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【 レポート 伊勢と民衆 】 令和四年 十月一日〜七日 宮本亞門
「ワーケーション、そして伊勢に泊まって伊勢で感じたことをレポートしてほしい」
正直、初めにこれを聞いた時、なぜ、このような先駆的アイデアが、コロナ感染症が広がる最中、伊勢市が展開したのか疑問でした。 コロナ前のブリティシュカウンセルと共同の「アーティスト・イン・レジデンス」も日本ではほとんど聞いたことがない企画です。
そして私が感じた結論から先に言うと「伊勢の人、また伊勢に集まった人たちには、そのDNAが備わっていた」。
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私が伊勢に来たのは3回目。いつも神宮内宮の宇治橋を渡ると、橋の清らかさもあり、
聖界と俗界の境を強く感じます。
内宮の木陰に足を踏み入れると、日光の恵みに満ちた木々の息吹を感じ、皇大神宮御正殿における参拝では足元に敷かれた白い御石の反射も助け、天照大御神の眩しい煌めき、それにまるで宇宙に浮遊する太陽を間近に感じたような凄みがありました。
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ちょうど開催していた「生きる正倉院展」では、調度品や衣装などからも、私たちが見ることのできないご本人の姿を気で感じることができ、神の存在とは個人の心の中にあることを再確認しました。
つまり、人々はそれぞれの想像と創造の中に神を見出し、自分自身と向き合う。
それが伊勢の神宮では古くから受け継がれ、人は心払われ、清められたと感じるのでしょう。
そして帰り道。聖界との境である宇治橋を渡ると、現れた参道は想像より目に見えるモノと人で溢れ、正に俗界にまみれた世界でした。
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おかげ横丁では店が所狭しと並び、呼び込みの声が行き交い、コロナの感染症も下火になってきたこともあって、誰もが解放感に満ち笑顔が溢れ返っていました。呼び込みもここ数年のパンデミックの痛手を取り戻ろうとすることもあり、その賑わいは異様に思えるほど。話し声、笑い声、なんとも楽しいく賑やかな人間味溢れる世界でした。
私は演出家として人間の在り方、行動、思想に興味を抱きます。人間そのものが、聖なるものと俗なるものが入り混じった矛盾した素晴らしい生き物と考える私には、その俗と聖の分け隔てに興味が湧くのです。聖界の儀式に沿う織り目正しい行動とは違った、愛おしいほど正直な人間の姿が見えるからです。人間の五感、煩悩をあらわに解放できる素晴らしさ、そんなことを思いつつ店を眺めていると、私の心は勝手に江戸時代にタイムスリップしていきました。
[ お伊勢フィーバー ]
江戸時代、ここはお伊勢フィーバーで盛り上がりました。時には500万といわれるようなものが7回もあったとか。その賑わいは今では想像を絶するものだったでしょう、伊勢音頭があちらこちらで奏でられ解放感に満ちた人々は、日々お祭り騒ぎのようでした。
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初めの流行は江戸の商人の奉公人や家族らの「ぬけまいり」と言われています。伊勢講に入れてもらえなかった彼らが、ある日突然、着のみ着のままで家を飛び出し伊勢参りへ。無統制群団たちが次々現れます。
でもここで不思議なのは、当時、伊勢神宮では、私幣禁断(しへいきんだん)厳しい制度がひかれていました。つまり、個人的なお供えや願い事はダメ!ということは天照大御神へのご参拝以上に、伊勢は自分を解放するところとしてのイメージが広がります。まさに今のコロナ危機と同じように、閉じ込められて抑圧されていた階層が思いっきり不満をはらしたい、自己浄化のための参拝。それに伊勢神宮はのちに建てられた日光東照宮や明治神宮のように個人を祀るわけではありません。そこには本来の解放的なアニミズム信仰も含まれ、まるごと大自然に感謝する自然崇拝が強かったのかもしれません。
[ 感染症と伊勢 ]
このコロナ禍で、私たちは近年にない感染症による死への恐怖も体験しました。その恐怖は天照大御神を奈良から移動させて、なんとか感染症を封じ込むことを考えたのも分かります。
この伊勢に天照大御神を祀ることになったのは、国内に疫病が流行り、死者が後を断たなかった時代です。第十代の崇神天皇が、八百万の神である天照大御神を倭姫(やまとひめ)に頼み大御神の引っ越しをさせたのは有名な話。つまり疫病がなかったら天照大御神はここにおられなかったわけです。
倭姫と五人の豪族たちは数年もかけ諸国を巡り、その結果、ここを神宮鎮座の地としました。
