでいるんですが、やはり西の人の方が天皇に対しては身近な感覚を持っている気がします。「この前まで御所にいたよね」という感じとか、摂家がそのあたりにいたとかいうこともあってだと思うんですが。東北以北は、旧帝国陸軍式の、「おそれ多くも!」と言われたら背筋が伸びるじゃないけれども、そうじゃないとぶん殴られるみたいな反射的なものが僕ぐらいの世代までは染みついている。
 仏教とは縁遠かったので、ある距離感をとって『コード・ブッダ』のようなものを書けたんですが、日本史や国家となるとそうはいかないなと思います。

畠山 ずっと関西で生まれ育ったので、今言われた通り、そのへんに古墳とかが沢山あるよなというくらいの意識で育った気がします。僕の母の実家が藤井寺なんですけども、あのあたりは古墳だらけで、遊び場にしていましたし、今は茨木に住んでいて、そこには継体天皇陵があったりして、「会いに行ける」じゃないですけども……。
 なので、そういう古いものと今現在続いているものは自分の中ですぐに繋がるんですが、東京に行って皇居のものものしい警備を見るとびっくりするという感覚は確かにあります。

円城 東の感覚だと、白馬に乗っている感じですね。西の感覚ではそういうことはあんまりないんじゃないかと思う。
 歴史についての体感のことでいうと、たとえば伏見稲荷の上の方まで登っていって「清少納言はここまで来ました」という史跡を見たりすると、日本史の知識としては知っているんだけど「えっ、実在の人物なの?」と思ったりすることがある。北海道で生まれ育った自分の実感と合わない、という感覚があります。関西の、たとえば奈良の人はそういう乖離かいりが少なかったりするんでしょうか。

畠山 そうかもしれないですね。昔円城さんがエッセイで書いていた天王寺のあたりも、地形としてそのままごろっと残っていたりします。

円城 そういう当時の地形が、文字記録とそのまま結びついているというのがすごく大きい。高校とかでやらされる日本史の教科書の書きぶりでは、「関西にしか人はいなくて、関東にはなんか、兵団がいる」という感じなんですよ(笑)。そんなわけはないんだけど、あんまり記録が残っていないから、基本的に東には鎌倉武士しかいなくて何かあると攻め上ってくる、みたいな感じになっている。
 さらに北海道には本州から血筋的に繋がっている人がほぼいなかったわけなので、そこにおける「日本史」って何なんだろうということは考えています。ロシアが来たから、「あそこにも中央から人を送り込まねば」みたいな感じで送り込むんだけれども、いまいち現地のイメージができていないから、すごく寒いところに薄着で行ってしまってみんな死んじゃったりするわけじゃないですか。「そのレベルで!?」みたいな無茶な入植の末に今は日本と言い張っているわけで、沖縄とはまた別に、日本史の問題として捉えなければならないことが沢山あると思っています。

畠山 そういうテーマは小説に書かれたりしないんですか?

円城 次の一月から連載が始まります(*「群像」2025年2月号掲載「鳥のいない国」)。

畠山 えっ(笑)。ちなみにどんなものを……?

円城 温暖化が進んで本州に住めなくなってしまって、みんな北海道に移住するんだけども、もともと北海道に住んでいた人たちは土地を収奪されたりする。かつてアイヌの人々に起こったようなことがまた起きる……という話を、高校生が主人公のラブコメで書く。

畠山 ラブコメ!?

円城 ラブコメというか、そんなことをしている場合じゃない不可能状況の中で、ラブストーリーをやろうかなと。連絡船が沈んだり、ロシアが攻めて来たり熊と戦ったりしながら、無理やりラブストーリーを展開する。そうでもしないと、ただ辛いだけのものになるので。

畠山 これは大事な話で、よく言われることでもありますが、重いテーマを扱うときの軽みのようなものをどう出すかというのは大きい問題ですね。

円城 今北海道で「アイヌ民族はいなかった」派がかなり盛り返していて、これは本当にまずいんですよ。「『いなかった』って、そんなことはないよね」という、その「ないよね」が通じない場合が増えてきている。
 構造的な問題もあって、僕らが小さい頃にもいたはずなのに、「自分は見たこともないし、差別したこともないよ」というのがよくある言明として広がっているので、「そりゃ怒るよね」という話をちゃんと書かねばならない。真面目に書いた方がいいといえばそうなんですけど、読んでもらえなくても困るのでラブコメで頑張ろうとしています。

