『未来→今→過去(埃)』
実は、『いまの自分は、過去の自分の延長線上にあります。』ではないらしい。
いきなり逆張りをしている訳でもなく、この思いこそ私たちが長い間ミスリードされてきた固定観念なのだそう。西洋文化に影響を受ける江戸時代まで『未来→今→過去』という考え方が常識だったという。『過去→今→未来』が事実ではなく固定観念だったのだ。本来(西洋文化に影響を受けるまで)は、『未来→今→過去』という真逆の時間が流れていたのだ。その観念を腹の底まで落とし込むとまるで右脳と左脳がひっくり返るくらいの感覚を憶える。未来の自分を思い(すでに知っている何通りもの自分)、『今そこに向かっている』というとてもシンプルな構造だ。そこに向かうまでに派生したありとあらゆる出来事を過去と呼び、それは全く確定されたものではないのだ。
それでは過去とは一体なんなのか。過去は、無数に点在する埃のようなものだ。床の片隅やテレビ代の上、棚や置きっぱなしの物全てに降り注がれる、まさに過去の産物だ。とすると、埃が徐々に降り積もる時間の蓄積を過去というのでは?という問いがでてくる。だが、埃の蓄積を観察することがどれだけ無意味かという現実にぶち当たる。(『埃の蓄積観察日記』を自由研究の題材にした方には非常に申し訳ないが)、その無意味さが過去なのだ。埃の落ちる速度を後悔する人がいるだろうか。埃の落ちた場所を後悔する人がいるだろうか。ただ、白くなった棚を気怠く拭き取るだけだ。
しかし、近年デフォルト化された『過去から未来』に時が流れているとすると過去という名の足枷が一生ついて回ることになる。それは埃のようにふわっとした軽さもなく、ネガティブな出来事はよりネガティブに、ポジティブなものは少々薄まって武勇伝として語り継がれたりする。過ぎ去っていったのにも関わらず、その過去たちは私たちの記憶装置のお陰で頭の片隅にいつまでも居座り続けることになる。そして、『今』という毎日に漏れなくそれが重しのようにのしかかってくるのだ。
19歳の春、はじめて渋谷のスクランブル交差点に降り立った。期待を胸に田舎では見上げることのないビル群をぐるっと見渡す。そしてなぜか違和感を覚えた。『違う…私の知っている渋谷ではない』…と。30年前上京して、はじめて見た渋谷は期待外れでなぜか残念だった。私の知っている渋谷は、令和の今やっとそこに近づいている。私はこれから3〜4年後に完成する渋谷駅前の再開発後の街並みを知っていたのだ。アニメなどの影響で未来都市の知識が入っていたのでは?と疑心がつのるだろうが、そうではない。みんな未来をすでに知っているのだ。そして、そこに向かっているという『今』を体験しているだけなのだ。
『時をもどそう〜』何年か前に何度も耳にしたそれは、本来の人間に備わったツールなのかもしれない。私たちは皆すでに未来を知っていて、少しの間それを忘れ去り、ただただ『今』という一瞬一瞬を在(あ)るだけなのだ。恥をかいたな、失敗したな、傷ついたなという受け入れ難い負の現実を時をもどして何度でも『今』から始められるのだ。過去の出来事さえ『今』の一瞬一瞬が生み出す変幻自在な物語だ。
そして『今』
#想像していなかった未来
を
#想像していた未来
に置き換える癖の強い私が在(あ)る。