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〝生きている私〟 という罪 —— 演劇: 酔ひどれ船公演 「父と暮せば」視聴感想

 酔ひどれ船公演、企み事其之肆「父と暮せば」配信を視聴しました。
 本来ならちゃんと会場へ行って観劇したいところでしたが、正月5日から風邪を引いてしまい、結局果たせず。
 それでもありがたいことにインターネット配信がありましたので(購入期間は1月31日まで、視聴期限は2月9日まで)、視聴することができました。

 井上ひさしさんの戯曲であり、過去に何度も舞台化、映画化もされている作品ですね。
 しかし予想以上の衝撃がありました。
 テーマが広島だからというだけではありません。
 人類普遍のテーマをすくい上げる、心に響く舞台でした。



◾️「父と暮せば」


 今回は「酔ひどれ船」主宰、西嶋咲紀さんと、藤森太介さん(アトリエうみ)によるふたり芝居。
 会場がまた面白くて、北千住 BUoY はかつて銭湯だったとのこと。
 銭湯の湯船、鏡、タイル張りの床(水はけのためにごく緩やかな傾斜がついている)が目に入ります。

 銭湯特有の、洗い場にずーっと続く横長の鏡に、演者さんの姿が映るんですね。
 これ、お客さんの見る角度によっては面白かったんじゃないかなと思いました。
 配信ではカメラは固定されているのですが、ときどき演者さんが鏡にも写り込むことで、本来なら見えない角度からも表情が見えて、登場人物の感情がより鮮明に見える気がしました。

 そしてまた、タイル張りの床の上に、畳を模した敷物があるのが、戦後間もないころの、つましい、けれども心遣いが行き届いた住まいの雰囲気を伝えてくれる感じがしました。
 これは通常の劇場の、舞台とは全然違った趣きです。
 会場自体が、お芝居の雰囲気作りに「参加」しているようでした。

 戯曲についてはすでに広く知られているので、今更ネタバレもないだろうとは思うのですが、未読、またはご存じない方もいらっしゃるかもということで、そこは伏せておきますね。

 ちなみに。
 タイトルなんですけど「暮らせば」じゃないですね、「ら」は入らなくて「暮せば」。
 うっかりしていると「暮らせば」と表記してしまいそうになります(笑)

 ともあれ。
 藤森太介さん演じる、父親・竹造がなんとも可愛らしい。
 もとがひょうきんなところがある人なのでしょうが、深刻だったり、悲惨な状況であっても、どこかそのセリフにはユーモアが漂います。

 本来なら笑うべきところではない場面でも、クスッとさせられてしまう独特の愛嬌がありました。

 そして西嶋咲紀さんが演じる美津江さん。
 清廉な美しさが印象に残ります。
 賢く、心映えの美しいひと。
 物語の向こうでちらちら姿を見せる、実直な木下青年が、美津江さんに心を寄せるのも当然のことと思えます。

 娘の恋路と聞いては、それへの障害物たらんとして現れる父親ということが多いですが、竹造さんはむしろ木下青年の実直さを認め、美津江さんをそそのか……もとい、「素直になって」その恋心を解き放つように励ますのですね。
 押し殺そうとしても押し込めきれない美津江さんの恋心が、今の自分を作り上げているのだ――という竹造さんの言葉に、と胸を突かれました。
 いいお父さんだなあ。
 最高ですね。

 本作では最初から最後まで、竹造さんの、父親としての愛情が泉のように溢れ続けている。
 それが、この舞台の心地よさにつながっていると感じました。


◾️多層的に読めること


 物語の背景にあるのは、広島への原爆投下。
 どうしたって重いテーマになります。

 こういうものをモチーフとして扱う作品の場合、反戦を訴えるのはいいのですが、わたしから見ると「やりすぎ」になってしまう作品が多くあるように思います。

 ただでさえ重く苦しい、悲しい内容になるのに、表現を過剰にすると、受け取り手に「心の傷」を残しかねない。

 実際、わたしは中学生のときに見た「怒り地蔵」だったかな、そういうタイトルの、やはり広島の原爆投下を題材にした人形アニメーションを見て、途中で席を蹴って帰りそうになったことがあります。

 自分がある程度以上の年齢になって思い返したとき、
「もうちょっと観客を信用してもらいたい」
 と思いましたねつくづく。

 制作側に「これを伝えたい」「こういう思いを共有してほしい」という熱い思いがあるのは結構なんですが、それが観客への「押しつけ」になることがままあります。

 そうなるとお涙ちょうだいものになるというか、「過剰」になってしまうんですね。

 受け取り側の感受性には個人差がある。
 鈍感な人もあれば過敏なほどの人もある。
 制作側としては鈍感な人のことが心配になり、伝わるかなあ、わかってもらえるのかなあと不安を覚えるのかもしれませんが、もう少し、観客を信用してもらえんかなと思います。

 過剰な押し付けになると、受け取り側も感情的に傷つく。
 嫌悪感を持ってしまい、逆に作品から遠ざかる結果になる。

 過去に何度かそういう思いをしているので、「父と暮せば」について聞いたときも、そういう懸念がありました。

「父と暮せば」は、いろんな受け取り方、「読み解き方」ができると思います。

 反戦もあり。
 広島で起きたことを知る、歴史を、あるいは「過去」を知る、という面もあり。
 親子の愛情という人類不変のテーマもあり。

 受け取りのフェーズはいくつもある。

 観客が主にどのフェーズにいて、どのメッセージを強めに受け取るかは、観客個人、それ次第。
 そういうふうに観客に「任せて」くれるところが、この「父と暮せば」の優れたところだと思いました。

