スケープゴート -08-
―変化―
夕海は一度大きく体調を崩してから以降は、大なり小なり波は押し寄せて来たがなんとかやり過ごしていけるようになって来ていた。職場の喫煙所にもまた通うようになっていた。勿論、綿谷と会って雑談をしたりしていた。綿谷も今まで通りの態度で接してくれていたので夕海としては助かっている。付き合うという約束はしたものの、二人の関係は何も進展していない。まずもって、夕海にはそんな事が考えられないので、自然とそうなる事はなかった。ただ、綿谷と雑談するのは楽しいと感じている夕海なのではあるが。
ある日の夕方、仕事を終えて家に戻った夕海はいつも通り部屋着に着替えてベッドの上でゴロゴロしていた。するとスマートフォンの着信音が鳴り始めた。誰かと思いディスプレイを確認すると、田中ちゃんと表示されていた。久しぶりだなあと思いながら電話に出る夕海。
「もしもし」
「あ、夕海?あたし!田中だよーん!」
「元気してた?あれからホームではどうなの?」
「脱走した」
「へ!?どういう事!?」
「だあかあらあ、脱走したの!!」
「だから、脱走ってどうやって?」
「ホームは閉鎖病棟ほど出入りに厳しくないからさ、消灯後に隙を見て逃げ出しちゃった」
「逃げ出したのは分かったけど、今は何処に居るの?」
「彼氏んとこだよー。ホームに居る時からメールしてて脱走の時も迎えに来てくれたの!」
「彼氏…。じゃあ今はそこで隠れて暮らしてるの?」
「家族にバレたらまた閉鎖病棟に入れられるからね。ひっそりと暮らしてる。仕事もしてるんだよ、夜だけど」
「そ、そっかぁ…」
「それより夕海は最近どうなの?彼氏出来た?」
夕海は退院後から今に至るまでの事を掻い摘んで説明した。
「へー、生活保護受けながら働いてんのかー。夕海は偉いね!で、彼氏の方はどうなの?」
「彼氏は居ないよ」
「嘘だあ!閉鎖でも里中のジジイから付き合って欲しいとか言われてたのに、誰も声掛けないとかありえなくない?」
「まあ、一方的ではあるけど付き合いたいって言って来た人はいるよ」
「じゃあなんで付き合わないの?」
「え、だって、その人の事良く知らないし、私、実はそういうの今までなかったから」
「ふむふむ。でもさ、誰にでも初めてはあるし、付き合ってから知って行けばいいじゃん」
「簡単に言うけど、私の現状が複雑だし、その説明も面倒だし、逆にギクシャクしたくないし」
「でもさ、いつまで独りで居るつもりなの?確かに夕海は家族関係でトラウマもあるし仕方ないかもしれないけどさあ」
「だって、試しに付き合おうとか言われても、そんなに軽いモノじゃなくない?」
「え、一回ヤッちゃえば早いじゃん!身体の相性が悪けりゃすぐ別れれば良いし」
「ええっ、そんな確認の為にヤるの?」
「一番わかりやすいじゃん!付き合うって事はヤるって事だし、それが我慢出来なきゃ付き合えないよ」
そういうものなの!?と狼狽える夕海なんてお構いなしに田中ちゃんは続ける。
「まあ、夕海にはそういう免疫がないようだから、まずは手を繋ぐとか…」
プフッと田中ちゃんは吹き出す。
「なんか夕海はそっち方面は中学生レベルだねえ。いや、あたしみたいなのも問題なんだけどね。でも彼氏のお陰でやっと自由になれたしね」
「そっか、田中ちゃんも順調そうで何よりだわ。そういえばなんで今日は電話してきたの?」
「あ、そうそう、近々彼氏と結婚しようと思って。んで、婚姻届の証人としてサインして貰えないかなって」
「ええっ、結婚するの?早くない?」
「だってさ、もしまた家族に見つかったらまた閉鎖にぶち込まれるんだよ。旦那が居たら身元引受人になって貰えるしね。そうなったら無理矢理入院なんてさせられないから」
「ああ、そういえば田中ちゃんも家族に無理矢理入院させられてたんだっけ。そう考えたら私も家族にまたいつ入院させられるか分からないよね。どうしよう」
