就活は恋愛とかいう戯言
最初に「就活は恋愛」という格言もどきを作った人を殴り飛ばしたい。僕にとって、10代の恋愛はフィーリングの上に曖昧に成立してたもので、就活とは全く違った。朧げで時に美しく、もどかしくて時に儚いものだった。
「選ばれるように努力する」というのを地でいく純愛を僕以外のみんなは知っているのかな。というかこの言葉にこんなに突っかかっている人を見たことがないから、僕が拗らせている側だという自覚はあるけど、そこは目を瞑るね。
AIさんが我々の仕事を奪うんじゃなかったんでしたっけ。「10年後には消える仕事」みたいな雑誌が流行っていた時期に、父が顎をかきながら「お父さんも働けなくなっちゃうかもしれないな」と苦笑いしていた記憶。おめでとう、全部杞憂だったよ。
いち早く消えそうなのがプログラマーとかいう皮肉。gpt4の方が下手な理系院卒よりコード書けるだろって驚いた冬が懐かしい。今日よりずっと涼しく乾いていて、お味噌汁が美味しかった。Atcoder、頑張って緑まで育てたのに、今となっては何の意味もなくなっちゃったな。金曜の夜は飲み会か惰眠を貪る時間に変わっていった。
みんな一回冷静に考えてほしい、本当に労働したいか?僕はもうそれは絶対に働きたくないよ。働かなくて済むならね。そういう社会を実現するには既存の仕事を本格的に自動化していく必要がある。生産から販売まで、分業の合間に人力で行われている引き継ぎをそのままの形で自動化するためには、人型のロボットが必要かもしれないね。企業は東工大の研究室に多額の支援をして下さい。
そうして僕らが食うに困らなくなったらどうなるんだろうね。universe25みたいに、同性愛者ばかりになって共喰いの果てに朽ちてしまうのかな。
国民全員が仕事をしなくても生活することができるユートピアを想像してみる。既存のインフラはそのまま利活用するだろうから、日本の東京一極集中は変わらないだろう。賃金が発生する労働というものが極端に減った時、しかし利便性という文脈で地価が存在してしまうとすれば、どこに誰が住むかをどうやって決めていくのかな。つまり有限の資源をどういうルールで分配していくのか。
音楽美術などの芸術や、研究、スポーツなどの世界に私たちは競争場所を変えて、また暮らしを争い合ってしまうのだろう。見栄っ張りで人よりいい暮らしをしていないと堪らないという人はごまんといるので、きっと都心から才能のグラデーションみたいな分布になるんだろうな。
結局僕らは何かしていないと生きてなんていけないんだ。ニートは才能っていうけど、きっとそうなんだろうな。僕はタバコとコーヒーとkindleが許されるのであれば、一生孤独に田舎のコテージに引きこもっていられる自信があるよ。誰とも争わず、ただ時間を消費していくだけの生活に満足していられると思う。でも世の中が比較とか価値とかいう毒牙に冒されている限りは、みんなで仲良く漠然と生きていくなんてことは不可能なのだろう。現状食うに困って餓死にしかけている人がごく少数である日本において、実は労働が消えることのほうがリスクなのかもしれないと愚考する。考える時間がないくらい人々を疲弊させたほうが、結果的に平和なのかもしれない。
さて、屁理屈をこねても僕が社会に出ていかねばならぬ現実は変えられない。だから就活という茶番に興じてみたわけだが、無論これっぽっちも美しくなんてなかった。
インターン。野郎はみんなワックスで前髪を固めてきていて、女性はみんな髪を結んでナチュラルメイクをしている。無精髭を蓄え、普段使いのヨレヨレのスーツを着ている僕がマイノリティだった。前のスクリーンで会社のPR映像が映し出される。2分くらいの退屈な映像を観せられたあと、何が起きたと思う?拍手だ。意味がわからない。僕は呆れて口元を隠すこともせず欠伸をした。
黒服で背筋を伸ばした瑞々しい若者が、シリアスなPRを黙って観て、はち切れんばかりの拍手をする。「社会は終わってんだ」と確信したよね。就活は学生が会社を選ぶ(笑)?ならこれは一体なんなんだよ。当たり前のようにへつらう僕らはどう見ても「選んでもらう側」だろうが。「就活は恋愛」とか調子のいいことを言って「双方向性のマッチング」にすり替えようとするのはよしてくれよ。恋愛の盲目的で信仰的な面を切り取った皮肉にしか聞こえない。そして僕の中の恋愛はそれだけではない。
僕は本当にポジショントークが嫌いなんだ。自分の身に災いが降り注がない位置から、有る事無い事面白おかしく言って悦に浸っている連中を心の底から軽蔑している。「そりゃ、あんたはそうでしょうね」「結果論」「はいはい、おもしろいですね」
僕ってやっぱ拗らせてんだな。
わかってるの。「就活は恋愛」という言葉も、もちろん「就活=恋愛」という意味ではなくて、マッチング行為としての直喩であるということは。では何でこんなに噛み付いているのか、それはこの言葉を使う人が、僕がもっとも軽蔑する人種だから。就活を面白おかしく例えることで、シリアスな僕らに余裕を見せつけてくるキモい輩が大嫌いだから、この言葉が嫌なんだと思う。
僕が人事的業務を行う日が仮に来るとして、この気持ちだけは絶対に忘れないようにしたい。僕は構造を利用して人を上から眺めて気持ちよくなれるほど、素直で単純な感情を持ち合わせていないし、偽悪的な根性もこんな場所では発露されることはないだろうけど。
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