スケープゴート -02-
―面会―
OTへの参加許可を貰う為には再び診察を受ける必要がある。診察までの待ち時間、夕海は喫煙所で暇をつぶしていた。その日は土曜日だった。日曜日には医師は居ないので、土曜日にギリギリ許可を貰って翌週からOTへの参加を認められたかったのだ。そんなことよりも夕海は重大な事を忘れていた。
入院してから、早二週間は経とうとしていた。面会も家族からの連絡も一切なく、さまざまなことがありつつ日々を過ごしていたから、あっという間に過ぎていく。しかし、今日この日は家族が面会に来る予定だったのを夕海は度忘れしていた。いつも通り、喫煙所でさまざまな他患者とのふれあいがあり、いつもの三人でお喋りに興じていた。
「ねぇ、OTってどういう意味なの?」
と問う夕海。
「そんなん知らないよー。OTはOTだもんねー、斉藤ちゃん」
「確か作業療法の英語の略だとは聞いたことがあるよ」
と斉藤ちゃんは振られて答える。
「やっばーい、マジで斉藤ちゃん頭偉いねー!!あたしなんかそういうのどうでも良いってか、聞いても覚えらんないよー。夕海っち、作業療法だってー」
「そうなのね。作業療法って言うのか、で、英語で略してOTか…。でも、英語ではどういうのかも気になる。OT!!って言われてもピンとこない」
「そんな細かい事気にしてたらハゲるよー夕海!!考えるのは毒だ。やめな!!」
「Operatinon Traningとか?」
と、斉藤ちゃんが呟く。
「あ、それなんかっぽいよね。作業療法みたいな…?」
と夕海が応える。田中ちゃんはどうでも良さそうに煙草をふかしていた。
お昼過ぎだったろうか。昼食後、いつものように喫煙所で煙草を吸っていると、ナースに声を掛けられる。
「あ、荒木さん、ご家族の方が今見えられてて、先生とお話されているみたいなんです。荷物とかあるみたいで、多分面会されると思うので、少し待っていてください」
と聞かされる。
突然のことだった。そりゃあ、電話では荷物は持ってくると言っていたが、面会をするとまでは言って無かった。正直夕海としても、日常的に暴力を振るう加害者と対峙したい筈も無く、荷物だけ届けば良いと思っていた。 だからこそ、これは本当に突然のアクシデント。緊張から手足が振るえ、かじかんだように歯が鳴る。落ち着こうと喫煙所に戻るも、夕海の異常を察した二人が心配そうに声を掛ける。何を言われても頭に入ってこない。とりあえず、煙草を一本取り出し、火をつけ煙を肺に吸い込むことはできた。
一本吸い終わった所で、まともに息が出来始めた。心配そうに見守っていた 田中ちゃんと斉藤ちゃんの存在にもやっと気付くことが出来た。
「あ、ごめんっ!今意識飛んでた」
「ううん、いいのよ。何か言われたの?」
と、斉藤ちゃんが優しく聞いてくる。
「い、いや、大したことじゃないんだけどね。今日はじめて家族が面会に来るって聞かされてテンパっちゃった」
田中ちゃんと、斉藤ちゃんは有る程度夕海と話した上で、夕海の家庭環境の事を知っていたので、これだけで理解してくれた。
「あーそれはマジないねー。あたしなら、面会室でまた殴られるんじゃないかって怖くなるわー」
続けて斉藤ちゃんが言う。
「面会したくないなら、したくないってナースにでも言えば、しなくても良いんだよ?無理しないで?」
二人に慰められ、励まされつつも、夕海は面会を断る事はしなかった。そしてついにその時が来た。ナースに呼ばれて、病棟外にある面会室へ連れて行かれた。閉鎖病棟から開放病棟を通って面会室まで行くのだが、流石閉鎖病棟。全て鍵が掛かっている。職員や関係者しか鍵を持っていないので、患者は自由に出入りできないし、部外者も入ってこれない。鎖国みたいな状況なのだなぁと改めて夕海は思った。