「だから、夕海も早く結婚しちゃえば良いのに。彼は年下だっけ?頼りないかもしれないけど、結婚しちゃえばこっちのもんよ!」
「確かにそれは一理あるけど、そんな理由で結婚なんて出来ないよ。それにまだ付き合ってもないし!」
「じゃあ、付き合ってみれば?そうだなあ、夕海はその人とキスするのを想像出来る?」
嫌な想像だなあと思う夕海だが、いつかは強引に唇を奪われそうな日が来そうだと想像出来てしまった。
「想像が出来たらどうなのよ?」
「それが嫌じゃなかったら、まずは付き合えるとは思うよ。あたしの経験だけどね。キスが嫌な相手は無理だし」
「田中ちゃんはそうなのね。まあ、参考にはしとく」
「で、婚姻届の件!どうなの?サインしてくれる?」
「まあ、私で良かったらサインするけど。でも良いの?結婚するの早すぎない?」
「あたしの場合、今度入院させられたら一生コースになり兼ねないからね。急がないと」
「そういう事なら協力するよ。じゃあ、その時が来たらまた連絡して。どこかで会おう」
「おっけー!じゃあ準備が出来たらまた連絡するね!あと、印鑑も必須だからね!じゃあ夕海も頑張って!バイバイ!」
田中ちゃんは相変わらずだった。我が道を突き進むなあ。ちょっとだけ行動力のある田中ちゃんの事を尊敬する夕海であった。それにしても、と夕海は思う。綿谷と一回ヤッてしまえとか、手を繋げとかキス出来るかなんて急に言われても困る。世の中は色んな人が居るが、田中ちゃん程、性急な人間も居ないよなあと考える。だがしかし、夕海も田中ちゃんとある一点では一緒なのである。いつまた家族に無理矢理入院をさせられるか怯えて過ごさなければならないという事。幸い、今の主治医である佐藤は家族関係に問題がある事を理解してくれており、また、安易に入院を勧めない医師なのでそこだけはちょっと安心出来た。ともあれ、田中ちゃんの考えには成程とも思った。
人は一人では生きていけない。もはや家族や他人との接触を完全にシャットアウトしている夕海は、体調を崩してしまうと誰も助けてくれる人は居ない。布団にくるまり耐えるしかないので、食事もまともに摂れないし、外出もできない。協力者は必要だと思うが、そんな重荷になるような事にはなりたくない。他人に迷惑を掛けて生きる位なら一人でひっそり逝ってしまう方がマシだとも考えた。どうせ私なんて…と思いが夕海に過ぎる。何故か唐突に綿谷の顔が浮かんできた。年下だし、強引で空気が読めない彼。そんな彼に思いを馳せるが色々想像しただけでゾっとしたのでやめた。
翌日の昼休憩、夕海は喫煙所に居た。ドスドスと足音も聞こえてくる。綿谷がやって来る合図だ。
「チョリーッス!」
「どうも」
いつもこんな感じで会話は始まる。
「最近は体調はどうなの?」
「普通です。安定してますよ」
「そっか、良かった!」
少し間を置いて綿谷は続ける。
「所で、この間のアレ。覚えてる?」
「アレってなんですか?」
「だから、アレだってば」
「だからなんですってば」
「リザーブの件」
「はあ、その事ですか…」
嘆息する夕海。
「覚えてますけど、それが何なんですか?」
「いや、最近落ち着いて見えるし、もうそろそろなのかなって」
「言っときますけど、私、その気ありませんから」
「なんで?今はそうかもしれないけど、人間の心は変わるものでしょ。絶対ないって言いきれる?」
「まあ、確かに絶対なんてないですけど、今は!その気ないですから!」
「そんなにムキになる事ないじゃない?あれれ?ちょっとは意識しちゃってたり?」
得意げに鼻を膨らませる綿谷。そういえばそうだなと夕海も思った。
「そういえばそうですね。貴方のペースにはのせられませんよ。疲れるんで」
「うう~ん、いけずぅ~」
「別にいけずじゃありません。私には私のペースがあるんです。それに、私は誰かと付き合いたいとか思ってませんから」
