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仕事と家族と自分。
息子とは仲がいい。音楽の話しもすれば、彼の好きなテレビ番組(日向坂で会いましょう)を一緒に見る事もあり、二人でラーメンを食べに行ったり、最近では彼の仕事の話しなんかも聞いている。
好かれているとは思っている。頼りにもしてくれているのも伝わっている。
だが、僕はわかっている。
息子はいつも僕に気を遣っている。僕に対する距離はゼロじゃない。
妻には思い切りワガママも言えば、甘える事もできているようだ。最近では息子が「はい、これ。うまそうだったから」なんて妻にケーキを買ってくることもあったようだ。
だが息子にとって僕は、ワガママをぶつけられる人じゃない。
そういう関係にしてしまったのは僕だということも、自分でわかっている。
男同士、それもいいとも思うこともあるが
息子に対して謝りたいことが三つ、僕にはある。
◇ ◇ ◇
息子が産まれたのは僕が30歳の時だ。お互いの年齢がとても計算しやすくて助かる。
当時の僕はブラック企業に勤めていて、いつも神経がピリピリしていた。とはいえつらいことばかりではなく、月末には『打ち上げ』と称して、課のメンバー全員連れてキャバクラで騒いだり、まあ、いわゆるイケイケなこともたくさんあった。
時代性のせいにしてはいけないが『男は外で戦い、家は休息地』みたいな考え方が僕にあったのは間違いない。
当然、子育ては10対0で妻の仕事となる。『ワンオペ』なる言葉はその頃にはなかったが、妻はつらかったのだろうか。それもわからない。僕が家に帰れば彼女はいつも笑顔でいてくれたからだ。
京都に住んでいる時に産まれた息子は、その後東北の福島、四国の徳島と、二歳までに三つの家に住むことになる。
「この会社にいたら一生引っ越し暮らしだろうな」
父が転勤族だった僕はこうはなりたくなかった。僕は保育園を二つ、小学校も二つ、中学校も二つ通っている。引っ越しのたびに友達を失っていった。
それよりも大変だったのは新しい環境になじむことだった。友達ゼロで迎える新学期というのは子供の僕にとってはなかなかの恐怖で、いじめられることも当然にあった。特に中学校は大変だった。もう40年がたとうとしているのに今でも忘れていないこともある。
引っ越しにはいい思い出がない。
徳島から、お隣の愛媛県松山市に転勤が決まった時に、僕は決心をした。
「今度は単身赴任で行く」
妻は納得はしていなかったが、僕が押し切った。妻は自分の実家の近くにアパートを借り、息子と二人で生活を始める事になった。息子にとっては産まれてから四つ目の家だった。
息子に謝りたい事の一つ目は、この単身赴任だ。
繰り返される転勤のなか、僕なりに将来を考えた決断であったことは間違いない。だが、「これも家族のため」と言ったその言葉の中には嘘も紛れていた。本当は自分の欲の為でもあったのだ。
自分が出世したい、思い切り仕事だけをしたい、そういう身勝手な気持ちはゼロではなかった。僕は自分のワガママで息子と距離を置いたのだ。
結果的にその二年後、僕は会社を辞めて、また家族三人で一緒に暮らすことになったのだが、あの時の距離と離れていた時間が、それからの僕と息子の距離感を決定づけてしまったのではないかと、僕は今でも思い込んでいる。
40歳手前で会社を辞めて再度家族と一緒に暮らし始めた僕だったが、転職活動はうまくいかなかった。前職でのキャリアは外に出れば全く役にも立たなかった。「何にもできないタダのおっさん」は何をしていいのかもよくわからず、エントリーシートを書いてはお祈りメールを受け取る日々が半年ほど続いた。
なんとか自分がやりたいこととできることがちょうどいい感じに重なる会社に転職できたのだが、そこでの仕事は過酷だった。もう出世競争はうんざりだと思って入った会社で、いきなり派閥争いに巻き込まれたのだ。
週に一度はまだ暗いうちに出社するほどの長い拘束時間も手伝って、僕は次第に疲れていく。
やっとのことで迎えた休日。僕はとにかく寝たかった。昼までとは言わないが、目が覚めるまでグッスリと寝たかった。
だが、息子は小学生の男の子だ。元気いっぱいに、朝から妻とケンカを始めた。リビングから大声で聞こえてくる妻と息子の怒声。寝れない。
僕はガバっと起きて「お前らいい加減にしろ!うるさいぞ!」と怒鳴った。
これが二つ目の息子に謝りたい事だ。怖かったと思う。父は怒る人なんだと、彼は思ったと思う。
自分ながら情けない。
僕は自分の仕事がうまくいかない不機嫌で、家族に八つ当たりしたのだ。
三つ目の謝りたい事は、進路のことだ。
中学生のころから学校の先生になりたいというのが息子の夢だった。第一志望の国立大学は、そのカリキュラムが自分の理想に合っているからと言っていた。難易度だけではなく、内容で大学を選ぶ息子が僕には誇らしかった。
だが思いのほかセンター試験の結果がよく、記念受験と一応願書を出していた早稲田に合格してしまったのだ。
息子は大喜びだった。そりゃそうだろう。早稲田に現役一発合格。かっこいい。浮かれるのも当然だ。
だが。
僕は反対した。
「早稲田に行きたいならいい。でもな、早稲田に行って何がしたいんだ? 考えていたお前の未来はそこで実現できるのか? どこに入れるかじゃない、そこで何がしたいかだろ」
その二日後、息子からメールが来た。
「早稲田には行かない。国立へ行く」
僕は僕の意見を彼に押し付けた。
もし彼が僕を「遠慮なくなんでも言える相手」と思ってくれていたのなら、あの時ケンカになっていたかもしれない。だが、ケンカした方がよかった。
彼は僕に反論もせず、自分で答えを出した。
あの時、もし僕が反対してなければ、息子は早稲田に行っていたと思う。
テレビで早稲田出身の有名人が「高学歴」ともてはやされているのを見るたびに、僕は今も罪の意識にさいなまれる。
◇ ◇ ◇
家族のため、いい父親になろうとは思っていたけど、僕は身勝手にふるまい、そうしているうちに子供は大人になっていた。
親子ではあるが、もう二人の大人だ。ここからは変えられないこともある。
「あれがあったからこそ、今がある」と言えることもわかっている。だが取り返しのつかないこともある。
いつかはちゃんと謝らなきゃと、今も思っている。
謝ったからといって、二人の関係が元に戻るわけでもあるまい。
だけど。
小さなころ、スーパーで見つけた仮面ライダーの自転車を「買って、買って!」と、僕に遠慮なく泣いてわめいていた息子が、今はとても懐かしい。
いつか、こんなふうに素直に伝えられたらいいなと思います。
とても、勇気のいることですが。
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