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無駄の先に

 京橋の公園に寝そべって晴れた空に向かってピースなんかしちゃってる僕ですが、能天気で楽観的、浮き草な性分をいろんな人に散々心配されてきました。

 特に母は、最近は更年期なのでしょう。お小言がいつにも増して多くなり、なにかにつけて僕の将来を心配してきます。愛されてるといえばそれまでですが、世の中には愛のない批判の方が多いわけで、更年期からくるそれは、どちらかといえば後者に属しているように直感しました。

 僕もその典型ですが、言葉を選ぶことに無関心な人は、時に自分の意図とは違った情報を相手に伝えてしまうことがあります。「言語化」がどこかの媒体の流行語大賞になったという記事を読みましたが、本来こんな言葉が流行語になるのもおかしいですよね。なぜ今になって「言語化」なんていう言葉が見直されようとしているのかは分かりませんが、きっと僕みたいな浅慮な人が増えたからなんじゃないかなと邪推してます。

 そうそう、それで僕に特別グサリとささる言葉は「無駄」ってやつです。無駄という言葉の持つ力は凄まじくて、掛算における0みたいなものです。下手すると-1とかかもしれません。たった2音でそれまでの取り組みに価値がないと宣言できてしまう、あまりに強力で極悪な言葉なんです。

「なんでそんな無駄なことしてんの?」
とか
「無駄だと思うよ」
とか

 要領の悪い僕を周囲の人は見てられないのでしょう。手探りに生きていこうとすると無駄という評価に出会います。


 仕事が終わって執筆を再開する頃にはすっかり空は暗くなっていました。書き残していたこの記事に書くはずだったあれこれは、仕事をしていたらすっかり忘れてしまいました。

 そういえば、僕の友人には高卒で仕事をしてる人が数人いるのですが、そのうちの1人とこの前飲んだ時、彼はしきりに「俺も大学に行きたかったなぁ」と言っていました。「大学も大学で面倒なところはあるよ」と、適当にいなして他の話題にさりげなく行こうとしましたが、彼は話したがりました。

「その面倒ってのも俺にはわかんないからさ。ただ20代にはもっと自由で、それこそ暇な時間が必要だと思うんだよな」

 彼の言葉は芯をついていると、思いました。僕があーだこーだ言って大学をこき下ろすことが彼を救うことにならないというのもそうですが、それよりも20代に暇な時間が必要という部分に同意したかったのです。

 僕は大学では相当に有名な飲みサーに入ってました。サークルの癖に定員があって、毎年だいたい3-4倍くらいの抽選があります。抽選とは名ばかりで、本当は顔で選んでるんじゃないかという黒い噂がありましたが、少なくとも僕が後輩を選んだ時は、顔面は普通に評価項目のうちのひとつでした。抽選なんてしてないです。グロいですね。

 僕はそのサークルが炎上気質の飲みサーだってこと、なーんにも知らないでたまたま受けて入ってしまったので、友人に報告したら「えぇ」というような反応が返ってきたことをよく覚えています。なんだかわるいことをしてる気分でした。

 それで就活が始まると、周囲の人間は留学経験とか長期インターンとか部活動とか、煌めくガクチカを用意しているわけです。で、翻って僕はサークルに行っては飲んだり飲まなかったりしてただけなので、全くガクチカになりませんでした。一応、僕は学生団体を起こして運営もしていたのでそれでガクチカ自体は間に合っていました。だから適当だったのもあるかもしれません。ただ、それにしてもあのサークルの話はすればするだけマイナス評価でしかないので一度もしませんでした。

 あるとき友人と就活の話になって、なんの弾みか飲みサーの話をしたことがあります。その時彼は「えなにそれ行ってた意味ないじゃん。無駄じゃん」(意訳)というような、かなり強烈なことを言いました。いや、彼は正しいんです。学生の本分は勉強ですし、サークルだってガクチカになるかもしれないっていう打算がみなさん多少はあると思うので。でもそれを他者から指摘された時、はじめて釈然としない気持ちが自分の中にあることに気がつきました。たしかに生産性がなくて、一見意味もなくて、ある人から見れば無駄にしか見えなかった僕の思い出こそ、僕にとってはこの学生生活の根幹だったのではないかという予感です。飲みサーが、ってことじゃないです。そういう時間の使い方や選択の仕方が僕を今1人の人間として立たせているのではないかということです。

 高卒で働いていた友人は言いました。
「学費が無駄だから大学へはいかない」
僕はこの理由をずっと納得して受け入れていたし、仮に僕の家が今よりもずっと貧しかったり、僕があまりに勉強ができない人間だったなら大学には行ってないと思います。みんなが当たり前と思うほど昔僕の中では大学に進学することは当たり前でもなんでもありませんでした。

でも今になって思うのは、無駄だからやめるってのは辻褄が合わないんじゃないかということです。つまり僕は、そういう無駄の仕方にこそ本当の価値があるかもしれないと、なんとなく閃いてしまったのです。(最初言語化という言葉についてきつく当たった割に、僕もワードチョイスがどんどん抽象的で反復したものになってきていて、言語化下手くそだ、変な汗をかいています。)

 開き直って仕舞えば、僕自身が無駄無駄と言われてきたその一挙手一投足の結果なんだから、無駄って一体なんだったんだということです。モラトリアム、時間をいたずらに消費して、ただ息を吸って吐いて瞬きをするだけの時間があるとして、そこに生産性がないとして、何がいけないんでしょうか。無駄の先に、僕は歩いているのです。


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