作庭の話1
庭 葉が繁り、日影が夏の暑さを和らげる、落葉し日向が冬の寒さを和らげる。
そのため住まいの南面に植えられた落葉樹。北からの風を和らげる、落葉ではない常緑高木屋敷林。この敷地に、木と土と(柱、壁、屋根)で作られた住居は、これら樹木の延長のように思えませんか。
人は自然の中の、ひとつの生物との考えは、私達の暮らしの基調であった ようです。
定住以降の概念である敷地の利用の仕方に、人々の思考(定住以降)が表れるはずです。それを庭に例えて述べていきます。
築山を作り、石組みを行い、水の流れに沿って(実際の流水ではなくイメージもあります)常緑針葉樹(松等)、常緑樹(馬酔木、杉、ツツジ等)、落葉樹(紅葉等)を配置し、時に四神相応(玄武、鳳凰、白虎、青龍)な世界や、蓬莱(不老長寿)を表しつつ、真行草(無作為の自然観)で庭園を小宇宙化する。更に、樹木を削り、大地、惑星、地球形成の素となる岩、石、つまり炭素レベルまで一層抽象化し、量子物理学的に素の宇宙観を表したコンセプチュアルな庭園(枯山水)等。
これら庭園の形は、時代により、施主により異なります。
枯山水 人は、自分が有る以上、自己=エゴとする考え方に、仏教が百八の煩悩として言葉を与えたと同様、枯山水は、それらを空間、場所で表したケガレの 思考のように思えます。ケガレを浄化させた純粋無垢な悟りのような感じ です。
蓬莱 一方、蓬莱(不老長寿な仙人の住む地)は、生と死が、一つの線上に繋がっていて同じようなものではなく、生は生、死は死と言ったように生死を別なものと分けている。(極楽VS地獄観)つまりは、あの世よりこの世、現世利益な思考のように思えます。
人故のケガレを受け入れ、受容し、矛盾があっても生きる事を優先させる、生きたままの極楽を求めるような感じです。
蓬莱の庭園は、平安時代、貴族が施主。枯山水の庭園は室町後期、武家が施主であった所からも、思考の違いはうなづけます。
庭造り、営みづくり 文化は大別して、二層の流れ、文脈で見ることとは、既に述べたところですが、これらの庭園からは、私達の暮らしの基調であった、人は自然の中のひとつの生物との考えは、余りイメージできません。
リアルな暮らしと言うより、精神世界に重きを置く立場にあった人々の系だからでしょう。
私達(被支配層、民衆)のリアルは、生きるに直結する農や食の営みから庭(場所、土地、敷地)を見る事かもしれません。