つまり、この伊勢は感染症があったお陰で、天照大御神が祀られ、神様だけではなく誰もが安心して過ごせる場所となっていきました。
また感染症、疫病は世界の歴史からみても、人々の行動や思考に影響を与え生き方を変えます。イタリアではペストのあと新たに聖母マリアを拝するルネッサンス文化が台頭してゆき、ドイツではペストでニュートンが万有引力を発見したのです。混沌を経験したからこそ、今までと違う新たな発想、新たな文化を次の時代を作っていったのです。
感染症の規制によって、人々は今までの価値観や規制に対して疑問を持ち、精神と肉体への自由を求め、新たなアイデアが生まれていく。
江戸時代に戻ると、家康による規制と唯一自由に行き来できた伊勢参りが人々を救ったと言っても過言ではないと思います。伊勢参りに来たのは人間だけではありません。犬も一匹でおかげ参りをしていたほど、伊勢参りにおいては、人々がお互いを思い、助け合って、犬にまで優しくおおらかな参拝の様子が浮かびます。
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この自由を求めた民衆たちの気運は 後に「ええじゃないか」つまり「社会の規制を破ってもいいじゃないか」と江戸から幕末の社会不安で世の中が混沌としている時、人々が熱狂して乱舞する“世直し”の機運が盛り上がっていきました。
そしてその時、伊勢には時代をリードした優れた仕掛け人、今で言う“イノベーター集団”がいたのです。それが御師(おんし)です。
[ イノベーター集団 ]
御師とは、皇學館(こうがっかん)大学の斎藤教授のいう、下級神職で他の地域では「おし」。伊勢では「おんし」と呼ばれていたそうです。
実はその御師こそが、イノベーターであり革新者の、時代を読み、時代をリードしてきた人たちでした。
大変な行動力で発明家、ほとんどの人たちがなんと伊勢出身者だったのです。
その御師に興味を持った私は、参道街道のそばにある旧御師丸岡宗大夫邸を訪れました。御師の生きた証を18代目の丸岡正之さんに案内していただきました。
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この丸岡家は天正時代1580年くらいから外宮の御師をしていて全国に8000件の檀家を持っていたそうです。そして明治4年突然の明治天皇の命令による廃藩置県が起き、それまで御師が使っていたお札も江戸政府のものしか使えなくなり、御師そのものも廃止になったとか。明治の他国に追いつけの富国強兵の被害者となったのです。
しかし、他国のものまねをする以前に、この御師たちのアイデアは実に見事で今もその流れが多く残っています。
[ 発明とアイデア ]
1〈 宣伝 〉まず御師たちは、見事な旅行業を営む宣伝マンでもありました。日本諸国をすみずみ巡歴します。伊勢信仰の素晴らしさや伊勢旅行の素晴らしさを説きます、それも当時神社で売っていなかった、神様入りのお札「御札」を御師が書いて配りました。それも祓麻(はらえのぬさ)や伊勢土産(みやげ)を添えて。つまり今、我々がありがたく神社で購入する御札も御師たちのアイデアだったのです。また土産の品目は特産物のあわび。のし(伸ばし)あわびは長くのびて縁起の良いものとされ、伸ばして(のし)熨斗鮑(のしあわび)にして配りました。これは現代のお祝い金やお香典に使う袋についている「のしの起源」また伊勢暦も作り、予定を立てさせて計画を共に練っていくために作りました、これは今の「カレンダーの起源」。
他にも紙幣からお土産まで。いくら伊勢に来させるためと言えども、その特許モノのシステム発明力には感服です。
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2〈 サービス業 〉ただの旅行業者と思ったら大間違い、サービスの競い合いと言われたほどの見事さです。まさに今のツアーコンダクター顔負けのサービス。当時の御師の家は800件以上あったそうで、どこも籠をいくつか設置しており、移動も自由にどこでも行き来OK。中には江戸や各地から大切な日用品も運んでくれたらしく今の宅配便顔負けです。佐川急便の絵のように、ふんどしもチラつかせながら掛け声をかけながら全速力で東海道や伊勢街道、参道で運ぶ様が浮かびます。
3 〈全てこみこみのパッケージツアー〉そして到着、なんとこの伊勢参り、全て込みなのです。3泊、3食付きで飲み放題。グルメに強い伊勢だけあり食事の美味しさは格別。新鮮な海の幸山の幸もあり食通にはたまりません。ご飯でお腹を満たしおかず少々の江戸の暮らしとは大違い。日本全国からここに来たら、美味しい酒もあって天国でしょう。3泊4日か4泊5日泊まらせて、その間には豪華なお楽しみも。
