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ことばをかけて


滑落

 長野の最北端、黒姫の山道は険しい。この辺は連山地帯で西の方へすこし行けば乙見湖や国立公園もある。(ここでいう"すこし"というのは長野の車社会を生きる猛者達の感覚上の"すこし"であって、関東平野に住む僕にとっては微塵もすこしではなかったが)

 信濃町は人口わずか7000人ほどの自治体で、しかしその面積は約140㎢と広大である。山手線の内側が約60㎢であることを踏まえるとその広さもわかるだろうか。もっとも長野県は見渡す限り山ばかりで人が住めるような場所も限られるので、この面積が数字ほどの意味を持つとも考えらないが、とにかく自転車で移動する僕らにとっては洒落にならない広さであった。

 道路には頻繁にヒビがあり、ところどころ穴が空いていて、さらに時々ハクビシンなのかタヌキなのかの亡骸が転がっている。凄まじい高齢化によって町内の財源が限られており、補装する余裕もないのだろう。国庫支出金、頑張れ。交通量は多くはないが稀に対向車線からどうみても法定速度をちぎって走る元気な軽トラが現れる。蛇行する道を調子に乗って外に膨れながら行くと轢かれかねないので、僕らはずいぶん慎重にペダルを漕いでいた。

「滑落したらお前も巻き込むわ」

 友人から物騒なセリフが投げかけられる。眩しい人といい、僕の周りの人間には本当に碌な奴がいない。そこが愛おしいのだけれども。

 僕はペダルを漕ぎながら考えていた。カツラク、滑り落ちるで滑落か。確かに「滑る」に「走る」で滑走(カッソウ)と読むし、そういう言葉もあった気がする。でも口に出したことはなかった。こういう時僕は普段2つの感情に支配される。1つは情けない気分だ。僕はお世辞にも語彙が豊富な方ではない。それなりに読書をして映画も観てきたつもりだけれど、圧倒的に言葉を知らない自覚がある。執筆していても大体5000文字ぐらいに差し掛かったところで表現が重複し始めてしまうのだ。そして2つめは素直な尊敬である。友人はーこんな事を言うと差別主義者みたいで嫌なんだけれどー高卒で家業を継ぎ、そのことが生まれた時から決まっていたから座学を真面目にしてこなかった人間なのだ。しかし僕が人生の中で一度も発したことのない単語を平気で口にする。そこに彼への尊敬とすこしの自己嫌悪が漏れ出てしまうのである。

 似たような体験を小さい頃にも何度かしたことがある。僕は父に手加減されずに育ってきた。普通、大の大人は子どもとの会話の中で幼子にもわかるようにワードチョイスに手心を加えるのだが、父はそういう換言を嫌って一切しない人だった。3歳児に対して「遜色ない」とか平気で言うタイプの人間だった。それで案の定、僕は父が何を言っているのかよくわかっていなかった。でも頷く母を見て、マイノリティは僕なんだと、僕が"足りていない"のだと自覚して自己嫌悪に陥ることがあった。

 言葉に無知である。僕は言葉を知らない。知っていても使えない。こういうのを"忸怩たる思い"っていうのかな。浅学非才な自分を受け入れて、それでいて姑息にやっていくしかないんだという諦観が僕を支配する。Badに入って草。学がなくて草。



コテージ

 ヒィヒィいいながら自転車を立ち漕ぎしてようやく目的地に着いた僕らは、ログハウスを見て興奮するでも落胆するでもなく、自分の身体だけが大事と言わんばかりに思考を休息に集中させて泥のようにソファーに頭から倒れ込んだ。両膝を床につき、川の字でノビている僕らを引きで撮ったら一生笑える傑作の思い出になっただろう。いつからこんなに体力がなくなったのだろうか。ハイライトを吸うのをやめて軽めのキャメルに乗り換えようかと本気で考えた。

 そうして15分くらいの硬直を終えた僕らはバラバラに立ち上がって室内の散策を始めた。一階には簡単なキッチンとユニットバス。Netflixが見れるテレビとさっきまでくたばっていたソファ。よく見ると床に敷かれた絨毯はペルシャ絨毯か。いや、そんなに高価なものなわけがないから偽物、レプリカだろうけれど、しかしよく仕立て上げられているように見えた。真紅と木材の色がマッチしていて、山すぎる長野の牧歌的な雰囲気とよく馴染んでいた。取り外しのきく階段を登り二階へ行くと敷布団が3つ、やはり川の字で並んでいた。いや、三角形で布団が並んでいることなんてまずないのだから「川の字」だなんて形容は冗長だったかもしれない。
「やにいこ」
先程、僕を巻き込んで滑落することを宣言した友人がこちらを向いている。断る理由もないので僕らはデックへ向かい、東京よりも美味しい気のする空気で一服した。
「温泉行く?」
「え、あんの?」
「自転車で30分のところにあるらしい」
「殺す気か」
そうして各々が軽くシャワーを浴びた後、持ってきた七輪の準備へ向かった。


