(8) 愛してやまない飲料
「はい、いつものね」
僕の高校生活の目標はただひとつ。"言わずとも料理が出てくるまで親密度を育んだ行きつけの店を作ること"だった。そして、初期構想のような大衆食堂は見つからなかったものの、僕は高校の一階にある購買で死ぬほど雪印コーヒーを買い続けることで、とうとうそれを達成した。購買で働くメンバー全員に顔と名前を認知され、目が合うなりコーヒーが出てくるようになった。最初の頃は意図的に通っていたこともあり、それは非日常的な気分のする行為だったが、最後にはハレではなくケの行為として、特別の意識も必要としなくなった。ともかく、僕の高校生活はあの購買とコーヒーに支えられていたと言っても過言ではない。
購買のお姉さんたちとのやりとりの中に印象的なものが2つある。ひとつはコーヒーが値上がってしまった事件だ。元々110円だったコーヒーは、僕が卒業する頃には130円くらいまで高騰していた。僕は週6授業の私立高校に通っていたので、1日1本購入していたとして年間25200円分、105Lのコーヒを飲んでいた。実際には1日に朝と昼で購入することが多かったのでもう少し購入していたかもしれない。
さて値上げの話だが、110円台の頃と卒業頃の価格を比較した時、単純計算で年間4200円も余計に支払いをしていることになる。今となっては大した金額ではないが、部活でバイトをしている余裕のなかった僕は小遣いも限られており、この差額は手痛かった。そこで購買のお姉さんがしてくれたことは2つある。1つは先物取引である。これは値段が変わる前の価格でまとめ買いをできるという制度である。学校の購買で先物取引をした人って、僕の他にいるのだろうか?お言葉に甘えて10本以上を買いだめさせてもらった記憶がある。これでダメージを減らした。もちろん代金を先払いしているということは、購買でコーヒーを取るとお金を払わずに去っていくことになるので、周囲からは「え?それ、どういうこと?笑笑」と聞かれた。先物取引の話をすると「すげーな」と感心されたり「たくさん買ってるもんな」と納得されたりもした。僕がコーヒーばっかり飲んでいるのは割と周知の事実だったので、理由を話すと存外すんなり飲み込んでくれたのである。
もう1つのサービスは予約である。僕がコーヒーばっかり飲むせいか、僕の周囲にもコーヒーを頼む人が何人か出現した結果、時たまではあるが在庫切れが起こるようになった。そこで必ず毎日1本以上は僕が買えるように、名前つきの付箋を貼って在庫が切れないように取り分けてくれたのである。だから、金も払わず持って帰るコーヒーには僕の名前が書いてあるなどして、それも「どういうこと?」と聞かれるのであった。こういうことである。
購買の記憶でもう一つ、これはコーヒーはあまり関係ないが、僕が怪我をしてしまった時のエピソードがある。高校2年生の夏、県大会直前の体育の授業で足元の転がってきたバスケットボールを運悪く踏んでしまい、足首を捻挫してしまった。優勝を目指していたし、コンディションやタイムからすると十分県大優勝は射程圏内だったので、困惑した。でも痛みさえ引けば走れると信じて、なんとか松葉杖を外して走ろうと上体のトレーニングなどをするのであった。僕は購買のお姉さんとコミュニケーションもぼちぼちしていたから、僕が部活で優勝を目指している話も小耳に挟んでいたらしく、僕が大会の2週間前に松葉杖なんてついてカウンターに来たものだから、気が動転してしまった。心配してくれていた。仕舞にはお姉さんが泣き出してしまい、正直、僕はそれを見てはじめて「あぁ怪我をしたんだ」と理解した。あんなに同情されたのは人生ではじめてだったので、今度は僕が動揺してしまい、コーヒー以外の意味のわからない飲み物を注文した気がする。
結局、僕はあのお姉さんの泣き顔が脳裏から離れず、本番は鎮痛薬を飲んで足をテーピングでがっちり固定して走ることにした。痛かったし、2週間全く練習ができていない状況だったからいい結果が出るわけもなかったけれど、根性で入賞まで漕ぎ着けた。しかし、優勝も関東も逃して散々だった。次の日にはすぐに購買へ行き「なんとか入賞しました」とお姉さんに言った。お姉さんは喜んでくれた。僕はその様子を見て、痛みを我慢したことが報われたと思った。コーヒーを頼んだ。
そういえば僕は就活で雪印のインターンに応募したことがある。おそらく人生で1t(トン)以上を飲んでいる僕が出さなくて、誰が出すんだと息を荒くして応募した。ESの設問にはつつがなく回答してwebテストも問題なかったと思うのだけれど、最後の備考欄に「生涯で1t以上飲んでいるくらい雪印コーヒーが好きです」と書いてしまい異常性がバレて落ちた。もしこれを読んでいる雪印の社員の方がいたら、戦コン内定者(笑)を雪印は拾い損ねたということをぜひ後悔していただきたい。僕は雪印さんが「内定」とさえ言ってくれれば今にでも雪印に全てを捧げる覚悟があったというのに。まったく、面接のひとつもなく落とされたのなんて雪印とJPモルガンくらいである。
引用元
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