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理系大学の女子枠ー差異の政治ー

 すこし前の事だけれど国立大学の女子枠新設をめぐって、世論はずいぶん盛り上がっていた気がする。大学受験をしたことがなく、入試の中身なんて微塵の関心もない僕の耳にさえ届いたのだから、きっと賛否あったのだろう。

 yahooニュースなんかで軽く調べてみると、タイトルには「反対の声根強い」とある。なるほど炎上したのか。確かに直感的には入学試験は学力という物差しで平等に執り行われているので、女子枠なんて設けなくとも良いように感じる。それどころか既存の一般入学者枠が減るのであれば、男性にとっては不利でしかないので批判の嵐が沸き起こるのも当然か。

 本稿ではこのムーブメントについて僕の雑感を軽く書いてみることにする。とりとめのない文章で校正するつもりもないので、あんまり真剣に読まないでほしい。先に結論を言っておくと、僕は女子枠に肯定的な立場だ。

リケジョと多様性


 大学は女子枠を設けることで理系学部における極端な男女比率を改善しようとしている。ここで思うのは、そもそもリケジョって必要なのだろうかという疑問だ。尖った言い方をしたけれど、つまり学問内・機関内でジェンダーの多様性が実現されていることでなんらかしらのメリットがあるのかということである。例えばジェンダー論は、扱うテーマ的にも学問をする人間のジェンダーデモグラフィックが幅広いほど議論が活発化しそうだし、可能なら万人が一度学習すべきなテーマであると思うから、必要っていえそうだ。うまく言葉にできないけれど、特定の学問においては多様性の実現が学問の発展そのものに直結する可能性ってあると思う。でも、例えば数学研究においてジェンダーの多様性って一体何に寄与するのだろうか。数学は男性しか許されていない学問というわけではないけれど(もしかすると学会が男性ばかりで女性の肩身が狭いみたいなことはあるかもしれないが、わからないので保留)女性数学者というのはかなり少ない印象だ。それはもちろん学部レベルでも顕著に表れていて、僕の周りには1人も数学科の女性がいない。でもそれって、結局は大半の女性に自由な意思決定をさせると「数学を学びたい」ってなっていないということで、かつ数学の発展に必ずしも性の多様性が必要なわけでもなさそうなので、何の問題もないと思ってしまう。(=問題です)
 こういうロジックが罷り通っているからおそらく女子枠批判というのが盛り上がっているのだと推測する。

普遍性と公平

 入学試験は点数で一律公平に審査している、つまり門戸は平等に万人に開かれている。これは正しい。でもそういう普遍性に依存したディシジョンメイキングというのは同化問題を常に内包しているのではないかと思う。

 例えば黒人や白人のような人種で人を差別せず、誰でも入学することができる学校があるとする。全員に対してチャンスは平等にある。いわゆる普遍化の下の運営だ。こういう考え方自体は素晴らしい。出自や人種という変えられない要素よって自由が制限される状態は健全じゃないと、誰でも思うことだろう。

 しかし、いざ学校に入学しようとすると「授業は全部英語です」と言われる。移民で少数部族の言葉が母語の少年にしてみれば、知らない言葉で読み書きをし、友人を作っていかなくてはならないわけで、一見公平な入学システムだとしても個々人間ではハードルに天と地ほどの差が生まれる場合がある。でも仕方ないよね、だって学校に一人しか話者のいない言葉を他のみんなに強要するわけにはいかないのだから。結果的に、少年は公平な教育を受けた結果、同化を要求される。

 これは極端すぎる例だけど、上の例が示しているのは、制度そのものが公平だったとしても、その公平が必ずしもある集団にとっても公平かどうかはわからないという話である。それでリケジョの話に戻るわけだ。

 女性の理系進学率は男性よりも有意に低い。でも進路を選ぶのは自分自身だという「公平」な建前があるので、それはあまり問題視されていない。しかし女性が理系を選択するまでのプロセスは男性の、テキトーな言い方をすれば「気楽な選択」とはもしかすると全然違うのかもしれない。

 女は家事、良妻賢母を目指す的な価値観は都市部では徐々に見えなくなってきてはいるものの、例えば女性の方で両親から「文系にしておきなよ」「大学に行かなくてもいい」というようなことを言われたことがある人、存外多いのではないだろうか。それに周りの女性がこぞって文系を選ぶものだから、それで当たり前のように文系を選んだ女性や、高校の理系クラスが男ばかりなのが嫌で理系を回避した人もまぁまぁいるのではないか。僕の超偏見をいうと、理系を選ぶ女性は我が強いか、独りが好きな人が多い気がする。つまり周りに流されない強さを持っている人が多い、そういう偏見がある。

 ここから先も全部タラレバだけど、仮に自我の弱い女性は文理選択をする際に理系を選択しづらい可能性があるとして、男は自我の強い女性がそんなに好きじゃなかったりで、女性は本当の自我を隠しやすくなる構造があったとすれば、理系を選択するまでのプロセスで要求されるものが女性の方が多い可能性がある。それに、男ばかりの閉鎖的な理系学部社会での適応を要求されることもあるだろう。入試さえ公平ならハードルって本当に一緒ですか?と聞かれれば、やはり「そう」とは言い切れない。

 ここで学問的にも「リケジョ」って別にいらなくねというような反論があったとしたら、まずそれ自体が選択の公平性を欠くムードを醸成していることをまず自覚してもらって、それに加えて今僕はあくまで選択までのプロセス上に起こりうる性別による差異を勘定に入れないことに対して意義を唱えているのだから、的外れな指摘であるということを念押ししておきたい。

差異の政治

 チャールズテイラーはこういう普遍化の政治的な問題に対して、承認の政治、つまり多文化主義的な手法を導入することで解決を目指した。

 その最たる例が「特別代表枠」というものである。そういう差異があるならば、つまりスタートラインが違うことがわかっているならば、その差異を勘定に入れないと真に公平とは言えないだろう、いうことである。

 で、話を戻すと女子枠はまさにそれだ。カナダの連邦システムが少数民族の自治と特別代表を認めるように、理系大学もその差異を認知して二元的体系によって公平を実現しようとしているのである。だから僕は女子枠の話を聞いた時、正直結構納得していた。数値的な根拠はないけれど、直感的には差異がありそうだと思っていたから(めちゃふわふわ)

結論

 今回の炎上は結果として女性が理系を選択しにくい環境であることそれ自体を、男性による不満爆発の批判によって逆説的に証明してしまったような気がする。絶対居心地悪いだろ、さらに受験したくなくなるわ!って感じ。だから批判が大きくなれば大きくなるほど、その正当性はましているように感じる。一元的な物差し、つまり入試で公平を実現するのではなく、二元的なものの見方って必要なんじゃないかと思うのでした。

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