「なんでそう、頑なかなあ?お試しで付き合うのがそんなに嫌?もしかして、付き合う相手は結婚前提が良いとか?」
「はあ、ですから、まずもって男性とのお付き合いなんてもっての外、それに私は結婚願望もありません」
「ふうん、なんか理由がありそうだね。過去にトラウマでも抱えてるの?」
「別に、貴方には関係ありません」
綿谷から顔を逸らして、持っている煙草を一吸いし煙を吐く。もうこの話題はしたくない。
「そうそう、そういえば今日は飲み会があるんだけど、荒木さんもどう?社員じゃあないけど、一応ウチの会社の一員ではある訳だし」
「私、お酒は飲めませんし、そういう席に出席するほど、この職場に貢献して居る訳ではないので遠慮します」
「じゃあさ、今度俺と二人で飲みに行かない?お酒なんて飲まなくて良いし、居酒屋でまったり話そうよ」
「何がじゃあなのかわかりませんが、私、貴方と二人で飲みに行く余裕なんてありませんから」
「でも前は一緒に飯食いに行ってるじゃん。別に付き合ってって言ってる訳でもないし、友達として飲みに行こうよ」
「私が友達だと思っていても、貴方は違うでしょう?」
「あはは、バレたか」
バレたか、ではない。今までずっと夕海に対して下心たっぷりで関わって来ていた癖に。夕海は呆れてしまうばかりだ。
「でも、友達とは思ってくれてるんだね!一歩前進!」
喜ぶ綿谷は放置して、夕海はそろそろ午後からの仕事が始まるのでその場を後にする。いつも通りの作業をこなしていつも通りに帰宅する。
田中ちゃんからの連絡から一週間後、再び夕海に連絡が入った。婚姻届の準備が出来たのでサインをして欲しいとのことだ。田中ちゃんとは繁華街のカフェで落ち合う事とした。夕海は繁華街へ向かうため身支度を整え、電車に乗りカフェのある道路を歩く。カフェはどこにでもあるチェーン店なのですぐに見つかった。約束の時間の十分前に着いた。夕海はアイスコーヒーを注文し、喫煙室に向かう。喫煙室のテーブル席に座り、まずは先に到着した事を田中ちゃんに連絡しておいた。田中ちゃんも時間通りに到着するとの事だ。田中ちゃんが来るまでゆっくりとアイスコーヒーを飲みつつ煙草を吸う。するとしばらくしたら田中ちゃんがドリンクを持って喫煙室に入って来た。夕海を見つけると嬉しそうに駆け寄って来る田中ちゃん。テーブルにドリンクを置き、椅子に腰を下ろす。
「超久しぶりに会うねー!てか病院外だとなんか変な気分にならない?」
元気な様子で田中ちゃんは言う。
「ほんと、久しぶりだよね。どのくらい会ってなかったっけ?」
「んーわかんない!てか、夕海、私服可愛いじゃん!彼氏とは良い感じなの?」
「彼氏は居ないってば!ただの職場の友達」
「ふーん、どんな人なの?写真ないの?」
「写真なんて撮ってないよ」
ふと思い出す。お花見に行った時に桜の写真を撮った。その時に映り込んでいる写真があったのだ。
「えー写真ないのー?どんな人か見たかったあ!てか本当に写真ないの?こっそり撮ったヤツとかないの?」
「そういえば、桜の写真を撮る時に映り込んでるやつは一枚あるけど、後ろ姿だよ」
「え!それでもいい!見たい!」
仕方なくスマートフォンの写真アプリを開き、該当の写真を田中ちゃんに見せる。
「なんか、背は高いけどちょっとぽっちゃりしてるね…」
「そう、結構食べる人みたいでお肉余ってる系に見えるよね」
「でもさ、これは脂肪か筋肉かで話は変わって来るよね。脱いだら凄い場合もあるし!」
「ジムに通って筋トレしてるって言ってた気がする」
「じゃあマッチョじゃん!あたしは苦手だけど、マッチョも結構人気あるよー」
「そうなの?別に筋肉質かどうかなんて興味ないんだけど」
「でも、脂肪の塊より良くない?」
「まあ確かに、筋肉がある方が健康的よね」
