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「愛」という言葉が告げるもの
同じ内容の投稿をしても反応がちょっとずつ違うと言うのがSNSの面白いところでしょうか。
先日、「愛している」という言葉について何気なく投稿したのですが、 Threads で(わたしにしては)それなりにバズったようで、ちょっと面白いことになりました。(Blueskyにも投稿したつもりだったんだけど、今みたらなかった……忘れてたみたい)
Threads は埋め込みができないようなのでエックスの投稿で失礼致します。
「愛している」というのは“外来語”なので
— みずはら mizuhara (@gibbous_leo) November 23, 2024
日本に導入されて以来100年を超えた今もなお、違和感がある、という人は少なくないとか
ならば外来語ではない日本語ではなんというのか、と調べていったら
「大切にする」
というのだ、というお答えに遭遇しまして。
あーなるほどー💡と思いました
Threads の投稿はこちら↓
さまざま感想をいただいておりまして、これも拝見していると楽しいのでリプ欄をご覧いただければと思います。
言葉についての感性や、個々人が持っているその言葉への概念、イメージの違いも浮き彫りになりますね。
同じ言葉を話していても、話がぜんぜん通じないとか、ビミョーにすれ違っている気がする、と感じることは多いですが、それもまあ無理もないやな、とあらためて思いました。
「白い花」と聞いたときに、白い薔薇を思い浮かべるか、高潔な白百合か、可憐なスズランかではずいぶんイメージが違います。
なので話し合う前に、本来なら
「今日は白い花の中でも、白い薔薇について話し合います。
以後、白い花、といったときは特別な注釈がない限りはバラを意味します」
という具合に、具体的に言葉の定義をする必要があるんですよね。
日常会話でいちいちそれをやるのも非現実的ではありますが、まあ、厳密なところを考えるなら、それが筋。
ともあれ。
「愛している」
という言葉はどうにも、自分の気持ちとしてはそうであっても、実際口にするのは抵抗感があるというご意見は以前からちらほら聞く機会がありました。
逆に、せっかくの愛の告白ではあるが、そう言われてもなんかピンとこない、直球に「好きです」と言われたい、というご意見もありました。
面白いもんだ、なんでかな――と思っていたのですが、Love は明治期に入ってきた「新しい概念」であり、それをいかに日本語に訳すか、先人の苦労があったと聞いて、なるほどなーと思ったんでした。
もちろん昔から、人を愛しいと思う感情は日本にだってあったでしょうが、「愛」という言葉と概念とは、ちょっとズレがありますね。それはリプ欄にあるご意見の通り。
そのズレへの戸惑いが、
「日本人はそんな(直截な)言い方はしない。
月がきれいですね、とでも訳しておけ」
と夏目漱石がいったという「伝説」の背景になったようです。
しかしあえて、Love というものを日本語の中に見つけようとするなら「大切にする」になる、という回答は、日本語ネイティブとしては大変納得のいくものでした。
「大切」も「外来語」(漢語」であるというご意見、漢語には違いないが「和製漢語」なので日本語とみなせる、というご意見もあり、なるほどなーでございます。
その言葉の発生した時代や、語源、それぞれの時代における用法も網羅した日本国語大辞典、日本語大辞典、日本語語源辞典等々ありますので、そちらで見ていくのもありだと思います。
余談ですが、この種の辞典類は項目を読んでいるだけで面白くて、ついつい、目についた項目を読んでしまい、調べようと思っていたことを忘れてしまったりします(笑)
三島由紀夫が幼い頃、国語辞典を愛読していたという話を聞いて、そうだろうなと納得したんでした。
ひとつの言葉や概念について、和語、漢語、はたまた「やまと言葉」にまでさかのぼって考えるのも楽しいですね。
先ほど、Love は明治期からと申しましたが、実際は違うんですね。もうちょっと古い。
安土桃山時代、――かのイエズス会の宣教師によって持ち込まれたものが最初になる。
愛とキリスト教は切っても切り離せない関係。
そう思えば納得です。
興味深かったのはそうやって最初に日本に「上陸」したとき、愛(する)という概念を、「お大切」と訳したというお話。
隠れキリシタンは「キリストのお大切」と言っていたそう。
広辞苑では「御大切」を「キリシタン用語。愛」と記しているんですね。
往時の聖書などの日本語版がどんなものなのか調べるべきところではありますが、目下、なかなか時間が取れずにおりまして。
なのでまずは、お寄せいただいたコメント、リプの情報に基づいてというお話になりますが、明治以前の時代の吉利支丹(あえてこの字を使いましょう)は、御大切という訳語を使っていたのは間違いなさそう。
キリスト教のいう愛はアガペであり、現代のように恋愛関係で使われるときの愛という言葉(概念)とはまた違うのではというご意見も出て参りましょうが、まあ、愛しているというのは恋人だけにいう言葉とも限りませんから、そこまで厳密に考えなくてもいいかなと個人的には思っております。
愛しているという言葉に違和感があるというのも、日本語を母語とする人間の感覚としてはそう悪いものではないと思えます。
理由を知らずになんとなく違和感があったんだけど、なるほどそういうことか! と腑に落ちる体験も、言葉への理解を深めてくれるでしょう。
日本語にも、「何かを愛しく思うこと」を意味する言葉は種々ありますから、それらと「愛」との違いや共通点を見ていくと、言葉の理解の精度が増すのではないでしょうか。
どれが間違っているとか正しいとかの話ではなくて。
自分が持っている「概念」を自分自身で知るのは、よき経験になり、知識を深め、言葉への感性を磨いてくれる。そのように思います。
いただいたコメント(リプ)で興味深かったのが
「自分は夫に〝愛されて〟いるのだろうか?」
とうっすら疑問に思っていた方が、
「大切にする」
という言葉で捉え直してみると、宝物のように大切にされている自分を発見し、そうだったんだ! と実感して安心を得たというお話。
言葉の面白さ、本来使うべき言葉の「機能」を教えていただいた気持ちがいたします。
類似の言葉で言い換えたときに、あっそうか! と思うことってありますよねえ。
大事なのは、愛でも大切でもなんでも、「気持ち」が通じること、伝わること。
そのための「回路」になるのが、言葉というものなんだな、と。
わたしも勉強させていただきました。
ありがとうございました😊
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