そうこうしている内に、面会室の前に辿りつく。中には家族が居るらしい。夕海は入るのを躊躇する。見守るナース。ナースとしては、病棟外へ連れ出した患者が逃げないか監視しなければならない。面会室にすんなり入らないとなれば、それはそれで逃げ出す危険性があるので、注意が必要なのだ。とは言え、夕海は比較的マトモな患者なので、ナースとしては逃亡の心配はしておらず、緊張と不安でのパニック発作を起こす可能性が高いのでそちらのほうが心配であった。
「荒木さん、さっきから息が荒いけど、大丈夫?過呼吸になってない?」
「だ、大丈夫です。この中に家族がいるんですよね?もう入ってもいいんですか?」
かろうじて応える夕海。
「良いけど、本当に大丈夫?先生呼ぼうか?」
「いえ、良いです。このくらい乗り越えられなきゃ退院もできませんから!」
今度は力強い口調で答える。その言葉を受けてナースも夕海を面会室の中へと促す。
カチャン
ドアノブをひねり、ドアを開ける。その先には夕海の苦手な家族が居ると思われた。
面会室の中に居たのは、義父一人だった。義父は大きなビニール袋三つ抱えていた。中には服やら、本など、その他日用品がギッシリ詰まっていた。電話で言っていたように、夕海に最大限の物品を与えて、あとは小遣いでなんとかさせるつもりなのだという決意が目に見えた。
「おう、これ、もって来たぞ。お菓子とかも少し入っている。食べなさい」
「あ、ありがとう…」
「ところで、病院での生活はどうだ?」
「割と快適で、煙草も自分持ちだし、不便な事はないけど、暇なのが一番嫌です」
黙る義父。何故だろうと首を傾げる。義父は沈黙を破って夕海に語りかける。
「おまえ、何時からそんなになったんだ?目の焦点は合ってないし、呂律も回ってない。気色悪いぞ」
え!?と夕海は思う。目の焦点が合ってないとか、呂律が回っていない等といわれても夕海としては自覚は無いのだから。
「そんなことないです。ちゃんといつも通り普通に喋ってます。何か異変があるのだとしたら、それは薬の所為でしょう。そもそも私なんで入院させられたんですか?」
義父は無言で答えない。しばらく何かを思案しているようにも見て取れた。
「とりあえず、母さんとは距離が必要だったから、病院に入れた。私としてはやり過ぎだと思うが、母さんがあんなもんでな。どうにも出来んのだ。修司もそろそろ自立を考えている時期だし、ちょっとお前には家から居なくなって貰った方が都合が良かったんだ」
「なんですか、それ。あなた方の都合に振り回されて私は入院させられたんですか、それも強制的に。入院してから知りました。これは措置入院と言って、主治医と家族の同意が無ければ退院できないと。あなた方は私をいつまで此処に閉じ込めるつもりなんですか?」
怒りに震えつつも、夕海は言葉にした。義父は間を置いて語りだした。
「今回の件については、非は全面的に母さんにあるとは思う。そこはどうか堪えて欲しい。私も、お前が早く退院できるように先生に取り入ってやるから。だから、どうか静かに問題を起こさずに居てくれ。少しでも問題を起こされると、呼び出されてしまうからな。それさえ約束してくれたら、いつか必ず此処から出してやる。どうだ?」
「どうだもこうだもないですよ。私に選択権なんてないんですから。幸い此処はあなた方の暴力から最も遠く安全な場所なので、特に異論はありませんが、退院後のことが些か不安ではあります。そこらへんはちゃんとバックアップしてもらえるんですか?」
