スケープゴート -01-
―ZELLE―
病院に運び込まれてからも、大声を上げて叫んでいた。すると白衣に着替えた藤崎が注射器片手に傍にやってきた。
「これで少し楽になるから、ゆっくり休みなさい」
その後意識は途絶えた。気を失ったのか、何があったのかイマイチ理解できなかった。目が覚めたとき、緑色の天井が見えた。ここはどこだろう?布団から一段下の所には和式便所が備え付けてある。トイレットペーパーは無造作に床に置かれている。ふと周りを見回してみると、そこは緑色の壁に囲まれ、鉄格子で隔離されている場所なのだと気づく。
夕海は記憶を整理する。確か私は出勤前だった筈なのに、何故こんなところに居るのだろう…?ぼやけた記憶を辿りつつ、現状も把握しなければならない。そうこうしている内に、
ガチャン!!
白衣姿の男性がお膳を持って格子の前に立つ。出入り口と思われる格子のドアの下を潜らせて、食事を夕海の居る部屋に入れる。一体ここはなんなのだ??確か…そうだ!!
仕事中に藤崎と名乗る医師がやって来て、その翌日も家に来て、無理やり病院に強制入院させられたのだ。この段階で全てを思い出した夕海。思い出したからと言ってどうという事はない。
地を這うように滑らせながら入れられたお膳に手をつける。時間は分からないが、食事の時間なのだろう。朝・昼・夕のどれなんだろうと考えつつ夕海は食事を口に運ぶ。食べ終えて、布団の上でゴロゴロしていると、今度は違う男性がやってきた。
「食べた?ならお薬を飲もう」
と言われる。
薬??私に何の薬が必要なのだ??と思う夕海だが、逆らうのは得策ではないと判断し、促されるままに薬を口に入れる。水の入ったコップを手渡され、ごくりと嚥下する。薬は何錠もあったが、すんなり喉を通った。この薬がどのようなものか分からなかったが、この時の夕海にとってはどうでも良いことだった。
「口を大きく開いて見せて」
と、男性に言われ、口を大きく見せる。確薬らしい。足早に去って行く男。それを尻目に夕海は又布団の上でゴロゴロする。
ここで、夕海は困った。食事を摂るという事は、排泄物も出るという事。トイレは備え付けの和式トイレがあるじゃないかと思うかもしれないが、そこには流すレバーがない。格子の外の誰かが、確認してからでないと流してもらえない。夕海も年頃の女性なので、大きいほうをするのには抵抗があった。しかも誰かに見られるなんて嫌だ!!そう思って、便意を抑える。でもどうしたって、限界は来る。しぶしぶ和式トイレに股がり、用を足す。
一度してしまえば、何事も慣れる。一体夕海は何日間格子の中に居たのであろう。繰り返し訪れる食事と服薬と睡眠を繰り返す。
深夜だったろうか、眠る前のお薬を飲まされた夕海は、誰かの絶叫で目を覚ます。
「出してーー!!!お願いーー!!!」
と、激しい声が聞こえる。
夕海の隣の房からなのか、呂律の回らない叫び声が聞こえる。夕海は興味本位から、声を掛けてみることにした。もう何日たったか分からないこの場所で、夕海はとても暇をもてあましていたからだ。
「どうしたの?何がそんなに嫌なの?」
夕海は話しかけてみた。途端に叫び声は止み、返答があった。
「あなた、誰?」
夕海は答える。
「私は夕海。あなたの隣に居るの。大きな声を出すから目が覚めちゃった」
正直に本当の事を言う夕海に対して、
「あ、ごめんね。他の人もいるのにこんな時間に叫んじゃって…」
「ううん、いいの。ところであなた、名前は?いくつ?」
と矢継早に質問する。
「私は明美、二十一歳です。迷惑掛けてごめんなさい」
年が近いのもあり、この格子の中は暇すぎるので、暇つぶしの話し相手としては丁度良いと考えた。だが、話していくうちに、明美のどもりや呂律が回っていないことが気になり始めた。矢張り、ここはそういう病院で、精神を病んだ人間の集まりなのだと絶望した。
何日目かの朝か昼かいつか分からないが、医師の診察があるということで、格子の外に連れ出された。連れ出された先には白衣を着た藤崎が座っていた。この男のせいで…と思いつつ、問診を受ける。
「どう?大分気分は落ち着いた?幻聴や幻覚・妄想はよくなったかな?」
などと問う。
そもそも、夕海には幻聴も幻覚もましてや妄想すらない。何を以ってして夕海が幻聴・幻覚・妄想があると判断したのかは知らないが、甚だ不愉快な事はこの上ない。しかし、ここで反抗的な態度を見せたらマズイとも感じていたので、ハイハイと生返事しつつ、藤崎の言いなりに肯定しておいた。後々それがまずかったのだが、今は気付く由もない。あまりにも夕海は無知だったのだ。
