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赦し-映画「きみの色」を観て

 映画「きみの色」を観てきた。今期は「ルックバック」といい「悪は存在しない」といい、なかなか傑作揃いだが、「きみの色」もそこに連なる面白い映画だった。

 何か形式的なレビューを書くつもりはない。ただ散文的に感じたままの雑感を書いていこうと思う。多少のネタバレを含むので未視聴の方はぜひ映画館に足を運んでから当記事に戻ってきてほしい。


青春劇と捉えるか、宗教として捉えるか

 以前、原始キリスト教とカッパドキアについての原稿を執筆したことがある。その結びで告白した通り、私は一応洗礼を受けたプロテスタントだ。

 ただし、右も左も分からない子どもの時分の出来事ゆえ、あまり私事のように捉えることができていない。それに両親も敬虔な信者と呼べるような人ではない。休日に教会に行っていた時期もあったが、今やめっきり減ってしまった。

 ただし、キリスト教は異端派閥でもない限り、教会に来るも来ないも基本は自由である。それ故に、教会へ通うかどうかといった点のみで破門されることも糾弾されることもないだろう。現に祖父はクリスチャンであり、葬式は献花ベースのいわゆるキリスト教葬儀だったけれど、神父さんによる言葉の中に「彼は教会に足繁く通っていたわけではないけれど、主への信仰を怠ったわけではありませんでした」というようなものがあったことを記憶している。教会に行くだけが信仰の形ではないのだ。まぁ、祖父の場合は三姉妹をプロテスタント系の学校に入学させているので、真に信仰を手放したわけでは決してなかったと思うけれど、それにしても、教会にその身を捧げるような敬虔さを必ずしも教徒が持ち合わせているわけではない。

 さて、言い訳がましく書いてきたけれど、私はやはり熱心な信者ではない。主を尊ぶ心を、十全に持ち合わせて生まれてきたわけではないのだ。人生でキリスト教と接点を持つ機会も、正直葬式くらいしかなくて、ミッション系の学校に通っていたわけでもないので讃美歌を何曲か歌える方が奇跡みたいなものだ。聖書に関してもちゃんと読み切ったことはなくて、むしろコーランを読破しているようなメチャクチャな状態である。ダヴィンチ・コードが好きで、上映禁止措置が行われた地域に同情している。であるからプロテスタントと名乗ったものの、私の実態はミケランジェロのピエタが好きなだけの大学生だ。

 そんな私がこの映画を見て感じたことは、これは「青春アニメ」なのか「キリスト教アニメ」なのか、一体どちらで消化するべきなのだろうという、受容の仕方に対する問いである。先述の通り、私はほとんど関係ないとはいえキリスト教的な背景を持ちここまで育ってきたのだから、この作品を見て宗教を感じないというのは絶対的に不可能である。

 最終盤、主人公のトツ子が学校の中庭でジゼルに合わせてバレエを踊り、自らの色が「赤」であることを認識する瞬間がある。作永きみが「青」、影平ルイが「緑」であることから、これはまさに光の三原色である。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

ヨハネによる福音書 1:1-5

 光とは神のことであり、しろねこ堂は三元色の合わさるところ、光の道をゆくバンドである。彼らは悩みを抱えていた。学校を辞めたことを大事に育ててくれた祖母に言えないでいたり、本当は音楽がしたいことを隠して生きてきたり。しかし、そんな彼らの悩みはしろねこ堂の活動と告解を通じて解決をみる。バンド活動を通して義を生きることを成し遂げた3人を祝福しているのは、他でもない神に見えた。人は神のように正しく善い、純粋な義を持ち合わせて生まれてきていないけれど、3人の前進の答えとして「赤」が提示された時、私は鳥肌が止まらなかった。

 あのシーンに比重が置かれていると映画を解釈するならば、私はキリスト教アニメとしてこれを理解したと肯定するようなものである。そして実際、作中の他のどのシーンよりもトツ子がバレエをするあのシーンが僕の中ではアイコニックだった。皆さんはどうだろうか。


トツ子の役割

 トツ子やきみが通っていた虹光女子高等学校はミッション系の学校だ。シスターと呼ばれる講師陣に荘厳な礼拝堂。学校のモデルになっている神戸女学院は学院という名が示す通りプロテスタント系であるが、先生の格好が女性執事というよりは普通の修道女の格好をしていたのでおそらくカトリック系の学校なんだろうと思う。作中歌もカリタス女子学校が協力していたし、まぁ厳密にどこの宗派なのかというのはあんまり大事なことじゃないので一旦置いておこう。

 その中で、トツ子以外の女子学生は信仰に対して熱心な様子ではない。寮のルームメイト3人組なんて、シスターの声真似を録音して遊んでいるのだから、たまたまミッション系の学校に通っている、年相応の女の子でしかないのだ。

