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《短編小説》Time is Gold

 八千代やちよの姉、おトキは若く美しい。白いうなじに掛かる一筋の乱れ髪、切れ長の目に見つめられれば荒行を耐え抜いた得の高い僧であっても色を覚えるほどだった。若いのは見た目だけではない。十七ほどに見える八千代に対して二十五程に見える姉だ。もちろん実の姉ではない。母と呼ばせている。
 八千代もトキに負けず劣らず美しい。八千代から姉と呼ばれるトキは去年の夏、八千代をとある遊郭から連れ出し面倒をみている。二人が歩く姿を見れば姉妹と信じて疑わないだろう。しかし、二人が表を歩くことは無い。八千代には遊郭から追手がかかっている、見つかれば殺されると言い聞かせて外には出さない。


 八千代の、あの遊郭での記憶は何処からか連れてこられたところから始まる。髪に白いものが多く混じった初老の男に手を引かれ「今日から私がお前さんのお父つぁんだよ」と言い聞かされた。他の遊女と同じように働かされるわけでもなく、何不自由無く暮らしてきた。ただ、中庭にある『はなれ』で暮らし、表には出ないようきつく言わていた。しかし、八千代が表に出ずとも酔った客が厠の帰りに迷い込み、八千代の姿を見つけてしまう。あどけなくも儚げな美しい少女の噂は忽ち広まり、常連客のお大尽が「あの娘子を」と大金を積んでも主は頑として首を横に振るばかりであった。しかし、月に照らされた八千代の美しい姿を見かけた者が彼女を"山吹の君"呼んで以来、極上の遊女がいると噂に拍車がかかった。
 店の主が八千代を人目に触れさすまいと、はなれから出すまいと遊び相手に選ばれたのがトキだった。トキと八千代は毎日、日が暮れても遊び続けた。八千代も遊び相手ができて嬉しかった。トキも男の相手をせずとも八千代と遊んでいれば給金が貰えたし、『姉さん姉さん』と慕ってくる八千代が可愛かった。

 見えないものほど見たいし、触れられないとわかっていても触れたいと焦がれるのが下心というもの。主、つまり八千代のお父つぁんは、相変わらず幾ら積まれようと八千代に指一本触れさせようともしない。しかし、客も負けず劣らず。通い詰め、金を落とし続ければいつか八千代を手にできると思っているから毎度派手に遊ぶ。自然と店は潤った。
 そんなある日、トキは店の者と主の話を聞いてしまった。それは欲に目が眩んだ者達の汚い笑いにまみれた声だった。内容は八千代を女遊びの派手さで有名などこぞの殿様にあてがって、吹っ掛ければ一生遊んで暮らせる金が手に入る、というものだった。トキは胸の中を無数の羽虫が這うような今まで味わったことのない気持ちになった。そして数日後、客の男を八千代を餌に騙して店から逃げ出す手引をさせた。そして、その男も道中殺して山に埋めた。

 トキが八千代を連れて逃げて"二十年"が経とうとしていた。あの店は八千代が逃げて程なくして客が入らなくなり店を閉めたと風の噂に聞いた。もう、追手など掛かろうはずもないがトキが八千代を外に出さないのは二つの理由がある。世間知らず可憐な娘など町のごろつき共のいい獲物だ。もう一つも八千代の見た目に関わることだった。
 あれから二十年、八千代は年をとっていない。あの当時、年が近いことから18になったばかりのトキが遊び相手に選ばれた。だが八千代は連れて来られたあの日から少しも見た目が変わらない。貧しい生活の中でも白い肌は潤いを失わず若々しい。そんな八千代が近くにいるおかげか、トキもとても四十近くの女には見えないほど若く見える。それでも、年を増すごとに金づるの男達も一人また一人とトキのもとを去った。それでも残っているのは八千代目当ての男が殆どだった。トキに金を落としていれば何時いつかは八千代を手にすることができると思っている浅ましい者達だ。見えないものほど見たいし、触れられないとわかっていても触れたいと焦がれるのが下心というもの。しかし、トキは自分以外の人間が八千代に触れることを許さなかった。

 ある日「あんな穀潰し、売っぱらっちもうかねえ」とトキが冗談交じりで八百屋の親爺に漏らしたのを聞きつけたのは若い大工の亀吉だった。亀吉はたまたま見かけた八千代に惚れてからというもの、わざとトキと八千代の家の前を行ったり来たりしてみたり、只で雨漏りを直してやったりして八千代を一目見るのに躍起やっきになっていた。
 そんな調子なものだからトキの言葉を真に受けて頭に血が昇った。カッとなった血潮を若さに任せてトキの頭を木槌で殴り倒し、八千代の細い手を引いた。白くて心地よい肌に初めて触れた亀吉は胸を高鳴らせ着の身着のまま駆け出した。
「おめぇに辛い思いはさせねから……」

 八千代は若い亀吉にてを引かれながら遠い昔の記憶から今に至るまでを思い返していた。

 ああ、あの日もこんな夜だったなあ。あの日も、あの日も、あの日も、あの日も、あの日も、あの日も、あの日も、あの日もあの日もあの日もあの日も あの日もあの日もあの日も、夜だった。誰かが、あたしの手を引く。みいんな、あたしを守って死んでしまう。そして、誰かがあたしを連れ出す。あたしは何処から来たのだろうか。もう、忘れてしまうほど、記憶が擦り切れほど遠い昔、誰かに手を引かれやってきた。初めて来たこの国、慣れない異国の言葉に悩まされたのも遠い昔。昔、昔のお話。もう、昔使っていた言葉も忘れてしまった。幾年経とうとあたしは朽ちず、一番美しい時を永遠に生きる。皆、あたしの白い白い肌に触れたがる。皆の黒髪とは似ても似つかない黄金色に輝く髪に触れたがる。さあて、あたしはこれからどこに往くのかしら。

 亀吉が振り返り何か語りかけたが、八千代にはもうどうでもよかった。八千代は三日月によく似た牙で亀吉の首筋を貫き、湧き上がる若く熱い血潮を啜った。亀吉は短いうめき声をあげたが、すぐに恍惚の表情を浮かべ八千代を搔き抱いた。

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