―Dルーム―
診察の後、藤崎の指示で夕海は一般病室に移った。所謂大部屋。六人もの患者がひしめきあう病室。今まで居た格子のある部屋は隔離室・保護室と呼ぶらしいこともその時知った。
同室には、老人ばかりが居たが、運が良い事に年の近い子が二人も居た。ひとりは田中ちゃん。若干頭は弱いが、人情味溢れる子で他の老人患者の世話をよくする子。もうひとりは斉藤ちゃん。この子は少し変わった子で女の子の恋人が居て、元もとデリヘル嬢だったという過去の持ち主。三人とも喫煙者で、日中の大半は喫煙所でバカ話をしていた。
夕海は今まで入院した経験がないので、精神科の病棟と他の病棟の違いは分からなかったが、喫煙所があるのは病院では珍しいと思った。基本的にどの病院も院内での喫煙は禁止されている。沢山の疑問があったので、喫煙所に集まる人たちに色々質問した。
喫煙所は所謂社交場で、喫煙者同士、仲良く和気藹々にやっている。男性患者・女性患者の隔たりもない。煙草を吸うもの同士の中々味のあるやり取りがあったのだ。田中ちゃんと斉藤ちゃんといつも三人で喫煙所に居るのだが、入れ替わり立ち代り、色んな人が煙草を吸いにやってくる。そこで出会ったのが、タケちゃん、二十歳の気が弱そうで無害そうな子がやってきた。
「ごめん、煙草一本頂戴」
夕海は自分の煙草が減るのは嫌なので断っていたが、田中ちゃんがさっと一本手渡す。
「これで三百円だよ」
「分かってる。今度のお小遣い日にちゃんと渡すから」
タケちゃんは答える。
どうやら田中ちゃんは煙草を売っているらしい。あとで聞いた話だが、一本五十円で売っているとのこと。そのお陰で田中ちゃんはお金持ちなので、売店でお菓子を沢山買えるとのこと。夕海はと言えば、まだ入院して日が浅いのでお小遣い所か、お菓子なんて食べたことはない。
精神科の病棟は、本当に病んでいる人が多い。奇行・奇声を上げる人、突然暴れたりする人も多々居る。そんな中、夕海は特に問題を起こさず静かにすごしていた。
しばらくしてから、夕海は身体の不調に気付く。身体中から血の気が引いたようで、いつもフラフラになる事が多い。手の振るえや、緩慢な動き、呂律が回らなくなる。などなど、沢山の症状が出てきた。そのことを医師・藤崎に訴えると、
「それは副作用なので、それを止める薬を出しますね」
とだけ言われて終り。
医師とのそんなやり取りは最初気にもとめてなかった。喫煙所で田中ちゃん・斉藤ちゃんと一緒に過ごすのが楽しかったから。食事があまり摂れなくなっても気にならない。逆に良いダイエットになると考えて居たし、とどのつまり、細かいことはどうでも良かった。
此処は、今までで一番暴力から隔絶された、安全な場所。他の患者は家に帰りたい帰りたいと念仏の様に唱えるが、夕海はそうは思わなかった。出来ればこのまま居たい。と思っていた程だ。だが、心地良くすごす為には、まだまだ沢山の制約がある。みんなと同じようにお小遣いを貰い売店でお菓子を買ったりしたいとも思った。煙草も一時間に一本しか吸わせて貰えない。中には一日一箱自分で管理出来ている人もいた。そこで、田中ちゃんと斉藤ちゃんに聞いてみた。
「ねぇ、お小遣いもだけど、煙草もどうやったら良い様に貰えるの?」
「そりゃ、あれだ、主治医の許可があれば一発よ。あ、でもお小遣いに関しては、家族の意見も取り入れられるから、家族にちゃんと前もって言っておかないといけないよ。」
と、田中ちゃんが詳しく教えてくれる。すかさず斉藤ちゃんが
「お小遣いは週に三千円までだから、その間でいくらが良いか、いくらなら家族が許可してくれるかを事前に聞いて、医師に報告しなきゃいけない。病院のスタッフにそれをして貰うとえらく時間が掛かるからね」
ふむ、と考える夕海。家族に連絡ったってどうすれば良いのかわからない。
「家族に相談どころか、私、面会すら来て貰えないんだけど、やっぱり電話?電話代だって、家族持ちな訳でしょ?一体どうしたら良いの?」
「電話代はツケでもらえるよ。五百円のテレフォンカードを一枚ツケで貰いなよ。そうしたら、電話できるから。それに、夕海は服とか靴とか、日用品があまりにも少ないから、面会じゃなくても、そういうのは持ってきて貰った方が良いよ。いつまでも病院の備品を借りててもお金掛かるだけだし」
という訳で、夕海は、詰め所(ナースステーション)へ行き、足らない日用品などを家族に持ってきて貰う連絡がしたいので、テレフォンカードをツケで貰えないかと聞く。詰め所のナースは、少し考えて夕海に伝える。