ガールズトークに花が咲く。女性とは重要な話があっても中々本題に入らないものである。ひとしきりお喋りを楽しむ二人。田中ちゃんも彼氏の写真を何枚か見せてくれた。身長は男性の平均位で顔は田中ちゃん曰くイケメンだそうである。この人と田中ちゃんは結婚するのかあなんて思って居たら、突然声を掛けられた。
「荒木さん!?荒木さんでしょ!!」
聞き覚えのある声が聞こえ、夕海は身構える。振り向きたくはないが声のする方向を見る。綿谷だった。何故、今日、今、この場所で!と夕海は思った。
「あれ、もしかしてマッチョ君?」
ひそひそと田中ちゃんに聞かれ、頷く夕海。
「えーいーじゃん!顔もまあまあだしさあ!こっちのテーブルに呼ぼうよ!」
ドスドスと近づいてくる綿谷。
「どうも!っと、荒木さんのお友達ですか?俺、綿谷って言います。荒木さんとは職場が一緒なんです。よろしく!」
「丁度今噂してた所なんですよー!立ったままなのもアレだから座ります?」
「あ、いいんすか?お邪魔じゃないですか?」
「いいのいいの、丁度綿谷さん?だっけ、貴方の話もしてたし」
「えーなんか照れるなあ!」
田中ちゃんと綿谷の遣り取りに呆然とする夕海。
「あたし、結婚するんですよお!で、夕海に婚姻届の証人のサインをして貰う為に今日ここに居るんですよー」
「え!ご結婚されるんですか?おめでとうございます!」
「ありがとうございますー」
夕海を置いてけぼりにして田中ちゃんと綿谷は意気投合する。
「荒木さんのお友達に会うの僕初めてで、なんか新鮮です。二人はどういう経緯で友達になったんすか?」
「部活動で一緒だったの!良く他の仲間とつるんで話してたんだよー」
部活動…。閉鎖病棟での喫煙所仲間なのだが、田中ちゃんは敢えてぼかして言っている。正直に言われても夕海が後々困るのでそこには感謝した。
「へえー部活ってなんだったんすか?運動部?」
「美術部の幽霊部員。だからサボってお喋りばっかりしてたよ。ね、夕海?」
「あっ、うん、そうそう!」
かろうじて返事を返す夕海。
「当時の荒木さんてどんな感じだったんですか?」
「結構モテてたよおー!告白されてるとこ見た事あるし、後はアホな話する相手としては最適だったよ」
告白は、里中のジジイの事か…、確かに喫煙所ではアホな話しかしてなかったけど、今ここで私のパブリックイメージを変えるような発言は控えて欲しかった。
「ちょっと、田中ちゃん!やめてよ!職場の人なんだから!」
「いいじゃんいいじゃん。綿谷さんは夕海の事好きなんでしょ?夕海から聞いたよ!」
「あれえ!そんな話してたんすか?マジで恥ずかしいっすね」
てへへと笑いながら綿谷も言う。
「えーなんか、二人お似合いじゃない!なんで付き合わないの夕海」
「た、田中ちゃん。そんな簡単に言わないでよ!」
「えー、なんで僕と付き合ってくれないんすかー?」
なんだこれは、四面楚歌ではないか。
「っと、冗談は置いておいて、夕海!これなんだけど…」
婚姻届を出す田中ちゃん。
「サインしてくれる?」
「うん、今するね。あっ、ペン持ってくるの忘れちゃった」
「あ、僕、持ってるっすよ」
ペンを貸して貰いサインをし押印する夕海。
「ありがと!これであともう一人のサインと印鑑があればこのまま役所に行けるんだけど…」
「僕で良かったらサインしましょうか?印鑑も持ち歩いてるし」
「え、いいの?今日初めて会ったのに?」
「いいっすよ、荒木さんのお友達なら僕、信頼出来ますもん」
サッとペンを持ちさらさらとサインと押印する綿谷。
「どうぞ!これで晴れてご結婚っすね!本当に目出度い!」
「綿谷さんありがとう!これで直ぐに結婚出来るよ!なあんだ、夕海、綿谷さんめちゃ良い人じゃん!」
「う、うん…」
「という訳であたしの用事は終わったし、役所に婚姻届を提出に行かないとだから、もう帰るね!後はお若い二人でゆっくりと!」
席を立つ田中ちゃん。
「え、田中ちゃん!もう帰るの?私も帰るよ!」
「夕海は綿谷さんとまったりお話しなよ!またなんかあったら連絡するからさ!またね!」
