旅の予習、どのくらいしますか? 知識と経験のはざまで【ウィーン旅行振り返り編5】
知識として知っているのと体験として知っていることは全然違う。今回の旅は何度もそれを感じた。といっても何か特別なことが起きたわけではない。1年ぶりの海外旅行で、感覚がいつもより研ぎ澄まされ、そんな気がしただけだ。
今回は旅行の予備知識と実際の体験の関係について記録しておく。ちなみにこの回で言う「知識」とは、名所旧跡にまつわる歴史的背景などの知識ではなく、旅のノウハウのような情報を「知識」と呼んでいます。
旅の目的地をウィーンにしようと決めたのが、今年(24年)の冬。実際にウィーンの地に足を踏み入れたのは、ゆうに半年以上たってからだった。その間、YouTubeを見たり、各サイトやブログを読んだり、X(旧ツイッター)で現在進行形の情報を拾ったりしていると、さまざまな情報が意識的、無意識的に飛び込んできた。
そんなふうだから、出発前から既にウィーンの代表的な観光地は「見慣れた風景」となり、実際に現地を訪れると、果たして、事前に予習してきたものが目の前に広がっていた。
もっとも、観光旅行は往々にして、自分が想像していた風景や体験の「答え合わせの旅」でもあるので、事前にインターネットや本で仕入れておいた情報や風景がそっくり現れても、がっかりすることはなく、却って「ああ、やっぱりそうだよね」と「正解」を得てどこか安心している自分もいる。
では世の中に出回っている書籍を読んで映像を見ていれば、わざわざ海外に行かなくてもいいのかというと、それはまた別の話。私は先人たちの体験を見聞きすることで行った気になるのではなくて、逆に「私も行ってみたい」と猛烈に感じてしまうタイプ。なのでむしろ、答え合わせをしにわざわざ旅に行く、と言ってもいい。
そうして実際に旅に出てみると、どれだけ予習やイメージトレーニングを重ねていたとしても、思うように電車に乗れなかったり、見たいと思っていたものが工事中で見えなかったり、天気が悪くてそれほど感動が得られなかったりする。こういう理想・想像と現実とのずれこそが実は「私オリジナルの経験」と呼べるものであり、オリジナルの経験を一つ一つ積み重ねることが、旅の豊かさにつながっていく。
街を歩いているとどこからともなく聞こえてくる教会の鐘の音、日本とは違う救急車のサイレンの音に「ああ今私、ヨーロッパにいるんだ」と実感させられた。
自然なレディファースト、日曜日に潔く閉まるスーパー、たばこと香水が入り混じったにおいにも、文化や習慣の違いというものを感じた(ウィーンは路上喫煙がOKなのか、結構あちこちでたばこの香りがした)。
流すのを躊躇してしまうくらい分厚いトイレットペーパーの肌触りなんて、文字通り「肌感覚」でしか得られないものだった(関係ないけど、日本のトイレットペーパーの薄さは金箔伸ばしに通じる職人技だと思う)。
自己流の英語で知らない人に話しかける勇気、レストランの店員さんに優しくされた(ように感じた)時の安堵感などなど、探りで得た経験や感覚は、頭で覚えた知識と違って忘れにくいだろうし、たとえ忘れてしまっても多分何かの時に思い出す。
公共交通機関のチケットは打刻を忘れずにとか、この辺は危険な地域だから近寄らないほうがいいとか(注:一般論。ウィーンが危険というわけではない。むしろウィーンは安全な街だと感じた)、ここではこの角度からの或いはこの時間帯だといい写真が撮れるとか、ロストバゲージ対策とか、過去に旅行をしてくれた先人たちのおかげで、お役立ち情報から教訓まで、実にさまざまな予備知識が得られる。
それら膨大な情報の中から、どこまで仕入れていくか。事前に詰め込んでいった知識や情報でがんじがらめになるのもどうかと思うし、逆に全く知らなさすぎると万が一の時に危険にさらされる場合もある(特にスリ、詐欺、ひったくりなどの犯罪関係)。その塩梅が結構難しいなと思う今日この頃なのである。
旅のスタイルに正解はない。自分が正解だと思うスタイルを確立出来たら、それは多分とても格好よくて素敵なことなのだろう。