モチモチの木
小学校3年生の教科書に載っている、「モチモチの木」というお話を知っているでしょうか。または覚えているでしょうか。
最近仕事で読み直す機会があり、改めて力のある教材だなぁと感心しました。
じさまと二人暮らしの豆太。「全く、豆太ほどおくびょうなやつはいない。」という文の始まりからわかるように、豆太は怖がりの臆病者というキャラクター設定。
しかし五歳の子が一人で外にあるトイレに行けないくらい怖がり、という説明はちょっと酷だなぁと思う。そりゃ怖いでしょ。しかも外には、空いっぱいに髪の毛をバサバサさせて、両手を広げたような大きなモチモチの木が立っている。
モチモチの木という名前は豆太がつけたらしい。実をうすでひいて粉にして、もちに入れるとおいしいと書いてある。これは「トチの実?」とあたりをつけて調べてみると、やっぱりそうだった。トチとモチって音も似ているしね。
昔々、ちょっと香ばしい味のするお餅を食べたことがあった。味の記憶はすごい。
昔読んだものを改めて読み直したとき、新たな発見があるものだ。
今回感じたのは、「じさまの愛が大きいよね」ということ。
「とうげのりょうし小屋に、自分とたった二人でくらしている豆太が、かわいそうでかわいかった。」とある。
豆太のおとうは、くまに頭をぶっさかれて死んだ。母の記述はないから、豆太の親族は六十四歳の祖父だけだ。寂しい田舎で、年よりと二人で暮らす小さな豆太を、不憫に感じ、かわいくて仕方ない気持ちはよくわかる。
これは、私がこちら側に年齢が近づいたせいだろう。
豆太がある夜目を覚まし、いつものようにじさまにしがみつこうとしたが、じさまの姿がない。じさまは腹が痛くてうなっている。
そんなじさまを見て、怖くて怖くて仕方がない、霜で冷たい夜道を、医者様を呼びに泣きながら裸足で走る。
無事にたどり着き、医者様と一緒にじさまのもとへ帰る途中、モチモチの木に灯がともっているところを見るのだ。
腹痛が治ったじさまに、モチモチの木の話をすると、じさまはこう言う。
「自分で自分を弱虫だなんて思うな。人間やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ。」
けれど、このことで劇的に豆太が勇気のある少年になる…といったことはなく、また夜になるとじさまに便所に連れてってもらうのだ。
子どもたちに読み取ってほしいのは、臆病者の豆太が怖くて仕方ない夜の道を走って医者様を呼びに行けた理由だ。
それは、大好きなじさまの苦しみを取り除いてやりたい、またはじさまを失う恐怖の方が夜のモチモチの木の恐怖より大きかったからということだろう。じさまの言葉でいうとそれは豆太の「やさしさ」が生み出した勇気である。
では、この「やさしさ」は何から生まれたのか?
それはじさまの愛情なのだと思う。夜中に豆太が小さな声で呼べば、一緒に便所についてきてくれる。モチモチの実をつぶしてモチに入れて食べさせてくれる。じさまが病気になったとわかった途端、医者を呼びに行った様子から、豆太が病気になったときには、同じように豆太を抱いて連れていってくれたのだろう。
子どもたちに、広く想像させたい。じさまはどんな風に豆太をかわいがっているの?猟師だから豆太になるべく栄養のあるものを食べさせるために、危険を冒して狩りをし、毎日毎日丁寧にご飯を作り、退屈したら一緒に遊んでくれる。豆太が怖い気持ちや悲しい気持ちになったときには、ぎゅっと抱きしめてくれる。
豆太のお話をしていたのに、いつの間にか自分自身への家族の愛情と経験が重なる。作品と自分がぐんと近づく。
そうやって、毎日大きな愛情を与えてくれたじさまに対してだからこそ、
生まれたやさしさと勇気。
「やさしさがあれば、やらなきゃならないことは、きっとやる。」
そういうことだ。
ああ、いい作品。