 友人の一人が調子に乗って買ってきた鮎は、全く処理されていないもので、野郎三人でyoutubeを参考に腑をほじくり出すことになった。世に言う3Kのキツい・汚い・怖い(臭い)を濃縮したような作業に辟易したが、鮎は新鮮だとスイカの匂いがするみたいで、ただ自分の掌に柔らかい物体がのっていて、それが死んでいて、そして内臓を取り出さなければいけないという過酷なミッションがある以外には、想像よりははるかに簡単な仕事だった。空洞になった内側に塩を塗り込んだ時ほど気分が悪かったことも中々ないが。

 コテージの主人が用意してくれた薪をBBQ用の台の中に並べてその下に牛乳パックのちぎったものや市販の発火剤を適当に敷き詰めてzippoで着火する。薪に火が移り安定するまでには最低でも10分くらいは必要らしく、僕は煙草を吸いながら火守としてつくねんとしていた。

 薪が良い感じになるとトングを使ってそれを七輪の中に入れる。ちょっと燃えすぎなくらいだったが、空腹な僕らにとってはさっさと焼けたほうが都合がいいし、グランピング上級者からは文句を言われそうな適当加減だったけれど上に網を置いて準備を完了した。鮎は七輪でやるには大きすぎて、かといって焼き魚のイメージ通りに串を地面に刺してどうにかなるようでもなかったので諦めて備えつきのBBQ網と薪を利用して普通に焼くことにし、七輪では相撲部屋に献上するのかと勘違いされそうなほど買ってきた牛タン3本を適当に切ってファイアーしていった。信州という名前のウイスキーをメインにビールをチェイサーにして飲みながらひたすら牛の舌にかぶりついた。


会いたい人

 程よく酔ってくると僕らは往々にして恋愛話に突入する。僕としては歓迎されるテーマではないけれど、奴らが話したがってるし、こちらに振られるまでは楽しく聞いてられるからよしとしよう。

 いわく、高卒自営業の滑落男によれば(こんなに素晴らしいあだ名を思いついたのは何年ぶりだろう)、彼は最近マッチングアプリで連敗中らしい。僕はルッキズムが反吐が出るほど嫌いだが、しかし彼の容姿はそれほど優れていないというのは僕らの中ではコンセンサスが取れているから平気で話は進んでいく。
「それでさー最近はあんまり会えないどころかマッチングもしないし、会っても一回きりってことが多くて」
半ばグチである。しかし大学生の僕と違って出会いの場も限られている彼にとってマッチングアプリは一縷の希望なのだ。真剣度合いが異なる。そして彼の周辺の、いわゆる同業者の同年齢の人々はもう続々と結婚し始めているらしい。それに少なくない焦燥感を抱いた彼はこの頃マチアプに精力的に取り組んでいるそうだ。

 笑いながら聞いていたいところだが、残念なことにこれは僕にもそれなりに耳の痛い話である。僕は大学生だから、世間的に言えば出会い自体が乏しい属性ではないはずだ。しかし大学3年生から就職活動に感けていて(いや、専念したというほうが正確か)サークルへの顔出しをしなくなったから、正直、出会いなんてものは存在していない。無論、最高学年にもなればジョインできるコミュニティも限られてくるわけで、ここから大学一本で出会いを探すのは現実的に不可能だ。僕はマッチングアプリを冷笑していられる立場ではないのである。

 ほろ酔いの僕はその内心を隠すこともなく暴露する方面で会話を展開した。滑落野郎から向けられる哀れみの眼差しを受けて、僕はトングを彼の頭にフルスイングでぶつけてやろうかと思ったが、同じ穴の狢どうしはせめて仲良くやろうと諦めた。奴は言う。
「会いたい人はいるの?」
 僕は質問をされるまでそんなことを考えたことは微塵もなかった。会いたい人、死んだ祖父かな。いやそれだと文脈がバグってる。腕組みをして元カノの顔をずらりと思い浮かべるが、これはもう"会いたくない人"である。
「ない、ないよぉ」
ため息混じりの返答にあいつらは笑いやがった。大きな舌打ちをかます。

「俺はいるんだよね」

マチアプ連敗中の滑落男はそう言った。全くあっぱれなロマンチズムである。聞いてやらないこともないと僕はずいぶん居丈高な態度で続きを要求した。
「高校の頃ね、付き合ってはいなかったんだけれど、ずいぶん仲良くしていた子がいてね。その子は不思議な子でこっちが色々要求しても断らないというか、いや勘違いしないで欲しいんだけどその"要求"ってのは別に大したことじゃないんだよ。一緒に帰ろうとか、ご飯を一緒に食べようとかそう言うレベルのことなんだけどさ。でね、彼女は僕に気があるのかなって思っていたのだけど、ある日『告白してくる男が嫌い』ってさ、彼女が言ったんだよね。彼女はそれなりに男からモテてたからそういうのは茶飯事だったと思うんだけど、それできっとうんざりしていたんだと思う。たださ、その時の僕は正直彼女に気があったんだけど、妙にその言葉が心に残ってね、なんだかこう、心に冷たい釘を刺されたような気分になったんだよね。そうしたら一気に気持ちも冷めてしまって、いつからかぞんざいに扱うようになってしまって。一気に疎遠になってさ。でさ、ずるいのが卒業した時にさ、クラスの別の女子から『あの子、君に気があったみたいで私によく相談してたんだよ』って今更ネタバラシされてさ。僕は、しまったって思ったよね。でもどうすればいいのかわからなくてさ。結局疎遠なんだよ。」