畠山 僕と円城さんが共有する前提として、「アイヌがいなかった」などというとんでもない言説が広まるのも良くないし、そもそも倭人、日本人……というか、本州にいた人間が侵略して収奪したのもいかんということがある。
 その上で、どういう政治上の問題についてもそうだと思いますが、これを共有していない人に届けるためには面白さやユーモアで角度をつけつつ間口を整備しないといけないと思っています。

円城 入り口ということで言うと、まず言葉がないんですよ。今話していても、「日本人」と呼ぶべきか「倭人」と呼ぶべきか、そもそも「アイヌ」と呼んでよかったのか? というレベルで、この問題を語るための言葉自体が整備されていない。なので、これはすごく慎重に織り込んでいかないとすぐに本を閉じられてしまうことになる。この段階から入っていかないと、立て直せないところまで北海道は来ていると思って、がらにもないことをやろうとしているんですが。
 こういう話をリジッドなグラウンドを通してやろうとすると、それこそ陰謀論ぽく、偽史ぽくなってしまうので、あいだをとりながら、いろんな視点を設定してやろうとしています。
 気づいたら、この3週間でラブコメ漫画を200冊くらい読んでたので頭がラブコメになっているんですが。技術的に面白くて、すごく飛ぶ。

畠山 それは場面が飛ぶんですか。

円城 意地悪く言うと、シーンが繋がっていない。でも、なんとなく「えっ、好き……」みたいな感じで終わったりすると、繋がっていることになる(笑)。

畠山 なるほど(笑)。

円城 ラブコメはくっついたら終わりなので、「え、帰ってからどうなったの?」とか「それ携帯で連絡とり合ったら終わるんじゃないの?」という問題が、各話が終わることで引き延ばされて、それで次の回を全然違うシーンから始めることができる(笑)これはAIがなかなか学習しない技術なのではと思います。ロジックでつながる歴史だったら学習しやすいんですが、人間の感情だけで告白や喧嘩が起こったときに、バンと切れてそこからどうつなげるかというのはロジックじゃないし、急に時間を遡ったりするから。感情だけを盛り上げていく技術として、これくらいのことをしないと自分にはああいうものが書けないなと思って。

畠山 その作品はめちゃくちゃ楽しみですね。

円城 地名も全部アイヌ語にしたいところなんですけど、とりあえず北海道はモシㇼ地方政府という名前です。ニュージーランドに行くと地名はほぼマオリ語だし、バスのアナウンスもまずマオリ語で、英語はその次。小学校でもマオリ語教育をしていて、それは「我々はマオリの土地に入って、マオリの人々、マオリ語を話す人々とともに暮らしている」という共通認識があるから。そういうことをその作品の設定にも採用しようと。

畠山 前に樋口恭介さんと話した時に、純文学の人がSF的な作品を書くときの失敗例として、「固有名詞を出さない」ということを仰っていたんですね。作られたものでも実在のものでも、固有名詞は出すとものすごく強い力というか説得力が働いて、「これはホンマの話だぜ」という感じが伝わってくるんだけれども、一つ出してしまうといろんな制約がかかってくるから話を動かせなくなって怖いということがある。そこをがっちり設定されているのは、やはりSFの人だなあと思いました。

円城 固有名詞は怖いですよ。変なファンタジーものも来年出る予定なんですけど、固有名詞は適当にしました「ガガガガギルドス」みたいな……(笑)。

畠山 エイヤでつけるとけっこう動き出したりもしますもんね。

円城 本当は人工言語を作ってその中でやるのがいいんでしょうけど、そこまでの元気はないのでギャグの方に行くことにしました。

畠山 「改元」でも、場所はだいたいこの辺というのはあるんですが、実在の地名を出してしまうとあんまり史実じゃないことを書けなくなるということがある。これは作家が皆悩むところじゃないかと思います。