足早に去っていく田中ちゃん。夕海は綿谷と二人きりになってしまった。
「………」
夕海は何も言えずにいた。
「荒木さんてば俺の事お友達に話してたんだあ。何?やっぱり意識してんの?」
うざったい。田中ちゃんめ、余計な話をしてくれたな。夕海は精一杯の抵抗として無視することにした。
「ねえねえ、なんでさっきからそうやって無視するの?俺、やっぱり邪魔だった?」
やっぱりって自覚があるなら、声を掛けて来てくれるなよと思う夕海。綿谷を放置してコーヒーと煙草を交互に喫む。
「てか荒木さんて砕けた喋り方出来るんじゃん!なんで俺にはしてくれないの?あと、さっきの人、田中さんだっけ?婚姻届の用意はしてたのにもう一人分のサインする人まだ決まってなかったのが謎だよね。まあ俺がサインしちゃったけど」
色々と聞かれたくない事を問うてくる。
「他にも友達が居るんですけど、遠方だから困ってたみたいですよ」
「あ、そうなんだ。てか二人とも地元は何処なの?俺はずっと市内に住んでるけど」
「県北のど田舎です。ここからだと高速道路で二時間は掛かります」
「ふうん、車持ってないのかな?二時間なら直ぐじゃん」
「市内だと車持ってない人の方が多いですよ。駐車場料金とか高いですし、維持費もバカになりませんからね」
「あ、そういえばそうだよね。俺んちは駐車場あるから大丈夫だけど」
「皆がみんな、貴方みたいに恵まれてはいないんですよ」
「そっかあ、それもそうだな。俺は恵まれてる方だったんだ」
「所で綿谷さんは平日なのになんでまた今日はこんな所に居るんですか?」
「ああ、俺ね、有給で休み!てか、会社から健康診断に行けって言われてたんだけど忘れてて!それで今日行って来たの!」
「そうだったんですか」
取り合えず、話題を変える事が出来たので夕海は良しとした。
「荒木さんは今日休みなのかー。こんな所で偶然会ったのも何かの縁かな?」
「同じ市内に住んでいて、繁華街に居たら偶然会う事もあるでしょう」
「それもそうだね、それに俺ら喫煙者はカフェか特定の喫煙所でしか外出時には吸えないしね」
「そうですね」
しばし綿谷はドリンクを飲みつつ、一緒に買ったであろうパニーニを頬張る。
「しかし、荒木さんて友達居たんだね。意外だった。なんか君って友達居なさそうじゃん?」
「失礼な!私にだって友達の一人や二人居ますよ!」
「へへ、ごめんごめん。まあ、俺に対する口調と田中さんに対する口調も随分違ったようだしね。納得だわ」
もぐもぐと食べながら言う綿谷。
「咀嚼しながら喋るのは行儀が悪いからやめた方がいいですよ」
「ふぁい」
そう返事をして、食べるのに集中する綿谷。相変わらず遅い。夕海は今すぐにでも帰りたかったが、中々きっかけが掴めないでいる。
「あの、私、もう帰るんで。綿谷さんはごゆっくりして行って下さい」
食べる手を止める綿谷。
「あっ、ちょっと待ってよ!もう少しだけで良いから一緒に居てよ!」
「なんで私が貴方が食べてる所を見てなきゃいけないんですか!」
「折角久しぶりに外で会えたんだから少しはご褒美をくれよう!」
「ご褒美って貴方は私の何なんですか!ペットじゃあるまいし」
「わんわんっ!」
はあと嘆息する夕海。いつもいつもこうだ。もうげんなりしてしまう。しかも衆人環視の中だからあまり騒ぎにしたくない。仕方なく夕海は再び腰を下ろして椅子に座る。とにかく、穏便に綿谷と早く離れなければいけない。
「真面目な話、俺の事を田中さんと話してたみたいだけど、どうなの?気持ちは変わった?」
「変わりません。ちょっと、こういう場所でする話でもないですし、お話するなら当たり障りのない話題でお願いします」
「ごめんごめん。なんか噂してたとか言われたらさあ、流石に俺も気になって」
「まあ、田中ちゃんには事実を話してたまでですけどね。困ってるという事も含めて」
「あー、そういう!てか、なんで困るのさ?俺、別に無理矢理に言ってないでしょ」