 父娘の、お互いへの深い愛情の物語とも読める。
 広島の原爆投下についてあまり知らない人にとっては、知るきっかけになる。
 反戦への思いを新たにすることもできる。

 それぞれのフェーズがパイ生地みたいに多層となって、どのメッセージをどう受け取るかは、観客に任されている。
 この点に、わたしは安心感を覚え、作者の、観客への信頼を感じてありがたいと思いました。

 観客を信用して「任せて」くれる作品ですね。
 読み手や観客への、独りよがりの押し付けはない。
 作品としては、ちゃんと(というのも変ですが)良質なお芝居(戯曲)になっている。
 そのように思いました。


◾️「生きているわたし」という罪


 そういう中、不肖、わたしという観客はどこにいて、何を見たか、と申しますと。

「生きている自分」への強い罪悪感です。

 これは原爆後の生存者というだけではなく、ある意味、人類に共通するテーマだと感じました。

「父と暮せば」の感想を聞けば、戦争、原爆(被害)に多く集まるでしょうが。

 わたしがグッと引き込まれたのは、後半、「生きている自分という罪」、そのテーマでした。

 これは戦災に限った話ではありませんね。
 事件や事故、大きな自然災害においても、家族も友人も失いながら、自分ひとりが生き延びたとき。

 自分が生きていることへの、言いしれぬ「罪」を感じる。
 人間にはそんな気持ちがあります。

 サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt) と言われるそうです。直訳すると「生存者の罪悪感」。
 サバイバー症候群(survivor symdorome)というものもあるそうです。
 いずれも心的外傷後ストレス障害 PTSD ですね。

 人間は面白いなと思います。
「他人の不幸は蜜の味」という、地獄の言葉を吐き出すかと思えば、自分が生き延びたことを「罪」と感じることもあるのですから。

 サバイバー症候群は、大規模な事故があったとき、我が身の危険も顧みずに必死に救助にあたった方々にも、まま見られるそうです。

 他人の不幸は蜜の味どころか、誰にでもできるわけではない尊い「善行」を行った人が、なお、自分の力が足りなかったのではないかと自分を責めてしまう。
 そこに「罪」を感じてしまうわけです。
 人間の「本性」は、本当は、どこにあるんだろう――そんなふうに思っちゃいますね、つい。

 ともあれ。
「父と暮せば」は、反戦や広島の歴史という読み方もできますが、何よりも、「生きているわたしという罪」に、真正面から取り組んでいる。そのように感じました。

 過去の話ではなく。

 今、ここにいる観客が、心のどこかしらに忍ばせている可能性の高い、「普遍的な」罪の意識。
 日常生活や人生に障害になるほどではないにしても、大抵の人の心に潜んでいる悲しみや痛み。

「生きているわたしという罪」を、「父と暮せば」は、そっと両手ですくい上げている。

 そんなことを作者がどこまで意図していたかはわかりませんけれども。

 どこまでも朗らかで、娘への愛情を失わない竹造さんは、誰の心にもあるその傷を、罪を、「浄化」しようとしている。

 生きる「資格」などない、生きていることこそが自分の罪だとして、自分を罰しながら生きようとする美津江さんに対して。
 それは罪ではなく、死んでいったものにとっての「希望」であることを、徹底的に説いていく。
 生きてくれ、生きていてくれ。それが願いであり希望なのだと。
 たしかに悲しい別れではあった。だからこそ、それを繰り返さないために生きて語る人が必要だ。
 生きて語る人がいること。それが亡き人々にとっての希望だ。

「生きている自分」ではなく「生かされている自分」を見よ、と竹造さんはいう。

「生かされている自分」という視点への転換は、深い罪悪感からの救いになると同時に、竹造さん自身にとっての「救い」でもあることを示していると感じました。

 もともと「生きていること」の罪などはないのですが、そう思ってしまうほどの愛情が、人にはある。

 心理学においては、罪悪感の強さ深さは、愛の強さ深さなのだそうです。
 愛しているからこそ、罪悪感は強くなる。

 感情がねじれてしまい、愛情が罪の意識に変わってしまったのを、竹造さんは反対方向・・・・へねじって、真っ直ぐに戻してくれた。

 まっすぐに戻してもらったのは美津江さんだけではなく、小さいものとはいえそんな罪を感じている観客ひとりひとりも、同様だったのではないでしょうか。


 カタルシス。
「精神の浄化」。

 文学やお芝居には、「自分以外の誰かの体験」を追体験することで、隠され押し込められていた自分の感情を解放し、「浄化」する――という機能があります。

「父と暮せば」はまさしく――そのカタルシスの力を強く感じさせてくれるお芝居でした。

 カタルシスパワーは戯曲を読むだけでもあるとは思うけれど、やはり生きている人間の肉体を通して表現されることで、そのパワーは何倍にもなっていくのだとも感じました。

 映画化もされている作品ではありますが、やはり、ライブのお芝居が一番だろうなあと思いましたね。

 同じ場所に集まり同じ時間を共有しながら、役者さんそれぞれのリアルタイムの肉体に宿る「霊」と語り合うこと。

 つくづく、わたしも生の舞台で拝見したかった、と思いました。
 正月早々、風邪なんか引いている方が悪いんだけど。

 美津江さんも竹造さんも、これまで多くの舞台や映画で、それぞれの美津江さん、竹造さんが現れたわけですが。
 今回の、西嶋咲紀さん、藤森太介さんの美しさと可愛らしさはまた格別のものがあったのではないか。
 そんなふうに思いました。

「生きているわたしという罪」を、洗い流してもらったひとりとして、深く感謝を申し上げたいと思います。
 ありがとうございました。


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みずはら
筆で身を立てることを遠い目標にして蝸牛🐌よりもゆっくりですが、当社比で頑張っております☺️