【短編小説】Rainy days雨月奇譚
宍戸 治三郎は江戸城での大番役を退いた後、雨月齋と名乗り江戸郊外の村にあった百姓家を買取り晴耕雨読の隠居生活を送っていた。大番役とは戦時には旗本備の先鋒、平時には江戸城の警衛や幕府直轄城の在番を勤める。 元は侍ではあるが偉ぶることもなく隣近所との中も良好であった。雨の日になると畑仕事は休みになることが多いので、村人たちが治三郎の百姓家に「雨月どの、雨月どの」と訪ねてきては碁に興じ、酒を飲んだ。その他で訪ねてくるのは世話焼きのお清くらいである。
《お清の視点》
治三郎様のもとで働いて二十年が近い。行儀見習いとして宍戸家で働き始めた。その頃、治三郎様は齢40を過ぎていたけれど若々しく、江戸城大番役きっての一刀流の使い手。しかし、それを鼻にかけることもなく「儂はな、こいつを抜くことなくお役目を退くことができれば良いと思っておる」と常々申されていた。
ある日、治三郎様が通いの道場に来た道場破りを打倒した。その夜、道場破りが真剣ならば負けはしないと言って、やけになって喧嘩を売ってきた。もちろん、治三郎様は相手にしなかった。それがいけなかった。腹を立てた道場破りは、去り際に中元の松五郎を斬った。後からその様子を見ていた者から聞いたが、治三郎様は松五郎が地に伏す前に道場破りを一刀の下に斬って伏せたらしい。後にも先にも治三郎様が人を斬ったのはそれが最後だった。治三郎様に非はなかったが「松五郎を守ってやれなかったのは儂の落ち度だ」と言って悔いておられた。ついには周りが止めるのも聞かず御子息の春之助様に家督を半ば押し付ける形で隠居された。そうして、屋敷をはなれられてからも、私は治三郎様の身の回りの世話をしている。私は優しく芯のある治三郎様をお慕いしている。最近は「お清、早う嫁に行かねば貰い手がなくなるぞ」というのが口癖で「もう、おりませぬ」と私が返す。私が治三郎様をお慕いする気持ちは忠義に近いのだろうと思う。
治三郎様は隠居されてから年に一回だけ刀の手入れをする。理由は教えてくれない。ただ、朝に手入れを始め夕暮れ頃にその刀で素振り稽古をされる。齢を重ね背中は幾分小さくなられたが、一年に一度、刀を振るこの時はあの頃の姿を取り戻す。私はその姿を見る度に胸が高鳴ってしまう。そして「今日はもう帰れ」と言って刀を腰に差し縁側に腰掛け月を眺め、その後は口を聞かない。あの道場破りを斬ったあの夜と同じ月を眺めて。
陽が昇る頃に家を訪ねると、決まって何事も無かったように刀を片付け朝餉の支度をしている。
治三郎様はあの日の亡霊を、あの道場破りを斬っている。そう思えてならない。それ以外に侍を捨てた心優しき治三郎様が刀を振る理由など検討もつかない。
《治三郎の視点》
またあの日がやってくる。あれから十年の月日が流れたがあいつを儂は斬らねばならぬ。大番役を務める頃は一刀流の達人ともてはやされたが、いかに剣の腕が上がろうと太平の世では刀を抜かず殺さずが人の道と信じていた。それが、毎年、同じ男を殺めねばならないのは我ながら何と因果なものだろうか。
その夜、お清は家へは帰らず途中の道を引き返し、治三郎の家の庭の茂みに隠れ治三郎が抱える何かを見届けようと決心していた。重荷があるなら共に背負うことができればと思う心は忠義にも似た恋慕の情からだった。
治三郎は庭に立ち、刀を構え月明かりに照らされた顔は今にも泣き出しそうなほど悲しみに満ちていた。そして、治三郎の刀が空を斬った。治三郎は片膝を地につき、杖のように突き立てた刀を握る手は小刻みに震えている。お清は堪らず茂みから飛び出し治三郎の下へ駆け寄った。
治三郎は泣いている。「すまない。すまない。儂を許してくれ。松五郎」
治三郎が刀で空を袈裟斬りにしたその一瞬、お清にも僅かに霧のような人影が見えていた。それは、あの日斬られた松五郎だった。治三郎が毎年毎年、斬っていたのは道場破りではなく松五郎だった。
「お清、お前にも見えたのであろう」治三郎はお清が盗み見ていたことに気づいていた。お清は一歩下がり頭を地につけ謝った。治三郎は震えた声のまま「謝らずとも良い」と言い、話し始めた。
「松五郎はな、儂の代わりに死んだのだ。太平の世に刀はいらぬと宣わっていた儂の慢心が松五郎を殺めたのだ。松五郎命日になると儂の前に現れる、それを、儂は斬るしかない。あの夜、松五郎が斬られたのと同じ太刀筋でな……。これが供養になるとも思っておらん。だが、こうせねば松五郎は..…ううっ」
治三郎はまた泣き始めた。しとしとと、生暖かい雨が二人を濡らし始めた。
翌朝、お清が朝餉の支度をしているといつもより低く何処か寂しげな声で治三郎が「お清、早う嫁に行かねば貰い手がなくなるぞ」と言った。
「もう、おりませぬ」といつもの言葉を返し、さらに続けて「治三郎様、剣を教えてくださいませんか」と治三郎の方をまっすぐ見つめて言った。
治三郎は少し驚き目を丸くしたが、すぐに「そうか」とだけ言った。昨夜から降り続いた雨は止み、晴れ間が顔をのぞかせていた。
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