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【ショートショート】呼び声

「おーい!こっちだあ!」
 白髪頭の老人が大きく手を振る。
「こっちよ、こっち!ね、早く」
 若い女が叫び、手招きする。顔は悲痛に歪んでいる。


 「、、し。たかしっ。誰か誰か」
 聞き覚えのある懐かしい女の声。視界は黒い。男は瞼が閉じていることに気づいた。白い天井、日焼けした薄黄色のカーテンが見えて初めて自分が病院にいるのではないかと考え始めていた。
 寝かされている自分に、子どものように縋りつき泣きむせぶ女性が母であると気づくのに大分時間がかかった。虚ろな目に医者がライトを当てる。

「先生、この子は、」言葉が出ない母。

「意識の混濁はあるようですがじきに回復するでしょう」そう言い残して医者は去った。


 男の名は新島聖にいじまたかし、泣き止んだ母親から名前や年齢を聞かされ薄ぼんやりとモヤが掛かった記憶が晴れていく。そして、母親から聞かされるのとほぼ同時に会社から帰る途中、事故を起こしたことを思い出した。
「俺、事故...…ッ」急な頭痛が新島の頭を突き刺す。
「いいの、いいのよ。ゆっくりで。あ母さん、飲み物買ってくるわ」


「俺、夢を見たんだ。白い霧の中で『帰ってこい』『戻れ』って叫ぶ若い女の人とお爺さん」
 母の買ってきたお茶を飲みながら話し始めた。
「きっと、由美ちゃんね」母親がため息混じりに答える。
「由美?」
「そうよ、あなたの恋人よ。きっと由美ちゃんが」
母親は言い淀見ながらも事故のあらましを語った。仕事帰りに同僚でもある恋人の由美と食事をして、車に乗で家に送り届ける途中に事故をしたこと。由美は大怪我をしてまだ意識が戻らず助かる見込みも薄いこと。ただ、由美は酒に酔って眠っていたため事故に気付く暇もなかったらしい。苦痛を感じなかったのがせめてもの救いかもしれないと思った。
 再び泣き始めた母親を新島は帰らせた。細かな話は追々聞けばいいと思った。それより、体中が痛くて、怠くて早く眠りたかった。眠れば恋人に会える気がした。

 新島はまた夢を見た。
「帰ってこーい!戻ってこーい!」 白髪頭の老人が大きく手を振る。「こっちよ、こっち!ね、早く」 若い女が叫び、手招きする。顔は悲痛に歪んでいる。
(あれが、由美?顔を見たい)
 歩を進める。一歩また一歩。
「こっち、こっちよ!」若い女の声。
 一歩また一歩。冷たい、体が濡れていく。一歩また一歩。そこが河だと気付く。目が覚めるほど冷たい河の水に浸かって少し冷静になる。

(あの爺さんは誰だ、)
 「帰ってこーい!戻ってこーい!」
「帰ってこーい!戻ってこーい!」
 一歩また一歩。一歩また一歩。一歩また一歩。
 自分の意思とは関係なく足が動いていることに気付く。だが、既に対岸に着いていた。
 息を切らして立ちすくんでいると目の前に、あの二人が立っていた。
「……由美、」
 若い女が新島に抱きつく、背中に手を回す。
「すまない。すまなかった」新島は泣き崩れた。

「すまない?すまないですって」
 若い女は男の背中に爪をたてた。
「お前だけ生き残ったなんて許せん」年老いた男は新島の髪を掴みながら怒鳴った。
「あんたは地獄行きなのよ!」
「俺達が連れて行ってやる」
 二人は新島を引きずり回す。
「何だよそれ、助けてくれよ、お母さ、お母さんんんんん」

  新島は動けずにいる。水を吸った服が鉛のように異常に重く纏わりつく。岸辺のさらに向こう側、赤く黒い深い闇が口を開ける崖の淵へ、もはや声も出せずに引きずられていく。



「死んじゃいましたね」
「ああ、正直なところ安心したよ」
医者と看護師が新島の死体を見下ろしている。
「乱暴目的で女性を薬物で眠らせてホテルに連れ込む道中、信号無視で女子大生と老人を轢き殺したんだ。死んで当然かもな」医者はため息混じりに呟いた。
「でも助手席の女性は意識が戻って良かったですね」

「そうだな。ま、こいつは地獄行き決定だけどな」二人は目を合わせて笑いながら男の死体を再び見下ろした。


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