4 〈 エンターティメント 〉ツアーにはなんと御師による構成、演出の大々神楽をまず拝見。4時間におよぶ湯たて神事も含む迫力ある大々神楽は見る者を引きつけたそうです。当時、神楽は外宮でも内宮でも行っていませんでした。すべて下級神職である御師たちが創作していたのです。なので舞台の演出と同じで「あっちが面白い」「こっちのが素晴らしかった」と旅人たちは自慢しあっていたでしょう。演出の違う数時間に及ぶ神々の物語の演出! 私が最も興味ある演出をすでに御師たちがおこなっていたのです。また観る側も、肩衣(かたぎぬ)や袴(はかま)も貸出して用意して楽しむ。最高のお食事と、エンターティメント。神々の話で信仰を高め、歌わせ、踊らせ、最終日はなんと遊女たちまで。俗界の極みと言えるほどのお楽しみもあったのです。
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5〈 花街から 歌舞伎まで 〉
私が生まれ育ったのは東京は新橋の芸者街。当時東京では一流どころが集まる花柳界でした。そこでのお稽古、訓練は厳しく。子供の頃は数寄屋造りの料亭の二階から、小唄、長唄、三味線があちらこちらから聞こえたものです。なので私にとって花柳界や花街は裏側の辛い面より、そこで芸を身を削って身につけ、最高のものを見せる壮絶な意気込みさえ感じたものです。
そんな私に、古市参宮街道資料館で見た資料は驚きに満ちた感動でもありました。
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外宮と内宮をつなぐ街道沿いの古市には70軒あまりが軒をつらね、なんと遊女が1000以上、中でも大規模遊郭となった備前屋、油屋、杉本屋となると70人以上の遊女をかかえていました、また他に三味線など芸を磨いた女性たちも無数にいて、当時、徳川幕府による締め付けによる厳しい隔離の中、生き残った三大遊郭の江戸の吉原 それに京都の島原は範囲を限られ仕切られた中での営業でしたが、ここ伊勢の古市遊郭は街道沿いにあり、誰でも出入りできる、もっとも自由な環境でショーなどエンターティメントを届けていました。もちろん幕府からは遊郭追放令が何度もあったそうです。しかし伊勢人々はやめませんでした。
また演目の内容も豪華で欄干が上下するなど演出も凝っていたようで、今で言うスペクタルな仕掛けもあったとか。また男性だけでなく、時間によっては女性や家族連れも賑わっていたと言います。
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また古市には歌舞伎小屋も出来て「伊勢音頭恋寝刀」などの名作も誕生。特に若い役者たちにとって関西歌舞伎の登竜門にもなりました。またラクダや象など誰も見たことがない異国の動物を見せ物にするなど、遊郭だけではなく、文化やエンターティメントの発信地にもなったのです。それは、長い旅で伊勢に来た人たちにとって、さぞかし参拝後の活力にもなったことでしょう。
つまり、伊勢は御師たちによって、度重なる徳川幕府の統制の中でも常に反骨精神を発揮して人々に自由を発信続けたのです。
帰りがけ、古市参宮街道資料館の館長さんが「まあ〜 あまり外宮や内宮に近いと、神さまにはばかるし、、、ちょうど良い距離にあったのだったと思います」と遠慮げに語ってくれたのが印象的だ。
古市は外宮と内宮の間、夜は音楽と歌と笑い声が鳴り響く、光り輝く不夜城だったのです。
しかし悲劇が訪れます。それは明治三年の廃藩置県の影響と、西洋に追いつけ追い越せの流れの中の、明治四年の突然の御師制度廃止です。
それにより御師には解散命令が下り、家は破壊され、伊勢の人々が作り上げてきた民衆文化は中断されます。しかしそのDNAはなくなったと私は思いたくありません。なぜなら、日本が独自に作り上げた人間味に溢れる反骨精神であり発明だからです。
伊勢には、人の心を自由にし、喜ばせ、幸せにする人たちが、とても多く住んでいました。それは日本中の人を喜ばせました。
本来の神道が持つ多様性の大らかさ。どの宗教も国も人々も受け入れる姿勢に似ています。
訪ねる者は、女性も、男性も、そうでない人も、金があるかないかや職業に関係なく、ここ伊勢では自分自身になれたのです。
強制や威圧ではない、信仰と人間味がここ伊勢には昔も今も息づいているのです。
この企画「ワーケーション」も、御師のDNAを受け継いだ人たちによるものと考えたい。
コロナ感染症後の世界では、分断と格差が広がり、独裁化が進んでいます。この伊勢には光り輝く天照大御神がおられます。その太陽の光のごとく、ここを訪ねる人々に、それ以外の人々にも、生きることへの幸せと喜びの波紋を広げてほしいものです。
宮本 亞門(Miyamoto Amon) 演出家
https://www.horipro.co.jp/miyamotoamon/
【滞在期間】2022年10月1日〜10月7日
※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)