人って脆いなぁ(167/365)
施設にいたおばあちゃんが膝の手術のため入院してから約3ヶ月ぶりに帰ってきた。
久々に顔を見せ「元気やった〜?リハしに来たよ〜」と声をかけると、綺麗サッパリ僕の事を忘れていた。
そしてココがどこかもよく分かっていない。
話していても、今までとは全然違う。
辻褄が合わない話ばかりする。
入院する前は「今度孫の結婚式があるから歩けるようにならないと!」と意気込んでいたのだが「あんたまだ孫はまだ中学生よ」と言っている。
認知機能が低下していた。
自分の名前も曖昧だ。
その割にはタバコの吸い方はちゃんと覚えていて、事務所で一本もらい外で気持ちよさそうにふかしている。
気さくなおばあちゃんだから、僕の事も近所の兄ちゃんくらいに思って新しい人として接してくれる。
まぁ今日一日ちらっと会っただけだから、日常生活に支障をきたしているかは分からないけど、記憶は薄れていたりしていても問題なく生活できているならそれでいいと思っている。
でだ。
僕が思ったのは、認知症がどうってことではない。
それは医学的な事になってくるだろうから、あまり分からない。
思ったのは、
「人って脆いなぁ」って事。
これはこのおばあちゃんがどうってことではなく、そもそも人という存在自体が脆いよなぁということ。
だってたった3ヶ月で、周りの世界が変わってしまう。
今まで築き上げてきたものとか関係なく。
僕らはおばあちゃんを当時のまま認識しているけど、おばあちゃんは僕らを違う誰かと認識している。
なんかこのおばあちゃんを引き合いに出したら「心のどこかには大切なものは覚えていて忘れてなんかいない!」と非難されそうなので、別の例えを使うとする。
僕は赤い丸いあの果物はリンゴだと思っているけど、僕以外の全員が急にあれはブドウだなんて言い出したら、いくら僕がリンゴと言い張ろうともそれはブドウでしかなくなる。
逆に今までリンゴというものが存在していた記憶が僕の頭の中から消えてしまって、代わりにそれをブドウだと認識したらそれはブドウでしかなくなる。
ん?果物で例えたのがいけなかった。
僕のことを、僕以外の世界中の人が急に「太郎くん」として接してきたら、いくら僕が「オレは太郎じゃない」と訴えても、もう太郎として生きていくか精神を壊すしかない。
逆に夜寝ている間に僕の今までの記憶がなくなり、目が覚めると「オレは太郎だ」と言い出したら、周りに「どうしたんだよ!」と言われようとも、僕は「太郎」になって、今までの僕はいなくなる。
何が言いたいかと言うと、世の中のすべてのものは”周りの認知”と”自分の記憶”で成り立っているだけだということ。
もし、それらのどちらかが崩れれば、たちまちその存在は新しいものに塗り替えられる。
所詮、何かをそれと言わしめているのはそんなものでしかない。
それは人でも同じ。
自分を自分として確固たるものにしているのは、たったそれだけなのだ。
脆い。
だから「自分とは」みたいなのも最近はあんまり考えない。
だって考えたって仕方がない。
いつ崩れるか分からないものに、ビビりながら生きるのも何かもったいない気がする。
それなら、考えないほうが気楽だ。
明日いなくなるかもしれない、イマの自分を生きたほうがいい。
というのを思っていたら、人というものを「ジェンガ」で比喩できるんじゃね?と思ってきたが、まだうまく言えないので、また今度にする。
というか、寢らずに記事を書いていたら太陽が登ってきてしまって、そのままnoteも書いているから頭が回っていない。
この記事はたぶん???となる人もいるだろうなぁと思いながら書いているけど、これ以上説明できそうにもないので終わる。
以上。