「そこら辺は母さんとも良く話し合ってからになると思うが、修司の自立の方が先だ。お前は後回しになる。それでも良ければ、勘案しないこともない」
「わかりました。あ、そうだ、これからも面会は母と兄抜きであなたとだけにしてもらえますか?三人揃うとやかましいし、精神的にも疲労するので…
もう話す事はないのでこの辺で失礼します」
出入り口の扉に向かい、ブザーを押す。面会終了の合図だ。ナースが扉を開けて、患者と一緒に病棟まで戻る。色んな所を通って病棟まで戻るのだが、所々いたるところで鍵が掛かってるため、ナースがひとつひとつ鍵をあけつつ移動する。なんでこんなにも閉じ込められた状態で生活しなきゃいけないのかなぁ…
などと夕海は思いつつ、病棟に戻る。
喫煙所では田中ちゃんと斉藤ちゃんが心配そうな顔をして、夕海の帰りを待っていた。夕海が戻るなり、
「大丈夫?何もされなかった??」
口を揃えて尋ねられる。
「これみて」
三つのビニール袋を見せる。パンパンに洋服・日用品・お菓子と詰め込まれている。それを見た二人の反応は…
大爆笑。
「あー、おっかしー、それ一度詰め所に持って行って危険物が入ってないか、自分持ちしても良い物かチェックしてもらわないとだよ!!」
田中ちゃんにいわれ、詰め所に持っていく。
詰め所では、外部・家族からの差し入れはチェックされる。全てをリストアップして、個人的に持たせるか、ナースが管理するかを決められる。紐・ガラス・携帯電話・財布・T字のカミソリ他にも多数、鏡など、自傷行為に繋がるような物品は全て管理される。それを使うのを許される時は、詰め所内でナースの見守り・指導下だけ。なので、その億劫さから皆、不精になる。カミソリで無駄毛処理をしようものなら、ナースが監視するというのだからやっていられない。
全てのチェックを受け、化粧品は自分持ち、鏡はNGという事で、夕海の荷物は概ね自分持ちという事になった。大量のお菓子は置き場所に困るので、半分詰め所に預かってもらう事にした。
喫煙所に戻る夕海。
「いやー、精神科ってのはしち面倒だねぇ。全部リストアップして手書きだったよ」
と夕海が言う。
「まあ、カルテも手書きだしねー。なんの為のパソコンなんだかってなるし、あたし、藤崎がカルテに記入してるとこ見ても、字汚すぎて何書いてるかわからないよ」
と、ケラケラ笑いながら田中ちゃんが言う。
「わかるー。なんかいつも、「調子はどうね?ああ、そうね?」とか言いつつ。ミミズ文字書いてるよねー」
キャーキャー笑う。斉藤ちゃんの藤崎のモノマネに夕海も噴出した。
「あ、そうそう、私って目が焦点合ってなくて、呂律回ってないって言われたんだけど…」
「それは仕方ないよ。大量に薬飲まされてんだもん、あたしたち」
「うんうん。入院してるから好き放題に多剤大量投薬されてるもんね。変になって当たり前だよ」
二人に諭される。
「え、ていう事はやっぱりそうなの!?」
真剣にショックが隠しきれない夕海。自分では普通のつもりなのに…
そうではないという事実が受け入れられない。私は他のみんなとは違う。病気じゃないという矜持の元入院生活を耐え忍んでいるというのにっ…!!うだうだ悩んで居ても始まらない。今日は診察の予約を入れてある。全てぶちまけよう。ついでにOTとやらの参加許可も貰わなければならない。