円城 川が分岐しているという地形の設定もうまいですよね。

畠山 人格や血統の分裂とも重なるところです。
 あとは全国どこに行っても、瓜の伝説というのがあるんですね。瓜を割ったら水が出てきて、川になって男女が両岸に分かれてしまう、という天の川伝説とセットになっているので、これを結びつけて押し通そうとした感じです。固有名詞を登場させる以外のあの手この手で説得力を出して、龍という存在にリアリティを感じたり、それが時間や歴史として感じてもらえたらいいなと思っていました。


▼司馬遼太郎文体の危険性/「今ここ」と「鬼胎きたいの時代」を結ぶもの

円城 歴史小説とか読まれますか。

畠山 めちゃくちゃ好きというわけではないんですが、先日円城さんがTwitterで言及されていた司馬遼太郎とかは読みます。「改元」に志明院しみょういんをモデルにしたところが出てくるんですが、そこに行ってみたのも『街道をゆく』を読んだからでした。『空海の風景』も好きです。

円城 『街道をゆく』は北海道に行くと急に解像度が落ちるんですよね。書くことがないから、入った床屋の話とかを書いている(笑)。歴史のことを拾い上げられない場所に来ると、ある種の軽妙洒脱さがなくなって間が持たなくなっているんです。
 司馬遼太郎の前にもそういう人はなかなかいなかったわけですが、「日本の泣ける歴史を書きながら、実は近代を書いている」というポジションは今空いているんですよね。ちなみに『コード・ブッダ』はかなり司馬遼太郎文体です。

畠山 それはすごく思いました。あのユーモアと、言い切りで飛ばしていく感じで「そういうもんか」と思わされてしまう。

円城 「以上、余話である。」みたいな、謎言い切りごまかし文体ですね。司馬遼太郎の「そういうもんか能力」はすごいものがあるんですが、だからこそあの文章で歴史を書いちゃダメだと思うんです。「日本人は健気けなげである。」とか書かれると、納得すると同時に「いやいや、ちょっと待てよ」というところがある。そのスタイルによって文章が流れていく中で、どんどんロジックのレベルを切り替えて小説を構成していくというのは、今後かなり危険なんだろうなという気がします。

畠山 「まことに」とかもそうですね。「そうなんだなあ」となってしまう。

円城 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」の「まことに」は文章上いらない言葉なんですけど、なぜそういうものが入っているかというと、心を操作するためだけに入っているんですね。これは非常に怖い、悪用するとまずい技術です。僕は作品でしているんですけど。

畠山 言い切って飛ばすと、前までのところが済んだような感じがするんですが、そこが『コード・ブッダ』の「描写がなくても成立する」というところに繋がっているような気がしました。

円城 そうですね。作文技法としては教えない方がいい、よくない技術です。あれをChatGPTが手に入れたら、けっこうやばい。

畠山 なんとなくなんですが、それはできなさそうじゃないですか?

円城 いまのところあんまり、そのあたりに文体として注目している議論がないので、まだできないとは思います。でもこれからAIに司馬遼太郎が実装されたら、日本のあやしい歴史をのどごしよく書いて、それを読んだ人々が各地で「司馬先生が間違っているというのか!」と学芸員さんに詰め寄る、みたいな状況が悪化していくんじゃないかと思います。
 歴史学の実証性がすごく上がってきたからか、今の歴史小説は小さいところ、今まであまり知られていなかったところを書くようになってきましたね。

畠山 そうですね。僕も今書いている茨木関連のものを書き始めたきっかけは、散歩をして郷土史を調べたりするところからでした。
 これも樋口さんとの対談で話したんですが、そうやって散歩したりするだけでも、満州につながるものが見つかったりするんです。茨木出身の二反長音蔵という人は、市内の安威川あいがわという川の流域で阿片の原料のケシを栽培していて、満州に渡ってケシの栽培法の伝道師的なことをやったりしている。
 あと僕の出身は千里ニュータウンというところなんですが、ここは戦中に満州で都市計画を推進していた人が、向こうで構築していた制度や技術を駆使してニュータウンの設計に携わっているんです。
 自分の足元から、それこそ司馬遼太郎が「鬼胎きたいの時代」と呼んだあたりにわりとすぐ接続できるんです。司馬遼太郎みたいにそのままズドンとその時代を書くんじゃなくて、今ここから始めてそこにつながるようなスタイルで、歴史のことを書きたいと思っています。