「それはそうですが、私は困ってるんです」
「そっか。まあ気長にやっていくよ」
再びパニーニを食べ始める綿谷。時間よ、早く過ぎてくれと願う夕海。しばらくして食べ終わった綿谷は煙草に火をつけ吸い始める。
「結婚かあ…。俺はいつになるのやら…」
そう呟く綿谷。
「ねえ!荒木さんは結婚願望がないって言っていたけど、なんか理由があるの?」
「前も言いましたけど、貴方には関係のない事です」
「俺はねえ、結婚したら庭付き一戸建ての家で奥さんに毎日見送られて出勤したいなあ。子供も欲しい。男女こだわらないけど、絶対一人は欲しいな」
「じゃあ、そういう人と結婚したらいいじゃないですか」
「そう言うけどねえ!俺ってばモテないから、まず彼女を作らないとさ」
「まあ、一人で結婚なんて無理な話ですもんねえ」
そっけなく返す夕海。綿谷は不満なようだ。
「なんで荒木さんはいつもそんなに塩対応なのかなあ。さっき田中さんが居た時みたいにもっと感情を表に出した方が良いよ。言っちゃ悪いけど、いつも敬語だと取っ付き辛いよ」
「すみませんね、これが私の普通なもんで」
「普通なもんか!さっき田中さんにはくだけてたじゃん!」
「貴方に対しては、これが普通です。田中ちゃんと比べるのは少しおかしくないですか?」
「確かに、俺らは知り合って日が浅いから仕方ないとは思ってるよ。でも、年下にタメ口きかれて腹立たないの?」
「別に他人が私に対してどういう物言いかは気になりませんよ。どうでもいいので」
「どうでもいいだなんて、俺の事もそう思ってるの?」
「端的に言えば、そうなりますね」
「あ、酷い、今の傷ついた」
「見返りを求めるなんて不純ですよ。純粋な心からの言葉なら響きますけど、貴方はただの口八丁手八丁じゃないですか」
「なんで俺が不純だなんて君にわかるんだよ。俺の心は俺にしかわからないんだぞ」
「確かに、貴方の心の中は貴方にしか解りません。でも、他人である私の受け取り方も自由でしょう?」
「むう…、ほんと、そういう固いトコどうにかした方が良いと思うよ」
「お言葉痛み入ります」
珍しく夕海に軍配が上がった。キリが良いので夕海は買える事とした。自分のドリンクのグラスを持ち立ち上がる夕海。
「えっ、もう帰るの?」
「ええ、私もそんなに暇じゃないんで」
「何か予定があるのかい?」
「予定はないですけど、貴方と過ごす予定はありませんので」
「えーケチー」
後ろで綿谷がブーブー言っているが今度こそ無視して夕海はカフェを後にした。電車までの道のりをゆっくりと歩いて行き、来た時と同じように電車に乗り自宅近くの駅で下りる。今日は田中ちゃんに会えて嬉しかったが余計な邪魔が入った事により夕海はドッと疲れてしまった。家に着いた夕海は気分転換の為、入浴する事にした。いつもならシャワーで済ます所だが、今日は湯舟にお湯を張って入ろう。そう思い夕海は湯舟を洗い、給湯スイッチを押した。お湯が溜まるまで読みかけの本を読む事にした。ページをめくり物語も佳境に入り良い所である。そうしていたらお湯が溜まった音が鳴り響いた。折角なのでゆっくり読み切ろうと本をお風呂に持ち込む。まずは髪と身体を洗ってから湯舟に浸かる。本もあと少しで読み終わる。小一時間位湯舟に浸かっていただろうか、入る時は熱かった湯舟のお湯も温くなって来ていた。このままでは風邪を引いてしまうので上がる事にした。身体を拭き終え、部屋着に着替えた夕海は今日の出来事を反芻する。偶然とはいえまたしても綿谷と二人きりになってしまった事、何故だか分からないが何らかの縁があるのだろうか、そう感じられてきた。
夜までは読書やベッドでゴロゴロしていた夕海だが、そろそろ夕食を摂って早々に寝てしまおうと思い食事の支度を始めた。するとテーブルの上に置いてあるスマートフォンにメッセージが届く音がした。また綿谷からか…と思いつつもスマートフォンを手に取る。しかしそれは、綿谷ではなく田中ちゃんからのメッセージだった。彼氏と田中ちゃんが婚姻届を手にして二人で写っている写真も一緒に送られて来ていた。