 現実にミッション系の学校に通っていた人で、ガッツリ信仰している人っていうのもそう見ない。女子学院や立教女学院、青山学院などに通っていた友人が何人かいるけれど、みんな中高を卒業して以来めっきり礼拝などしていない。聖餐式なんてもってのほかである。学校がキリスト教的思想によって運営されていれば、生徒が皆信者になるわけではもちろんなくて、むしろそれを強要することもないのだから、生涯にわたる信仰にはなかなか結びつかない。それは当然の成り行きである。

 しかしトツ子だけは違う。彼女は毎日礼拝堂へ訪れ、祈りの言葉を捧げている。バンドの練習場所である教会に入ると、律儀に十字を切っている。さまざまな朝食が並べられている中で、パンと牛乳とりんごという質素な食材を選び、それを食している。その様子はシスターにも一目を置かれるほどだ。けれど、彼女の信仰心がどのように築き上げられたものなのか作中には一切の描写が存在しない。神を信ずる理由という、ある意味では最も世俗的な部分が彼女から切り離されている。奇跡を見たとか、親が信者だったからとか、一言言ってもらえれば彼女の信仰心を理性で捉えることができるのに、そういう部分は一切見えない。だから彼女の敬虔さが、私には無垢から来るもののように見えてならない。

 信仰するから純真無垢でいられるのではなく、純真無垢であるから信仰を受け入れている。そういう風に見えるのだ。純真無垢などありえないけれど、そう描写されている。故の超俗的な彼女の語りは、主人公に共感しながら物語を見ていくという手法を禁じていたように思えた。私は全ての発言に共感できず、全ての行動を見守ることしかできなかった。我々一般人には映画を引きで観させ「青春劇」として楽しませ、彼女に共感できるような敬虔な者には「祝福」としてみせる構造があった。彼女は二面性のある舞台装置として機能していたように思えた。


ニーバーの祈り


God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed, and the Wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ニーバーの祈り

 作中で印象的だった言葉は、やはりニーバーの祈りだろう。この言葉の「変えることができないもの」が何を指していて、「変えるべきもの」が何を指していたのかは色々考える余地がありそうだけれど、私はトツ子の共感覚が「変えることができないもの」であると素直に解釈した。彼女は共感覚(正確にはラベリングできない言外の感覚らしいけれど、本稿では共感覚として捉えます)のために、気の抜けた行動をしたり、他人に理解してもらえないことを自覚して苦悩している節がある。

 私も少しだけ、体験として共感覚を理解できる。ひらがなを中心とした文字を見たときに、私はそれぞれの文字に別々の味があるように感じるのだけれど、これはあまり一般的ではないらしい。丸みを帯びている文字の方が甘くて、カクカクしているものの方がしょっぱい傾向がある。他にも「を」なんかは電池を舐めたような苦みを感じる。幸いなことに生きづらいほどの何かではなかったし、あえて人にそのことを伝えたこともない。ちょっとした個性として受け入れていた。だから前情報を仕入れずに映画館に向かって、物語の初めに主人公の共感覚の説明があったときには驚いた。

 この映画は登場人物それぞれが抱える悩みが「ほんの些細なもの」に見えてしまうことが、非常にリアリスティックで残酷な点だと思う。色が見えたら「楽しそうじゃん」くらいに思う人もいるだろうけれど、周囲と違う自分の理解されない孤独はそんなに生やさしいものじゃないだろう。私とて、そこに生まれる排除に怯えて言っていなかっただけかもしれない。

 だから、「変えることができないもの」を他者に告白し受け入れて、自分の色を見つけたトツ子は真に静穏を手に入れたといえるだろう。その文脈では彼女が羨ましいと思った。私たちの多くも形は違えど「変えることのできないもの」があって、そこにコンプレックスを抱えているだろう。それを受け入れ前進していく"希望"を象徴する「ニーバーの祈り」に何かを感じない人なんていないだろう。

 全員の告解が勇気を象徴していたとすれば、賢さは何を示していたのだろうか。別れの船のシーンが、もしかすると「変えることができないもの(変えたくないもの)」と「変えるべきもの」を併せ持ったシーンだったのかもしれないと想像する。「また会えるでしょ」という考えから「頑張れ」と何度も叫ぶだけだったきみの行動には、バンドへの依存というものが一切ない。卒業後、それぞれの場所に咲いていく彼らの生活=変えるべきものを受け入れながら、3人の関係性も守るという選択肢をとっているように見えた。

 山田尚子氏は「好きなものを好きといえる強さ」を描きたいとおっしゃっていたけれど、その原動力がニーバーの言葉に秘められているように感じる。そしてこの言葉には全てを赦す包容力があるように感じるのだ。


おわりに

 いい映画でした。勝手な解釈に詭弁を重ねてしまいましたけれど、こうして何か書いていないと気持ちが落ち着かないくらい、いい作品でした。(常体から敬体になってしまっている・・)
 ぜひみなさんも劇場で観て、感想を書いてください。きっと読みにいきますから。

高等遊民

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