円城原武史さんが書かれていましたけど、「団地とは何なのか」ということもそういう話ですよね。人を統治するための町をどう作っていくか、統治とは何なのかという問題。司馬遼太郎が書いたような武将の話や人物のことがなんとなく日本の歴史と思われているけども、たとえば幕末から昭和に入るくらいまでだったら鉄道とか団地とかの方に歴史が現れている。

畠山 今から武将のことはちょっと書く気にならないですね。

円城 僕は信長がめちゃくちゃぼやく小説を書きました。信長はフィクションに出まくっていて、転生もするしラスボスだし、だから何回も死ぬし。『何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?』みたいな作品もあって、そのレベルでいじられているものをさらにループさせたりしている。
 でも武将は強いですよ。地方の大きい駅を降りたらたいてい武将がいる。信長は三人くらいいる(笑)。それがないと、歴史がつかめないんでしょうかね。歴史のとらえ方がキャラクター依存的なのかもしれない。

▼日本(語)の外を書くこと/歴史小説の語り口の解体と再構成スクラップ・アンド・ビルド

円城 さっき満州の話が少し出ましたけど、「世界史どうしましょう?」みたいなことは書きますか。僕はSF出身なので、ない場所とかない時代を設定したりしていたんですけど、ある時期から日本のことばかり書くようになりました。やっぱり日本からいかないと無理だなと思って。

畠山 僕もそう思います。日本とのかかわりにおいてというか、日本をユーラシア的な視野の中に見て書きたい。調べたりする技術的な難しさはあるんですが、そうでないと説得力が自分自身に対して出ないと思うんです。なので、日本以外の歴史を書くなら、日本の加害の歴史から東南アジアを書くとか、もしくは「死者たち」で少し書いたアメリカ。そういう隣接したところじゃないと無理かなという気がします。

円城 考証が難しいから転生しておくというのは非常に便利な戦略ではあるんですが、そうではなくて日本をベースにしてなるべく視野と話を大きくしたいという場合に、どうしても出て行けない感じがないですか? 

畠山 幅が絞られるということはありますね。白系ロシア人が革命の影響で北海道に入ってきたあたりは書きたいとずっと思っています。今計画しているのは、日本人が義勇兵としてウクライナに渡って、ロシア大統領の襲撃を企んでいるという小説なんですが……。

円城 それは出せるやつ?(笑)

畠山 ダメだったら諦めます……(笑)。ロマノフ王朝の傍流の人が渡ってきて、その人は「モスクワのソクラテス」と言われていたフョードロフのいとこの家系で……という設定です。

円城 一月に連載が始まるやつは、サハリンの対岸にウクライナ領があるという設定です。「緑のくさび計画」というのが昔実際にあって、極東にウクライナ人の国ができそうになったことがあるんですが、それがその通りになっているという。
 あの時代の大陸は、ヨーロッパでの迫害を逃れてきたユダヤ移民を満州に迎え入れようという計画が持ち上がったり、かなり大きな人の動きの可能性があった場所ですね。

畠山 「河豚ふぐ計画」ですね。海外のことを書くとしたら、そういう動きとの関係もあるので、やっぱりそのあたりの時代になるのかなと思います。

円城 ブラジルやハワイへ人を送り込んだのもそうですが、そのころが近代日本が一番大規模な人の動きにかかわった時代かもしれない。
 もちろん国策としてではないですけど、バブルの頃は皆すごく旅をしてたわけですよ。プリンセスプリンセスの曲とかを聴くと、サバンナをセスナで飛んだりしている(笑)。そういう海外の体験や姿は、なんとなく今の日本が失ったものであり、作家が拾えなかったところかもしれないという気もしています。