診察室の前で順番待ちをしていた。もうかれこれ二十分。精神科なんて問診だけ。科学者の癖になんの値も見ずに精神科医の主観だけで病名が決まる。そして、何を訴えても信じてもらえず、主治医の独断と偏見によって裁かれ、病名までつけられる。夕海はこの診察を待つのが嫌いだ。藤崎は、割と手の早いドクターで、あまり患者を待たせない。要は、特変ナシ、経過観察と書く類の医者だ。あとは、隙あらば処方を増やそうとする。そうこうしている内に夕海の番が来た。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。調子はどうですか?」
いつもこう始まる。診察室とは名ばかりで、ただの詰め所の中。ナースやクラークが近くで雑談している。そんな中での診察。問診のみ。
「今日義父が面会に来まして、目の焦点が合ってなく、呂律が回ってないので気持ち悪いと言っていました。あと、OTの参加許可をください」
「そうですか、まず目の焦点・呂律云々ですが、それは副作用です。仕方ありません。OTは許可しましょう。他になにか?」
「特にないです」
「そうですか、でも、副作用を止める薬を強めますね。これで少しは呂律も回るようになるでしょう。じゃあもういいですよ」
「ありがとうございました」
ありがとうございました。こんな事心にも思ってない。こんな奴に対して頭を垂れるのも凄く嫌だ。でも、こうしないと退院への道は厳しい。此処は確かに暴力から隔絶された良い場所ではあるけれど、やっぱり自由がない。自由が欲しい。だから退院したい。みんなも同様にこんな思いで一杯のようだ。
ともあれ、OT参加は許可された。一々何をするにも許可が必要なのは面倒だが、来週からはOT三昧だ。それで良しとしよう。
ちなみにあとでナースに教えてもらったのだが、OTとはoccupational therapy (オキュペーショナルセラピー)日本語で、作業療法のようだ。
斉藤ちゃんよ、かすりもしてないぞ。
―入院生活の日常―
OTというのは、聞いていたほど面白いものではない。何をするかと言えば、塗り絵に折り紙、ペン習字。アクティブ系は、外の広場に出て体操やサッカーボール遊び、キャッチボール。体育館が使えるときは、卓球・バスケット、カラオケなどなど。毎回代わり映えのしないプログラム。大抵は皆、そこで何をするか決めている。夕海は初めての時こそワクワクで一杯だったが、一通り経験してみて、退屈さを覚えていた。そしてこの作業療法。参加が決まったら、毎回参加しないと退院の裁定に響くという恐ろしいモノだったのだ。なので、嫌でも参加しなければならなかった。
それでも、外の広場が使えるときはキャッチボールをするのが好きだった。体育館ではバスケ・卓球は愉しかった。カラオケはと言うと、二十人位参加するので、一曲ワンコーラスで終り、一時間半は他の患者の下手糞で毎回変わらない選曲の歌を聴くのが苦痛で参加をしなくなった。その他のプログラムには興味が無かったので参加しなかった。
OTの他には、病棟活動と言うものがあり、千切り絵や千羽鶴の製作、その他レクリエーションなどが執り行われていた。どれもこれも、老人介護向けのプログラムなので、夕海、田中ちゃん、斉藤ちゃんは揃って不参加を決め込んでいた。そんな中、ひょんなことから夕海は主治医の指示の元、コーラス療法というものに強制参加させられていた。主治医・藤崎の考えによると、コーラスのような大声を出す行為は病気の治療の一環としてとてもよいものらしい。田中ちゃんと斉藤ちゃんは呼ばれなかったのに、何故夕海だけ呼ばれたのか…
そこだけは不満だった。
何はともあれ、毎日が穏やかに過ぎていく。他の患者さんは、同じ言葉を連呼したり、喫煙所に来る統合失調症のおばあさんの妄想を延々と聞かされたり、二十年この病棟で過ごしている古株のおばさんの話相手をしたりしていた。
