寿命の加点、減点
誕生日で多くのコメントをいただいてありがたく嬉しく思っておりますが、そのコメントの中に、「あー……なるほどー……」と、ちょっと考えてしまったものがありまして。
「(また)1年、寿命が縮むのに、祝えるわけがない」
家族の誕生祝いにしても、「また1年分減ってしまった」という気持ちがして、祝う気持ちでは、正直にいえば、ない。
というご意見なんですね。
なるほどこれはこれでわかるなーと思いました。
人の視点て面白いですよねえ。
同じ事象でも加点法か減点法かで印象が正反対になる。
コップ半分の水を見た時どう思うか、っていう、ああいう話です。
まだ半分も水があると思うか、もう半分も無くなってしまったと思うか。
私も誕生日といえば、
「これからまた1年が始まる」
という視点なんですが、
「また1年を〝消費〟してしまった」
と思うと、祝うどころではない、という視点。
なるほどそういう見方もあるなーと思いました。
生きているだけで丸儲け、という(確か明石家さんまさんの)言葉も、何もなかったところから生きるということを積み上げているイメージの側じゃないかと思います。
わたしも自分では、相当に悲観的な人間だと思っているけど、誕生日=また1年を使ってしまった、という視点はなかったな〜と思いました。
いい悪いとかじゃなくて、モノの見方のお話。
寿命というものを「持って生まれた」という発想ですね。
わたしも実際、寿命というか「天寿」はあるなーと思っておりまして。
天の定めた、その人の人生の時間の長さですね。
これは決まっているのでは、とは、思うことはあります。
その考えに従うなら、確かに、誕生日で
「また1年を使ってしまった」
「持ち時間が減った」
という発想の方が「自然」だといえます。
でも、天寿というものを考えているわたしも、誕生日を
「持ち時間のうち1年をまた終えてしまった」
とは考えない。
どうしてでしょうね。
なかなか面白いです。
天寿があるものとして。
それがわかっているといいなと思うことはあります。
自分が何歳まで生きるか、それがわかっていれば、マネープランはかなり立てやすくなる。
寿命が決まっているなら、わかっている方がいいな。
——と思うことはあるんだけど。
でも、どうなんでしょう。
それを知っていれば人は誰しもが、自分の人生を計画的に、充実して過ごせるようになるでしょうか?
人が自分の天寿を知らない、知るすべを持たないことにも、何かしらの意味や理由があるかもしれません。
それが幸いなことか、それとも不幸なことか。
それもわたしには判断ができません。
ただ、天寿が定まっていたとしても、誕生日がきて
「また1年という時間を使ってしまった」
「残りはどれくらいだ?」
とスマホのバッテリー残量を見るような気持ちにはならない。
これはこれで、面白い心理だという気がします。
残量がわかったとしても、人の寿命はチャージはできませんからねえ。
知らぬが仏と開き直っているのかそれとも。
「1年という時間は消費するものではない」
という感覚でいるのか。
「歳を重ねる」
という言い方を好むところから見て、「消費する」「使ってしまった」という感覚は希薄だということだけは、確実にいえそうです。
江戸時代の著名な観相家、水野南北の例もありますし。
天寿はあるにせよ、それは案外、融通がきくものかもしれない——と、そんなことを考える(ことがある)せいかもしれませんね。
皆様はいかがでしょうか。
歳を重ねていく、と発想するか。
寿命のうちの1年を使った、と見るか。
なかなか興味深い話だと思いました。