『あたしたち、結婚しましたー!』
メッセージが添えてある。果たしておめでたいのか否かは夕海には推し量る術はなかったが、
『結婚おめでとう!てか、なんで今日は置き去りにしたよ!あの後マジで困ったんだから!』
すると直ぐ既読が付く。
『だってお似合いだと思ったんだもん!背も高いし、筋肉あるんでしょ?あとなんか感じ良いじゃない!』
『田中ちゃんはそうかもしれないけど、私はあの人の事苦手なの!』
『でも、なんか可愛いじゃん。夕海も試しに付き合ってみなよ!』
『そんなに簡単に決められない。付き合うとなったら色々責任が生じるじゃん』
『責任て!結婚する訳じゃないんだよー。別に無責任に付き合っても良いと思うけど?それにあの子、夕海に構って欲しそーにしてたしさ』
『無責任な付き合いが出来るほど器用じゃないよ。そりゃあ田中ちゃんは経験豊富だから出来るかもしれないけど』
『夕海にだって出来るって!なんか彼、チョロそうじゃん!頼ってやったら喜ぶよ、ああいうタイプ』
『そんな事言われても…』
『ま、夕海の生活ぶりを聞いてたらさあ、刺激とストレスを避けてひっそりと暮らしてる訳でしょ?そんなの退屈じゃない?もっと人生にハリがあった方が良いよ。だから、丁度良い刺激として付き合ってみたらどうかなって。それに今までの生活続けてたら閉鎖病棟と変わんないよ?今まで誰かに心を開いた事ある?夕海は今まで苦労した分、幸せになんなきゃいけないし、そういう意味でもパートナーは必要だと思うよ』
田中ちゃんからのメッセージに即答出来なくなる夕海。確かに言われてみればその通りだ。現在も入院中からの生活を継続しているだけ。アルバイトを始めても他人とは最低限しか関わらず、誰とも深い話をしないようにしていた。それが善いか悪いかは判らないが、それでは今の生活から抜け出せない。夕海としては、せめて入院前と同じ様に、フルタイムで働く事。生活保護を抜ける事。この二つが薄っすらとではあるが目指すものだと感じている。今のままではそれは何時になるのか分からない。何かしないと!そう思うが、何から始めれば良いのかが分からない。かろうじて田中ちゃんに返事をする。
『無責任な付き合いとかは無理だけど、気が向いたら付き合ってみようかな』
『進展したら教えてねー!』
メッセージはこう締め括られた。
何かを変えなきゃいけないけれど、何から始めるべきか?現在進行形で始まりそうなものと言えば、綿谷との関係しか思い当たらない。自分自身の為に敢えて面倒を抱えて、色々な免疫をつけて、体力もつけるために、体よく綿谷を踏み台にするのも悪い事ではないかもしれないと思い始めた。それにしても、幸せとは何だろう?夕海は今まで幸せになりたいと考えた事もない。というより、そのような余裕が持てなかった。だからと言って、幸せになりたいかなりたくないか?と問われたら夕海は前者を選択する筈だ。何を以ってして幸せたるか?夕海にはまたひとつ、勘案事項が増えただけだ。田中ちゃんは確かに彼氏が居て、結婚をして幸せそうだ。結婚=幸せとは思えないが、何かきっかけは必要なのだろうと思った。でも、それだけの為に、綿谷の気持ちを利用すなんてエゴイスティックな事とが出来る筈もない。ちゃんと覚悟を決めないと。その日はそう遠くないと感じ始めていた。どうするにしろ、綿谷との曖昧な距離感や関係性を継続し続けるのは精神衛生上もよろしくない。またいつストレスで体調を崩すか分からないからだ。受け入れるか、受け入れないか。全ては夕海の心のまま。そんな決定権を握っているのも夕海としては重荷でしかないが、少しなら考えても良いかなどとも思う。何かを変えるには他人ではなく、自分が変わらなければ何も始まらない。