「ごめんね、今荒木さんはとても安定はしているけど、外部への連絡となると、家族でも主治医の許可が要るの。診察は必要ないと思うけど、主任に確認して貰ってからでも良いかな?」
精神科と来たら、何かにつけ、主治医の許可がどーのこーのと五月蝿い。常にナースたちも指示待ち状態で決まった枠でしか患者に対してケアできないという制約がある。だから、ナース達は普段、特変がない限り、詰め所内で書き物をしつつ、お茶を飲みながらお菓子を食べている。とりあえず、夕海は内心毒づきながらも、待つことにした。
喫煙所に戻り、田中ちゃんと斉藤ちゃんに事の次第を伝える。
「あー、やっぱりそうかぁ。夕海はまだ入ったばかりだから、どこまでがOKかわかんないから、ナース達も判断できないんだよ。あとあと面倒だから、次の診察の時に色々自分で先生に聞きな」
と、田中ちゃん。
そうこうしていると、また喫煙所に誰かがやってくる。その姿を確認するも、夕海は面倒臭い人が来たなと思っていた。その人は四十歳男性、里中という。喫煙所の常連で、付き合いで夕海もよく話しをするが、最近その里中に求愛されて困っていた。田中ちゃんと斉藤ちゃんはニヤニヤしながら里中と夕海を見る。いい加減、人で遊ばないで欲しいわね、と思う夕海だが、閉鎖病棟という退屈な空間で見つけたおもちゃだと思うことにしていた。
「夕海ちゃん、まだお小遣いとかお菓子も貰えてないだろ、これ、あげる」
一包みのチョコレートを貰う。
患者間での物品や金銭の授受は禁止されているが、誰もがこうやってナースの目を盗んでやり取りをしている。夕海にとって、里中は都合の良いカモだったのだ。だから、夕海はいつも満面の笑みで喜びながら受け取ってやる。話もうんうんと聞いてやる。そして彼が去ったあと、女三人で笑い転げる。女三人集まればかしましいではなく、陰湿。
午前中に詰め所にテレフォンカードの事を聞きに言ってから、早数時間。もうすぐ夕食の時間になると言うときに、夕海はナースに呼ばれた。
「今まで色々と制約があったろうし、お小遣いや売店についても纏めて聞いてくれる?そうすればこちらも逐一確認取らなくて済むし、時間も掛からないから…」
この意見には夕海も大いに賛成なので、同意した。急遽、医師の診察も入れてもらう。
「最近調子はどうですか?眩暈やふらつき、手の振るえと仰ってましたが、それを止める薬は効いてますか?」
主治医である藤崎に問われる。
「眩暈やふらつき、その他もろもろ色々と残りますが、以前よりは楽になれたと思います」
かわす、夕海。ここで、あーだこーだ言っていてもはじまらない。夕海が欲しいのは数々の許可なのだ。
「困ったことはありませんか?」
医師が問う。それ来たとばかりに夕海は告げる。
「日用品や服や靴など、足りないものばかりで、病院の備品をお借りし続けるのも心苦しいですし、費用も掛かってしまいます。ですから、家族に連絡を取りたいのですが…。あと、お小遣いや売店についてなど、煙草も自分持ちにしたいです」
「そうですか、分かりました。荒木さんは概ね経過は良好ですし、特に目立った問題も起こしていないので、全て許可しましょう。お小遣いについても、ご家族と話合って頂く為にも、一度電話をされた方が良いでしょうね。指示箋だしときますので。あと、お薬の調整について何かありますか?」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。お薬については、夜寝付きが悪いだけで、そんなに特別困って居る訳ではないのですが、寝付く時間が遅くなってくると、朝起きる時間がズレてしまい、朝食に遅れてしまいがちではあります」
「そうですか、では、寝る前のお薬も少し増やしておきます。入院中は規則正しい生活を送って、少しでも早く社会復帰できるための訓練の場と思って、荒木さんなりに頑張ってください。今日はもう良いですよ」
これで終わり、夕海は詰め所から出る。
何が、規則正しい生活だ。社会復帰の訓練だ。元々何の問題もなかったのに、無理やり入院させられてそのような言葉を聞かされても、片腹痛いだけだ。何かにつけ、薬を増やしたがる医師とその所為で段々と脳が蝕まれ、ADL(日常生活動作)も失われていく毎日。
ともあれ、今回の診察で、とりあえず制約のありそうな事全ての事柄について、許可は貰った。なので、ナースからテレフォンカードを一枚貰う。それを使って夕海は家に電話を掛けることにした。