畠山 確かに、「旅行」で書くというのはいいかもしれないですね。

円城 かなり気軽に外に行けていた時代がかつてあったはずなのに、形にはなっていない。
 あと、世界的に見てもアフリカの東海岸とかはインドから人が流れているから、インド系アフリカ人が政変でなにかあってカナダで暮らしている……というような小説はたくさんありますよね。そういう世界で、日本の中で「何もない私たち」みたいな小説を書いたからって何なんだという気持ちもある。スケールで負けているという感じはどうしてもあります。

畠山 僕も外のことを書きたいというのはずっと思っています。風通しがよくなる感じがしますよね。

円城 国内のものは風通しが悪すぎると思うと同時に、安部公房はかなりユニバーサルなものを書いていたんじゃないかと思っています。ただユニバーサルな土台で勝負するのはつらいので、盆栽とかを出しておいた方がいい。

畠山 (笑)。

円城 そういう意味での日本回帰でもあるんですが(笑)。やはり世界になると出てくる選手がおかしい奴しかいないので、ユニバーサルなところではまともに戦えない。信長もおかしいんだけど、ヌルハチの方がおかしいじゃん、みたいな。

畠山 前の話に戻るんですが、円城さんが前エッセイで書かれていたように固有名詞の問題ということもある。

円城「司馬遼太郎翻訳できない問題」ですね。それは雰囲気的にも無理だし、固有名詞の前提となっているものも共有が難しい。すごく長い注釈をつけるの? という話になってくる。日本の歴史小説というジャンルが恐竜くらい大きくなって特殊化してしまって、絶滅しそうになっている状態というか。一単語一単語の使い方が決まって、一つの言葉や名前にギュッといろんなものが入ってしまっているので、翻訳しようとすると身動きがとれなくなるのではないかと思います。

畠山 一からがっつりやろうとしたら、鷗外の史伝みたいなやり方しかないのかなと思うんですが、それはつらい。

円城 でも日本の歴史は、外の人に説明したいじゃないですか。

畠山 したいですね。

円城 僕の歴史もの(*「タムラマロ・ザ・ブラック」)では、ルビで全部英語にしたりしました。「征夷大将軍」がえらいことになったんですが(*「征夷大将軍コマンダーインチーフオブジエクスピディショナリイフォースアゲインストバーバリアンズ」)。いろいろ模索しながら、歴史小説の日本語を慣習から解き放つような書き方を見つけたいとは思っています。

畠山 なるほど。僕が考えている書き方としては、今ここから遡ってアジアへ抜けていく道と、さっき鷗外のやり方はつらいと言ったんですけど、僕はけっこう鷗外が好きでして、『澀江抽齋しぶえちゅうさい』とか『阿部一族』のようなものを戦中の時代でやれないかと思って書いたことがあります。それは結局載らなかったんですが、これをもうちょっと現代に近づけて、歴史ものっぽくできないかなと考えています。辻原登さんがそういうものを書こうとされているんじゃないか……とちょっと思ったことがありました。

円城 確かに『許されざる者』とか最近の『陥穽 陸奥宗光の青春』は、史伝そのものの組みなおしという感じがあるかもしれません。そういうレベルでも日本語の語りというものを組み変えた方がいんじゃない? ということは、僕も常に思いながら、なかなか果たせずにやっています。

畠山 それこそ人称の問題でもあるんですが、「今ここ」と過去を接続することの難しさがあると思うんです。過去の話で面白いことが出てきても、今の話とどうつなげるかというのが悩ましい。いきなり三人称に切り替わって語らせるのも唐突感があるし……とか考えてしまいます。

円城 純粋に技術的な問題として、なにがしかの手が見つかれば書けるんですけどね。

畠山 「手紙もろたよ」とか(笑)。そういうものも含めて、新しい語りのあり方がそろそろ必要だなとは思います。


▼言葉がほつれてくる/謎の拘束力を生む文体

円城 日本語についてどうお考えですか? 僕は不便だな、とずっと思っていて……。

畠山 めちゃくちゃ広い話ですね(笑)。どういう具合に不便なんですか。

円城 一番意識したのは『文字渦』という小説を書いていたときなんですが、漢語と、やまと言葉の混ざり具合が分からなくなって、中国方言をローカルな言語で翻訳している、みたいな感覚が、気になるようになってしまって。

畠山 日本語を習いだした人の感覚ですね。

円城 それで、自分が使っている言葉が分からなくなってしまった。

畠山 あ、それは危ない。

円城 危ないんですよ。ひらがなを見ていると意味が分からなくなって、ゲシュタルトが崩れていくっていう話があるじゃないですか。そこにさらに古語の層とかいろんなものが入ってきた時に、使いにくい! と思った。そういうことないですか?