そんな中、新しい患者がやってきた。名前は渡辺さん。年は四十三歳。バツ二で三人の子持ち。この度の入院は少し休養の為と、出会った日に聞かされていた。が、その実は違ったのだ。それは後々分かってくる。それでも、渡辺さんは他の患者とは違い、まともに会話が出来る人だったので、夕海達三人とは上手くやっていた。最初は煙草の本数にも限りがあるとのことだったので、夕海達でカンパもしてあげた。色々と病棟のことを教えてあげたりもした。
渡辺さんは物知りだった。愛読書は太宰治全般で、他にも色んな作家の本を読んで居たりした。意外なことに夕海は読書が好きで乱読家ではあったが、渡辺さんとは良く小説の話などをした。そんな普段の会話の中の話で、夕海は退院後の不安を渡辺にぶつけていた。すると渡辺が教えてくれた。
「まずは、退院したら、自立支援と障害者手帳を申請しなさい。等級に拠っては年金申請もできるわ。他には、そうね、ご家族からの暴力が酷いようなら、女性相談所に相談するのも手よ。女性相談所は、配偶者からのDVメインで取り扱っているけど、とりあえず、女性のシェルターみたいなところだから、暴力から逃げるには丁度良いかもしれない」
などと、参考になることを教えて貰う。夕海とっては手帳?女性相談所?とクエスチョンマークだらけだったが、何か為になる話のような気がした。
* * *
ある日事件が起こる。田中ちゃんだ。前々から田中ちゃんに目をつけていた原田というおばさんがいる。勿論患者である。この患者は、普段は一言も言葉を発しない。何か伝えたい事がある時は喋らず、手話のようなジェスチャーをしてくる。田中ちゃんはずっと付きまとわれていた。そして、田中ちゃんは耐えていた。同じ患者だし、病気の人だから仕方ないと割り切っていた。その箍が外れる事件が起こった。
その日は、田中ちゃんは彼氏と電話していた。丁度夕食後十八時過ぎだった。田中ちゃんが電話をしている側で原田がオロオロしていた。自らしている腕時計をチラチラ見ながら、田中ちゃんと電話機を凝視している。田中ちゃんも、原田の視線には気付いていたものの、大切な話をしていたので、切り上げようにも、すぐには電話は切れない。だから、申し訳ない気持ちでいっぱいだったらしい。が、しかし、原田は更に上手だ。唐突に、電話している田中ちゃんの横に行き、耳元で何かを囁いた。一通りの出来事は遠くの喫煙所からも確認出来た。するといきなり田中ちゃんが大声で叫ぶ。
「あーん??もう一回言ってみぃや、コラァ!!」
食堂の椅子を蹴り飛ばしながら原田を追いかける。
夕海と斉藤ちゃんは何事かと、田中ちゃんの元に駆けつける。
「どうしたどうした?何があったの?」
二人で尋ねる。
「あのババアが、『早く電話を切れ』つって偉そうに…」
ギリギリと歯軋りまで聞こえて来そうな程だった。
電話の使用は掛かって来る時と掛ける時がある。田中ちゃんの場合は、電話代が勿体無いので、いつも彼氏に掛けて貰っている。そして、一回の電話で使用時間は十五分ー二十分までと決められている。田中ちゃんはまだ十分話したか話してないかだった。なにもルールに違反していない。だが、原田は電話が長いと電話している最中の田中ちゃんに言ったのだ。
田中ちゃんは叫ぶだけじゃ物足りず、キョロキョロと回り見回す、原田が何処に居るか確認する。喫煙所だ。電話が長いのでやめろという割りに、呑気に煙草に火をつけている様子が更に気に食わなかったようだ。田中ちゃんは物凄い勢いで走って喫煙所に入る。
ガターン!!
