【短編小説】あさぼらけの繭
目覚めると醜悪な虫に変身していたという小説があるが、俺にはそんな心配はない。27歳で会社を辞めて以来、実家という名の繭に帰り、毎日蹲っている。つまり、8年間引き籠もり惰眠を貪っている。この繭から一歩、世間に出れば俺は忽ち醜悪な虫として好奇の目を向けられ、石を投げられかねない。年々、日に日に醜悪さは増していく。
大学を卒業し約2年間フリーターだった。こんなことなら留年したほうがマシだったと怠惰な自分を呪い、日々のアルバイトに追われ疲れ果てる毎日だった。
転機は祖父の死だった。「お前は大器晩成だ」といつまでも期待してくれていた祖父が死んだ。死ぬことはないと思っていた祖父が死んだ。祖父は亡くなる直前、呼吸もままならない喉から「立派な男になったな」と俺に声をかけて息をひきとった。そこまできて、俺はやっと事の重大さを自覚した。立派になどなっていないのに祖父は何故そのように言ったのか。少し考えれば分かる。『期待していた孫が何者にも成らなかった。死んでも死にきれない』そう思ったに違いない。事切れる瞬間の「はあー」と漏れた息が溜息だったと気付いたのは俺だけだっただろう。
俺は不甲斐ない自分が悔しくてならなかった。一念発起し、公務員になるための勉強を始めた。昼間から深夜まで拘束される居酒屋からコンビニのアルバイトに変え、専門学校に通った。平日は夕方から深夜、週末は深夜から早朝まで働き、週末は深夜12時から朝8時まで働き合間に勉強した。これまでの怠惰を返済するつもりで勉強した。
しかし、怠惰の利子は思いの他積もっていたようで1年目はどこにも合格せず、2年目にやっと地元の役所に合格した。26歳の時だった。
仕事は総務、いわゆる事務・雑務全般だった。毎日、同じ作業も辛かったが何より人間関係が地獄の苦しみだった。『新人いじり』がいき過ぎだった。丁度よい玩具にされていたと気づいた時にはもう遅かった。「こいつは幾らでもなじっていい」と思い始めると止まらない人間が偶々そこに集まっていたのか、俺のことなかれ主義的行動が周りの人間をそうさせたのか、もはや分からない。ある日は上司に大声でミスのあった書類を読み上げられ。またある日は、聞こえるように「公務員は試験は簡単になったんですか」と俺を揶揄する者もいた。ある時は先輩に頼まれて買ってきた弁当にソースが入っていおらず「お前のどん臭さが感染った。俺の人生が狂ったらどうする」と罵声を浴びさせられ、咄嗟に頭を下げた俺を見てその場にいた他の同僚達は笑っていた。同僚や上司達は事あるごとに俺を笑い者にすることで職場の平穏を保っていつもりだったのだろう。定期面談では「君のキャラにみんな癒やされている」と励まされた。少しずつ、着実に俺の心は目に見ない名もなき病に侵されていた。
その頃、気づけば「死にたい」という思いが頭を埋め尽くしていた。でも、死ねなかった。屋上から下を見ると足がすくみ恐怖が込み上げ嘔吐した。「死にたくない。苦しみたくない」苦しみの無い世界で生きたい。苦しみの底を四つん這いで這い回り、逃げ続け、気づけば退職届に判を押していた。27歳の時だった。
逃げ帰った実家では妹が出産のため帰省していた。妹は既に娘を出産し終えていた。家の中は赤ん坊の匂いで満ちていた。新しい命の匂い。赤ん坊は生きることのみに力を注いでいる。その命の塊を目の当たりにすると自分が死にゆく人間であることを実感する。
明日、生まれたかった。生を渇望し死を盲目的に恐れた。
8年が経った。妹の娘は小学生になり、毎日元気に走り回っていると母親伝いに聞いた。もう、繭から飛び出て羽ばたいているのだろう。
遅い夕食を終え2階の自室へ帰る。扉を開けると据えた匂いに菓子やジュースの甘やかな匂いが混じった空気が鼻をつく。気休めにゴミを詰め込んだビニール袋を押しのけ寝床までたどり着く。毛布を捲ると肌色の膜が横たわっている。それはゼラチンと樹脂を混ぜたような質感各所に白髪混じりの体毛が生えている。それは俺の抜け殻だ。それを手に取る。温かみを失ったそれを手近にあったビニール袋に詰め込み、袋の口を適当に縛りゴミの山へ積み上げる。
いつからかは分からない。俺は脱皮をするようになった。脱皮かどうかも分からない。皮膚の下で一度液体になった俺が何ら変わらない俺を構成する。意味の無い完全変態を繰り返す。毎日、少しずつ何かを失いながら、醜い虫へと姿を変える。明日の俺がきっと上手くやってくれる。きっと変えてくれる。明日の自分に期待しながら眠りにつく午前4時、35歳。繰り替えす人生の中で、それすらも定かではない。明日はきっと良い日になる。
「ああ、明日生まれたかったなあ」
薄紫色の空が徐々に白んでいく。それが、いつもの最後の記憶。それも、定かではない。