畠山 僕はそこまでいかないですね。教員免許を取ったときに中国哲学の研究室に通っていたことはあったんですが、自分の漢文の能力に早々に見切りをつけていたので。

円城 『コード・ブッダ』の方に行ったのも、日本語の中に入っている仏教語はとても多くて、それがかなり思考を縛ってくる。それが気持ち悪い! という感覚からだったんですが、逆に言うと日本語には仏教がインストールされているということなので、ならばアンインストールすることも、別のものを差し込むこともできるのでは、というのが今考えていることです。

畠山 「使いにくい」という感覚とはまた別かもしれないんですが、普通に使っている言葉の中にそういう「違うな」と思うものはありますよね。「ありがたい」とかもそうでしょうか。

円城 「ありがたい」はまさにそう。

畠山 真面目に考えていくと、「ある」は「在る」、「かたい」は「難い」で、「存在することの確率的な困難さ」というようなことなのかな、という感じで、言葉がほつれてくる感じがあります。こういうちょっとした言葉を選ぶときに、「そもそも……」ということを気にし始めるとそういうふうにほつれだす感覚があって怖いので、僕はあんまり考えないようにしています。

円城 ジョイスみたいになってしまう。気にしていくとあそこにいくんだな、という事例ですね。そこまで追い詰められた話でなくとも、そういう意味でもやはり司馬遼太郎は日本語をハックしているんですよ。変なところを叩けるボタンを見つけてしまった。その能力は研究対象としてとても不思議で、それが自由に扱えるようになれば……というSF的なノリで考えているんですが。

畠山 自由に扱えたらめっちゃ売れそうですよね。

円城 お笑い芸人もそうなのかもしれない。

畠山 なるほど、確かに。

円城 歴史小説も喋り言葉の形が決まっていますけど、当然日本語におけるジェンダーの問題も絡んでくる。日本語の中のジェンダー差異を排除していった方がいいのでは、と思いながら、それをすると悪役令嬢ものが成り立たなかったりする。お嬢様が出てこない悪役令嬢ものが可能なのか、という問いが生まれたりもするので、五年後くらいの新刊ではそのあたりを目指している可能性があります。不可能状況ラブコメとかもそうですが、僕の興味は結局、語りで無茶をすることに向いてるのかもしれません。

畠山 僕は役所で働いているので、そういう意味では役所の文章は日本語として面白いと思いますね。
 たとえば、デリダじゃないけども、郵便は届いたか届いてないか、厳密に言うとその人の「勢力圏」に入ったかどうかで税が、つまりは所有権の剥奪と身体拘束へのカウントダウンが発生するかしないかが決まるんです。そういうわけなので、税を払ってない人が「いや、通知もろてないし」と弁明する場合があるんですが、その時役所の側が引用する法律の条文が、「郵便は通常到達すべきであった時に送達があったものと推定する」みたいな不思議な日本語なんですよ。要するに、「常識的に考えて届いてると考えられるタイミングで届いてるとみなす」ということなんですが、本当は着いているか着いてないのか分からない郵便物もあるのに、そういう偶然性をつぶす凄まじい日本語の使い方をしている。

円城 それは大きいと思います。近代法学がどこから入ってきたかという話でもあるし、日本国憲法の条文って何なんだということでもある。
 僕の文章も日本国憲法の文章に近いと思います。日本国憲法と、英米圏の物理学・数学の教科書が翻訳された日本語と、司馬遼太郎と田中芳樹を混ぜるとだいたい僕の文章になる。

畠山 ホンマですか?(笑)