「は?おっっっっっっっっっっっも」

僕はもうそれはずっと我慢してた火山がとうとう耐えられずに大爆発してしまう時のように、粘性の高いマグマのようにドロリと重く口からこぼした。もう一人は僕の顔を見て大笑いをしていた。彼は微笑して、そして話を続ける。

「だから、僕はもう一度彼女に会いたいんだ。会ってどうするかは正直わかんないけど。僕としてはやっぱり謝りたいけど、でもどちらかといえば彼女がいなかったこの何年間を僕がどんなふうに過ごしてきたかを話したいかな。今日グランピングにきた話とか、家業を継いだ話とかさ。」

静寂。

「そうして僕はこの思い出から解放されたいんだよ。」

一筋の涙。僕らは何も言えなかった。泣き上戸というわけではない、酒に関係のない純粋な涙を前に、僕はまた、上手に言葉を紡ぐことができなかったのだ。


言語論的展開

 いつか、今井むつみの著作を読んだことがある。彼女は国内では高名な言語認知学者で、ベンジャミン・ウォーフの言語相対主義を支持しており、思考や認識とことばがどのように関わるかについて研究をしていたと思う。

 ここで私が彼女を引き合いに出したのは、世界が言葉によって歪められているという考えを僕に与えてくれた張本人だからだ。例えば私たちはたくさんの色の名前を知っているけれど、その中でもこれ以上分類できない「基礎色」なるものの数は国や地域によって大きく差があるらしい。日本やアメリカは確か10個以上あったと記憶している(白,桃,赤,黄,茶,緑,青,紫,茶,灰,黒だと思う)が、アフリカだかオセアニアだったかの民族では基礎色が2つしかない国があるそうだ。このように言葉が違えば、言葉を用いて行っている認知や思考にも差が出るだろうというのがいわゆる言語相対主義である。

 僕は「言語が違えば」みたいな大それたケースでなくとも、つまり同一言語内のもっとミクロな視点でもこれは起こりうると思っている。例えばある人が「バナナ」を考えるとき、そのイメージ元になるバナナ自体とその体験は人によって異なる。すべてのバナナが同じ色をしているわけではないのだから、言葉が同じだとしてもその色形の認識には僅かな差があると思うのだ。

 他にも例えば「函館を想像してください」と私が言ったらあなたはどのような"函館"を想像するだろうか。雪降る冬の函館の、いわゆる100万ドルの夜景、つまり函館山から市街地を眺める光景を想像するだろうか。それとも金森赤レンガ倉庫と海を想像するだろうか。五稜郭かもしれない。ちなみに僕は谷地頭温泉が好きでよく行ったから函館山の麓の方をなんとなく想像する。このようにやはり同一言語内でも言葉の先にあるイメージは個々人によって違うと言えるだろう。


ことばをかけて

最初に口を開いたのはもう一人の友人だった。
「連絡すれば?」
かなり軽々に言う。さっきまでの話を聞いていなかったのかと疑いたくなるほどに。
「できない。知らないんだ、連絡先を」
「仮に連絡先を持ってたら連絡したわけ?」
「それは、、、わからない。臆病だから無理かも」
「臆病ね。なんかちょっと違う気もするけど」
「会って話したいのは事実なんだけど、何から話せばいいのかわからないというか。僕は別に彼女とヨリを戻したいわけでも、かといって何か復讐したいわけでもないんだよ。本当にただ会って、ただ5分でいいから今までの話をしたいんだ。それだけなんだよ」

 僕にはその気持ちがなんとなく理解できる。これは完全に推測でしかないが、彼は彼女と過去、たくさん話をしていたのではないか。日々の些細なこと、退屈とも思えるような会話をしていたのではないだろうか。そして互いのことばの、些細なニュアンスの違いを無意識的に掬い上げ、時に理解したり、時に拒絶したり、そうして生まれ育った全ての環境が違う2人の間には共通の認識が生まれていく。イメージが緩やかに一致するようになる。彼の認識はー既にー彼女の認識と混ざり合って歪めらてしまったのだ。彼だけのことばじゃない、彼女と混ざり合ったことばが彼女なしで一人歩きを始めている。

 それは側から見れば、特別不思議なことではないだろう。時間をかければまた自分のことばに戻っていくだろうし、他の人の影響もその時その場所で受けていくことになるだろう。しかし、彼のエートスが彼女のイメージを借りて作られていたならばー

 彼は答え合わせをしたかったのかもしれない。あの時どうすればよかったのか、ではなくて、あれ以来の自分が本当に自分だったのかを。この数年を告白することを通して、彼のアイデンティティに爪痕を残した彼女から解放されたかったのかもしれない。

 願わくばあなたに、彼の話を聞いて一言だけ、ことばをかけてほしい。

僕は長野の空に祈った。

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