詰め所を出て、すぐ左側の所に公衆電話が置いてある。テレフォンカードを入れて電話が出来るというもの。ごく一般的な電話ボックスに置かれている電話がそこには置かれていた。
いざ、電話をしようとカードを電話機に挿入しダイアルを押し始めると、後ろに人影を感じた。何だろうと思い、振り返ると、そこにはナースが立って居て目が合った。
「すみません、家族との電話は許可されているのですが、本当に家族に電話しているのかチェックしないといけない決まりなんですよ」
ナースは言う。
監視されながらの電話はとても気分の良いものではないが、決まりは決まりだ。仕方なく甘んじて受け入れつつ、家に電話する。
「はい、荒木です」
電話には義父が出た。
「あの、夕海ですけど、少し時間良いですか?」
「ああ、おまえか、どうした」
「日用品や服・靴など足りないものが多すぎるので、先生に電話を掛けて持って来てもらうようにと言われたんです」
「そのことなら問題ない。今週末にまとめて持っていく予定だ。何か特別にいるものでも他にあるのか?」
「いえ、特別に要るものはないんですが、病院内で与えられるお小遣いの件についてなんですが、家族の同意がないと貰えないんです」
「小遣いとはいくらだ?」
「週に一度、三千円までだそうで。」
「そのくらいなら問題ない。別に構わないから貰いなさい。請求は私達に来るのだろう?」
「あ、はい。そうなります。でも良いんですか?三千円は上限額なんですが…」
「おまえの為に作る時間もない程忙しいんだ。今田植えの時期だからな。だから、今度持って行く荷物と、その小遣いでなんとかやりくりしなさい」
「わかりました。そのように先生にも伝えます」
ガチャンと電話をフックに掛ける。
振り返るとナースが言う。
「お小遣いは三千円でオッケーってことよね?一応、後ろで話を聞いていたし、嘘をついているようにも見えなかったから、ドクターに伝えておくね」
と言い、足早に詰め所に戻る。
夕海も、喫煙所に戻る。そこでは田中ちゃんと斉藤ちゃんが心配そうな顔で待っていた。夕海はピースサインを作る。すると、二人は破顔する。
「大方全て、許可貰ったよ。あ、煙草は一日一箱自分持ちになりましたー!!」
「えー良いなーあたしなんか三日に一箱なのよー。まぁ家族がお金ケチってるせいだけどさぁ。この中から自分も吸って、人に売ってってやりくりきっついんだよね」
田中ちゃんが答える。
「私なんて、一日三本よ…田中ちゃんはまだマシよ…おやつのお菓子だって私ないし、お小遣いすら貰えないんだから…」
と斉藤ちゃんが恨めしげに言う。
「まぁまぁ、私入院してから煙草もグッと減ったし、今まで一時間に一本でも割と満足してた訳だから、余ると思うから、二人にも分けてあげるよ。お菓子にしても私甘いものとか苦手だから、あまり食べないと思うし…」
とそこまで言い終えると、田中ちゃんと斉藤ちゃんは嬉しそうな顔をしていた。まぁ、付き合いのひとつだ。と夕海は割り切っていた。モノで人が釣れるなら楽なことこの上ない。
「マジでー助かるー。やっぱ、持つべきものは友達だねー」
と、田中ちゃんと斉藤ちゃんは顔を見合わせてキャーキャー言っている。
夕海はといえば、”ちょろいなこいつら”と腹の中で思っているのだが、とりあえず、此処では友人も出来、居心地もぐんとよくなるであろう。そう思いつつ、話に混ざる。
「あ、そういえば、OTの許可は取った?」
斉藤ちゃんが夕海に尋ねる。
「へ!?OTって何?」
「えっとね、午前と午後に分かれてるんだけど、ほぼ毎日そこで作業したりカラオケしたりする所。要は暇つぶしが出来るのよ」
「ねぇ、それには二人とも行ってるの?」
「行ってるよー。あたしはカラオケの時にしか参加しないけどね!」
田中ちゃんが当然かのように答える。
「私は、結構頻繁に通ってるかな?」
と斉藤ちゃん。
「ねぇ…」
と夕海が二人に投げかける。
田中ちゃんと斉藤ちゃんは不思議そうに首をかしげる。
「そう言うことは、診察前に教えておいてよー!!」
と叫んだ夕海は本心からだった。
そんな夕海を見て笑い転げる二人。うん、そんなに悪くないじゃないか、此処は…このまま上手くやっていけば、居心地も良いし、楽チンだ。夕海はそう思いつつあった。
エッセイ中心でノンフィクションの創作を中心に書いていきたいと思います。 昭和58年生まれなので、時代的に古いかもしれませんがご興味あれば! 機能不全家庭・暴力被害・LGBT・恋愛・インターネット・いじめなどなどetc もしよろしければ、拙文ご一読頂ければ嬉しいです。