見出し画像

ごはんの話。


僕はたぶん味オンチだ。ものを食べて「おいしいな」と思うんだけど、どのような調理法やかくし味がその美味を生んでいるのか、あまりわからない。それどころか、いま食べているのが豚肉なのか鶏肉なのかわからないときもある。

仕事が忙しいときは研究室でカップラーメンを食べながら目を吊り上げてメールを書いたりするのも日常茶飯事だ。こんな僕であるが、ごはんを食べることは大好きなのだ。

よく、年齢を重ねると食の好みが変わるとかおふくろの味がわかるようになるとかいうことがある。自分のことを考えてみてもたしかにそう。菜っぱのおひたしとかタケノコの炊いたんとか、子どものころはあまり好まなかったものが好きになってきた。こういうのって体調や体質の変化に影響を受けるとは思うんだけど、それだけじゃない気もしている。食べものについての知識を学んだり、その食べものについてのものがたりを理解したりすることも、たべものの味わいに大きく影響するのではないかと思う。

僕はこれまでの半生、生態学や環境科学を学びながら暮らしてきた。環境問題という文脈で食べものが扱われることも多々あるので、そういう知識が食の好みとか菅藤とかに影響を与えているかもしれないのだ。

たとえば、食に関する「うしろめたさ」というのも、食べものの味を変えるかもしれない。本マグロ・サメ(フカヒレ)・ウナギなど、世界中で珍重される美味な食材ではあるのだが、これらの漁業が持続可能じゃないこと・ある種の魚が絶滅危惧種に指定されたことなどを知ってしまったのちは、あまり好んでは食べないようになった。

もちろん本マグロのお寿司はすごくおいしいんだけど、うしろめたさを気にしながら食べるのはなんとなく落ち着かない。それならキハダマグロでもいいかな、となるのである。ちなみに、目かくしをして食べるブラインドテストをしたとしたら、僕は本マグロとキハダマグロの違いがわからない自信がある。味オンチでよかったのかもしれない。

人間が生きるということは大なり小なり環境に負担をかけることであり、食もまたそうである。原始時代、狩猟採集の生活を送っていたわが祖先たちは、環境にかける負担は野生動物のそれとおなじであった。ところが、農耕牧畜を覚えた人類は「生態系エンジニア」として環境を改造しはじめる。

たとえばお米を食べるためには水田が必要で、そのために川をせき止め、ある場所を水びたしにしたりする。ビーバーがやってることと同じだ。人間が快適に暮らすために環境を改変し、その生態系に対する影響はいろいろ発生する(※ちなみに、人間の活動が悪だと言ってるわけではない。人間の活動で恩恵を受ける生物だっているからだ。プラスとマイナスの両方のどちらの意味でも、人間は環境に影響を与えているのだ。)。家畜を飼うことだってそうだ。ある場所を牧草地にするため定期的に火入れを行って、若い樹木を焼き払うことで人工的な草原をつくりだしたりする。

現代において、人間の食が環境に与える影響はその大きさを増してきている。顕著な例として肥料の使用があげられる。昔の肥料といえば、たい肥とか、人や家畜の糞尿とか、干した小魚とか、自然界に存在するオーガニックな素材を使ったものだった。

作物にとって窒素は重要な栄養素だが、大気中の窒素を植物が利用可能な形に変える能力(※これを窒素固定という)を持った生物は一握り。たとえばマメ科の植物は、この特殊能力を持った微生物と共生関係にあるので、栄養に乏しい場所でも育つことができる。そこで人間は、荒れ地でレンゲソウなどマメ科の植物を育て、成長したら土壌と一緒にすき込むことで、その場所の栄養分を増やしたりしたものである。

ところが20世紀初頭、科学の進歩は農業に大きな変化をもたらした。生物を介さずに、大気中の窒素をいきなり固定する方法が確立されたのである。こうして窒素肥料は、工場でつくられることになった。

生態学で学ぶ概念に、物質循環というものがある。いわば生態系の家計簿みたいなもので、ある場所にどれだけの水や炭素や窒素がインプットされるか・それが生態系のなかを通ってやがて外に出ていくというアウトプットはどのくらいか、という収支を考える研究である。

物質循環の視点から考えると、人工肥料が使われだす前は、自然界で作り出されるつつましやかな量の窒素を使って人間は農業をしていた。もちろん窒素固定を行う植物を意図的に利用するなど涙ぐましい努力はしてきたのだが、窒素の総量という点では、人間は自然界の窒素循環にあまり影響を与えていなかった。

