澁澤翁はマナー違反?
こんなことでゲラゲラ大笑いしていると、言い出した人は大真面目なんでしょうからご不興を被るかもしれませんが、でも、これが笑わずにいられましょうか。
と思ったのが、
「新札・1万円札を結婚のご祝儀で出すのはマナー違反」
なんで? とびっくりして、その理由を聞いたんですが、まあ上記の通りで抱腹絶倒いたしました。
いや笑った笑った(笑)
ツッコミどころ満載とはこのことだろうと思うのですが、まずは「マナー」というのがおかしい、と感じました。
もちろんここでマナーではなくモラルやルールと言われたらもっとおかしなことになりますけども。
そも、マナーとは何か。
解釈は何通りかありますが、その「精神」はひとつ。
「マナーとは
さまざまな価値観や立場の人たちが共存する社会において、客観的にみて、社会全体で守った方が皆が気持ちよく過ごせるであろう行動・振る舞い」
世の中にはいろんな人がいます。
年齢性別はもちろん、考え方も、生い立ちも、生活レベルも、国籍もみんな異なる。
当然価値観も判断基準も何もかも違う。
でもそういう人と同席して、会議でも何かのイベントでも食事でも、同じ目的に向かって行動する場面はありますね。
お互いに悪意はなくても、環境や文化、価値観や習慣の違いが摩擦になってしまうことはある。
可能な限り、そういう摩擦や衝突を避け、互いに「気持ちよく」過ごせるように、という「配慮」がマナーの精神です。
逆にいうとマナーに「絶対の決まり」はないということです。
マナーに固執するとかえって摩擦や衝突になる。
そんなことになるくらいなら、ふんなもん、かなぐり捨てる方がマナーの精神に適うってもんでしょう。
テーブルマナーの例として、果物の皮を手でむいたときなど、手指を清めるための水を入れたフィンガーボウルが置かれていることがあります。
とあるゲストがそれとは知らず、フィンガーボウルの水を飲んでしまった。
けれども、そのことを誰も咎めず、まして「マナー違反だ」などということもなく、その席のホストは同じように水を飲んでみせた。
というエピソードがありますが、これはマナーの精神をよく表していると思います。
ということで、マナーというのは互いに気持ちよく過ごせるようにという「配慮」のこと。
結婚のご祝儀に新札を「使ってはならない」というのなら、それはマナーではなく「ルール」です。
しかも押しつけの。
なんで新札一万円がご祝儀には「マナー違反」か。理由は、渋澤栄一翁が非常に「お盛ん」な方で、女性関係にどうにも不道徳なところがあったから、結婚のご祝儀には相応しくない、とのことでした。
どこまで本気で言ってんですかそれ。と言って大笑いしていたわけですけども。
現在はまだ福沢諭吉翁と渋澤翁が混在していますが、いずれは渋澤翁一択になってしまう。
そのとき、この主張をした人はどうしろというのですかね?
1万円札を使うことなく、五万円なら五万円分のお札(五千円札、千円札)を揃えるというのでしょうか。
まあ別に、それで特別不都合はありませんでしょうけど。
仮に、渋澤翁がインモラルだったのでご祝儀に相応しくないというのなら、それは個人のジャッジであって、自分がそう思うなら使わなければいい。
百歩譲っても、相手方に新札を使っていいかどうか、それを気にする人であるかないかを確認すればいいだけのこと。
世の人々にこれこそマナー(というか実質”ルール”の扱い)として押し付ける「べき」話じゃないと思いますね。
それに。
世の中で何がいちばんのマナー違反かって、
「誰かのマナー違反を、人々の面前でマナー違反だと指摘すること」
なんですよね。
マナーは結局は気遣い、配慮の話でしかなく。
いちばんの目的は、その場の雰囲気を心地よいものにすること。
誰かのマナー違反を面前で指摘すれば、どうしたって雰囲気は悪くなる。
ゆえに、これが最大のマナー違反です。
「マナーとはそもそも何か」
この考え方が浸透していくことのほうが、新札を使うか使わないかよりもよっぽど大事な、肝心なことだと思いました。
筆で身を立てることを遠い目標にして蝸牛🐌よりもゆっくりですが、当社比で頑張っております☺️