円城 めちゃくちゃな取り合わせだから、逆に気づかれない(笑)。すごく代名詞が多いんです。「これを何々とする」とか。

畠山 ああ、それはめっちゃ思います。僕だったら「これを」にトルをつけてるなあ、と円城さんの文章を読んでいるとよく思うんですが、あれが説得力を生んでいる。ああいう言い方をされると、「そうなんだよなあ」となりますね。

円城 お役所の文章が日本語としておかしいのと同じで、なぜかインストールされた謎の構文です。なにか拘束力があるような気がするんです。

畠山 まさに拘束力。「いや、この《場》、存在してっから」みたいな圧がすごくありありと伝わってくる。ああいうのは翻訳できるんでしょうかね。

円城 難しいかもしれないですね。そういう特殊近代日本語を使っているという自覚はあります。

畠山 僕も奥さんによく言われるんですが、説得力がなくなりそうなとき絶対これを言う、みたいな言い回しがあるんですよ。古井由吉さんとかもけっこうやりはるんですよね。自分であやしいなと思ったら、「かえって」とかそういう「古井語」のようなもので補強していく。

円城 そういう技術は、翻訳の人でもあるということに由来がありそうですね。

畠山 しかも、それが技術と見抜けたところで説得力は変わらないんです。

円城 文章としては不要なはずなんだけど、しかしそれをなくすとダメになる。それはロジックではない、というのが難しい。
 というところでお時間なのですが、何かご質問等ありますか。


▼質疑応答——ジャンルについて/文体で言語をハックすることについて

会場からの質問① 「改元」を、出自としては純文学なのだろうと思って読んだんですが、ホラーのような要素もかなりあると感じました。書かれている時は純文学として書こうと思ったのか、ジャンルものとして書こうとしていたのか、お聞きしたいです。

畠山 ジャンルはあまり気にしていなかったんですが、書いている途中で「龍が出てくるな」ということになったんですね。龍が時間であり、国家でもあり……ということを考えていくと、やっぱり説得力がなければならない。そうなると文体は濃いめがいいだろうということで、古井由吉さんや松浦寿輝さんのスタイルを参考にしたり、話の構造を先行作品から拝借したりして、それらをリミックスしてなんとか説得力を出すことに注力していました。その結果としてホラーやSF、幻想文学っぽくなったということなので、ジャンルというよりはディテールや文体の要求でそうなっているという感じです。

会場からの質問② 「文体レベルで日本語をハックする」という話があったんですが、伊藤計劃さんの『虐殺器官』のような話で、司馬遼太郎はジョン・ポールだったのかと思ったんですが、そのあたりのお話をもう少し伺いたいです。

円城 まあ、そういうことですよね(笑)。司馬遼太郎作品が好きな人は業界団体の上の方とかにも多いんじゃないでしょうか。「日本人スゴイ」とはまた違うというのが上手いところです。あと日本人と日本が「健気である」ということと「小国である」ということを言い続けているんですけど、「小国である」はやめた方がいい。そういう細かいところに、極めて巧妙に入り込まれているという気がします。
 一応、『虐殺器官』では「虐殺言語が本当に存在したのか分からない」というエクスキューズが入っています。それはフィクションの中のフィクションであったかもしれないし、ただ虐殺という現象があって、皆その周りを回っていただけかもしれない……という仕組みまで含めての『虐殺器官』でしたね。

畠山 それでは、このあたりで。今日は本当にありがとうございました。

(完)

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◆登壇者プロフィール

畠山丑雄(はたけやま・うしお)
 一九九二年生まれ。大阪府出身。京都大学文学部卒。二〇一五年『地の底の記憶』で第五十二回文藝賞を受賞。

円城塔(えんじょう・とう)
 1972年北海道札幌市生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了。
 2007年『オブ・ザ・ベースボール』『Self-Reference ENGINE』でデビュー。2012年『道化師の蝶』で芥川龍之介賞、2013年、『Self-reference ENGINE』でフィリップ・K・ディック賞特別賞。2017年『文字渦』で川端康成文学賞受賞。2019年、同作で日本SF大賞受賞。アニメーション作品『ゴジラS.P』SF設定・脚本、ラフカディオ・ハーン『怪談』翻訳等。近作に『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』など。

構成:石原書房
2024年12月7日(土)於 深夜喫茶/ホール 多聞


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