激しい音を立て、中に居る原田が座っていたベンチを蹴り上げてから、履いていたスリッパを思い切り投げつける。まるで貴族が白い手袋を投げつけて決闘を申し込むような姿であった。こうして、いつもの日常に田中ちゃんと原田の戦いが付け加えられるようになった。夕海と斉藤ちゃん、ひいては渡辺さんも巻き込まれて、色々といたずらをするようになる。
* * *
精神科の病棟には面白い人間が沢山いる。真夜中に起きだして、ハーモニカを吹きだす者。叫びだす者。間違えて病室に迷い込んでくる老人。などなど。年齢層的に認知の入ったお年寄りが多いので仕方ないのだが、中にはこんな人が居た。入院歴三十年以上の病院マイスター。定子ちゃん。彼女は十八の頃から入院していて、現在五十歳になる。三ツ木病院の生き字引と言っても過言でもない。なんでも知っているから故なのか、なんでも知りたがる。新人が入ってくると、必要以上に話しかけ情報を引き出す。誰かに吹聴して回る訳じゃないのだが、これが又本当にうざったい。勿論夕海も質問攻めにあった。その時は、田中ちゃんと斉藤ちゃんのフォローでそこまで執拗に攻められなくてほっと胸をなでおろした。
そして、今、渡辺さんがそのターゲットとして質問攻めに遭っている。渡辺さんは矢張り大人なのか、のらりくらり核心を突く質問には答えずかわしていた。すると、渡辺さんが、
「今から断酒会があるから、失礼」
と言って、喫煙所のベンチから立ち上がる。
渡辺さん曰く、市の母子担当に騙されて入院したと夕海・田中・斉藤には伝えていた。そして、アルコール中毒だと仕立てあげられ、病院での仕打ちに耐えられないと言って、市か県の人権団体になにか手紙を書いていた。が、しかし、それは認められず、その所為で、任意入院から措置入院に変更された。
此処で解説するが、任意入院というのは、表向き、患者が自分の意思(任意)で入院することであり、患者が退院したいと医師に申し出れば、いつでも退院出来ると言うもの。しかしながら、現状、この任意入院、任意ではなかったりする。主治医と受け入れる家族の同意がなければ出来ない。だから、どんなに安定して落ち着いていて患者自身に判断能力があっても、家族が拒否すれば、退院できないのだ。そして、措置入院とは、所謂医師の判断に拠る強制入院。医師による、退院しても良いという判断という、これまた受け入れる家族などの同意が必要になる。
どちらにしろ、精神科入院は面倒くさいのだ。特に家族が厄介払いしたい場合など、年単位で入院させられたり、その間に生活保護に切り替えられたりで、一生病院に縛り付けられる者もいる。
話が逸れたが、渡辺さんが語るには、渡辺さんには全く問題がないのに入院させられたという話。最初は夕海・田中・斉藤の三人は信じかけて居たが、禁断症状のどもりや、手の振るえなどが見てとれたので、嘘をついていると思っていた。それでも、比較的マトモに話が出来る相手なので、そこは構わなかった。本当の病名とか、本当か嘘かなんて、こんな閉鎖病棟では関係ない。居心地の良い材料かそうでないかが重要だったから。
やがて季節は梅雨に入る。そうか、と夕海は思う。私が入院したのは五月の上旬。入院して一ヵ月が経っていた。閉鎖病棟に居ると時間の感覚が麻痺してしまう。この頃から、夕海は、薬の副作用からか、ジッとしていられなくなる。ソワソワして、常に歩いていないと落ち着かない。いや、歩いていても落ち着く訳ではなく、イライラ・ソワソワ・手の振るえを忘れる為に病棟内を何週も歩き回った。そのお陰か、体重も順調に減り、入院時より少しスリムになっていた。
加えて、食事もご飯の盛りが選べるのだが、最初は普通盛りだった夕海も、小盛りとなり、そして小盛りの四分の一しか食べられなくなる。おかずも殆ど喉を通らない。明らかに異常だった。医師やナースに相談しても、原因は分からない。食事はちゃんと摂れと言われるだけ。まぁいいやと、夕海は諦めていた。
そんな中ある日、六月の土曜日。嵐に見舞われる。
エッセイ中心でノンフィクションの創作を中心に書いていきたいと思います。 昭和58年生まれなので、時代的に古いかもしれませんがご興味あれば! 機能不全家庭・暴力被害・LGBT・恋愛・インターネット・いじめなどなどetc もしよろしければ、拙文ご一読頂ければ嬉しいです。