ところが、工場で窒素肥料がつくられるようになると、とにかく安く大量につくることが可能になった。人間はそれをガンガン田畑に投入し、単位面積当たりの収穫量は飛躍的に向上することになった。これはいわゆる「農業革命」の一因である。化学肥料はこのように人間に豊かな食料をもたらすことになったのだが、物質循環の視点から考えると、たくさんインプットされたものは、やがてアウトプットされることになる。こうして田畑から流れ出す雨水には大量の窒素肥料が含まれるようになった。

自然界の生物たちも窒素肥料の恩恵にあずかれるのではないだろうか。素朴に考えるとそうだ。そして事実、窒素肥料のおこぼれにあずかってガンガン成長する野生の生物も数多い(陸上だけでなく、窒素肥料の流れ込む海や湖にくらす生き物も含まれる)。

しかし地球の面積は有限であり、地球に降り注ぐ太陽光線も一定量である。ならば、ある植物が豊かな窒素のおかげで成長するということは、その割を食って衰退する植物種も存在するということになる。このように、人間の活動からプラスの影響を受ける生物がいる一方で、マイナスの影響を受ける生物もいる。ある種の生物は絶滅が危惧されるまで個体数を減らすこともある。

僕らが食べものを食べるとき、それが生態系に与える影響も念頭に置きたいものである。しかし僕は、オーガニックなものしか食べないというわけではない。動物がかわいそうでベジタリアンになる人もいれば、動物が好きでも肉や魚を食べる人もいる。環境問題を意識してオーガニックなものを食べる人もいれば、おなじオーガニックでも自分の健康のためというのが理由の人もいる。

いろんな信条を持つ人がいるので他人のことをとやかく言いたくはないし、僕は自分のやり方を人に押し付けるつもりはない。ただ、人間は環境に影響を与えているという意識は持っといてほしいなと思うのである。

近年、食にまつわる環境負荷で大きいのは、輸送コストである。貨物トラックが普及する前、人々は地元でとれる食べものを食べていた。遠くから別の食べものをはこんでこれないからあたりまえのことである。ところが現代、トラックとか貨物列車とか輸送船とかが発達し、遠くから食べ物を運んでくることが可能になった。

たとえば、広大なアメリカ大陸で小麦・大豆・トウモロコシなどを生産して日本に運んでくれば、輸送コストを差し引いてもコスパの良い食材提供が可能になる。適地適作と大量輸送は、効率という一面から評価すればまことにけっこうなことなのだ。しかしその一方で、食べものを運ぶために多くの化石燃料が燃やされ、地球温暖化が進むことになる。その量は決して馬鹿にならないものだ。

人間が食べる食材の量はおなじでも、それが近くで生産されたか、遠くから運ばれてきたかで環境負荷は大きく異なる。かくして近年、地産地消のメリットが訴えられ、環境負荷がフードマイレージという基準で定量化されるにいたったのである。

このように考えると、地元でとれたオーガニックな食材を食べるのがもっとも環境負荷が低いということになる。ところが僕らは弱い人間であり、良心の呵責を感じることはあったとしても、夜中におなかがすいたらおもむろにアメリカ産トウモロコシのスナック菓子を食べたりしてしまうのだ(トルティーヤチップスにサルサソースをつけて食べることのすばらしさは、僕がアメリカで学んだ大事なことのひとつである)。

熊本県の天草諸島を旅していたときのこと。ふらりひとりで立ち寄った居酒屋さんは、とっても素晴らしい場所であった。天草は、九州本土と橋でつながったいくつかの比較的大きな島々で構成されている。それぞれの島と集落で文化や環境が微妙に異なり、それがまたこの場所の魅力を増しているように思う。そしてこの居酒屋さんは、天草の「○○集落でとれた野菜」「○○漁港でとれたおさかな」というふうに、とても具体的な産地の表示をしていたのである。

このように、消費者にチョイスを与えることはすばらしい。あるときはフードマイレージが最小かつもっとも新鮮であろう近くの食材を選ぶことが可能。またあるときは、天草内の多彩な食材を食べくらべすることも可能なのである。

僕はその夜、「そういえばさっきこの集落を通りかかったなあ」などと考えながら食べ物を味わった。もちろん素材も料理人の腕も素晴らしかったんだけど、食材が自分の口に入るまでの背景を考えることも、僕に大きな満足感をもたらしたのである(なんせ味オンチで頭でっかちな学者だから仕方ない)。

旅先で地元の名産品や旬の食べものを味わうのはかけがえのない素晴らしい体験であるとともに、学んでいる生態学や環境科学が自分のくらしにどうかかわるか実感する機会でもある。僕は生きてるかぎり毎日が研究だと思うのである。

いいなと思ったら応援しよう!