note創作大賞に落選しても落ち込む必要はない。なぜなら…そして、イケてる応募作品②
タイトルがタイトルであるから、おそらく、この記事を開いた方のほとんどは、note創作大賞に興味があるか、あるいは実際に投稿した記事をnote創作大賞にエントリーしている方なのではないだろうか。
創作大賞にエントリーをすると、その後に落選という現実が大多数の応募者に待っている。
注目をされるのは受賞者だが、人数だけなら落選した応募者の方がはるかに多い。ほとんどの応募者は落選者になる。
note創作大賞に限らず、コンテストに応募して落選、失格、受賞を逃せば、どうしたって落ち込む。
落ち込むくらいなら最初からエントリーなんてしなければ良かったとも思うが、主催者側としてはエントリー数だってそのコンテストのブランド力向上、権威付け、知名度アップにつながるわけだから、枯れ木も山の賑わい、自分のエントリーも山を賑わせる枯れ木の一本にはなれたと、納得するほかない。
そのようにいくら自分を慰めてみても、感情的にはどうしたって治まらないのだろうけど、現実は冷酷非情でかつ厳粛で変えようが無いのだから、やはり変えられるのは自分でしかない。
では、自分が変わろうと少し冷静になって考えて見れば、note創作大賞に落選しても、本来は落ち込む必要なんてそもそもないのである。
なぜか?
この記事では、その理由を挙げていこうと思う。
落選する応募者の方が多数派
注目をする人たちも落選する人たちも多数派
これは、もう当たり前の話である。
世の中にはnote創作大賞の他にも、多数の創作作品のコンテストや賞が開かれているが、それらのコンテストでも応募者の多くは受賞できずに落選する。
プロレスのチャンピオンではあるまいし、受賞者を持ち回りにしてみんなが受賞できるようにしましょうなんてシステムは無いから、世の中に賞やコンテストが溢れていても、受賞経験者より落選経験者を含めた受賞未経験者の方が圧倒的な多数派である。
むしろ、応募者少数のため落選者はいませんでしたなんてコンテストで入賞しても、それでは全く嬉しくないだろう。
コンテストで受賞する喜びと栄誉とは、落選者の死体の山の上に立って、一人拳を突き上げて勝どきを上げるのに等しい。
多数の応募者に対して受賞の栄光を授けられるのは、note創作大賞では数十人、一般的なコンテストでは数人から一人だけだろう。
そして、もちろんであるが、注目を集めるのは受賞した作家のみで、受賞を逃した作家、落選者に注目は集まらない。誰も関心を示さない。
しかし、である。
冷静に考えてみてほしい。
注目をする側の人間は、世間の多数派の人たちである。
何に対して多数派かという話は置いておき、そもそも創作コンテストに関心を示す人たちが世間の中で多数派かという問題もあるが、コンテストや賞に関心を示して注目する側の人間の多くはコンテストの受賞歴はないし、さらに多くの割合で創作の経験すらない。
note創作大賞に注目をするのは、noteでの創作の経験があるクリエイターがほとんどなのかもしれないけど、私を含めて多くのクリエイターには受賞経験など全く無い。
せいぜい記事にスキを付けられたか、コメントで褒められたか、note公式で紹介をされたような、道端で10円玉を拾うような矮小でささやかな成功体験があるだけだ。もしかすると、そのような体験を経験しているクリエイターですら、全体の中では少数なのかもしれない。
note創作大賞に落選をした貴方は、多数派に留まり続ける機会を得たのである。
注目をする世間の側に残れたのだ。
多数派とは夢破れた無名の人たち
小説、絵画、音楽、政治家、起業家、お笑い芸人、ゲーム、アイドル、スポーツ、YouTube、、、若い頃、これらのどれかに熱中したり注目して、この分野のクリエイターやトッププレイヤーになって自分が今注目している人間と同じ舞台に上がり、人々の注目と尊敬を一身に受ける立場になる夢を、ほとんどの人は一度は見ているはずである。
その夢のために、どれだけの努力をしたか行動をしたかは人それぞれ違うだろうけど、少なくともいつかどこかで夢だけは見たはずだ。
むしろ、物心ついた頃から自分を凡百に埋もれた他愛もない人間と規定して譲らず、それ以外にはなり得ないと信じ切って生きてきた人間など、口には出さないにせよ本当にいるのだろうか。
多くの人たちはそういった若き日に見た夢は諦めて、凡庸な仕事について、極々狭い範囲の人たちと相互に注目し合うだけで、特別な存在にはなれずに無名のまま暮らして死んでいく。
これが、多数派の人たちである。
ところで、noteに記事を書いてnote創作大賞の応募をするとは、このような多数派から抜け出す夢をかなえるため、あるいは諦めたはずの夢をもう一度花咲かせるためのものではないか。
受賞をした作品を見る側の人たちというのは、夢を諦めて無名のまま生きて死ぬ人たちがほとんどであると、もう一度思い返すべきだ。
受賞をした瞬間、その受賞者は、受賞者に注目をして称賛するだけの側には戻れなくなるのだ。
お前は何を言っているんだ?と思うかもしれない。
それがどんな問題なのか?とも思うかもしれない。
それでもここは立ち止まって、冷静に考え直してみてほしい。
受賞したら多数派には戻れない
貴方が仮にnote創作大賞に受賞したとしたら、その瞬間、貴方の作品は多数の読者に読まれるし、その中でもいくらかの読者は貴方の作品を褒めてくれるかもしれないが、貴方と読者の間には、大きく隔たって決して壊せない壁ができてしまう。
世間から注目される貴方と、世間からは注目されない読者、という隔たりである。
創作大賞の盛り上がりが冷めても、貴方は受賞して世間から注目された経験自体は消えはしない。
しばらく経って、過去の栄光にしがみつくのもみっともないと、プロフィールや履歴書から自分の受賞歴を消してみても、貴方の記憶から受賞経験は消えないのだ。
受賞をした貴方は、心情と経験面で一般読者の側には二度と戻れないのだ。
落語の世界では、高座に上がった落語家は、座布団の前に扇子を置いて落語を始める。この扇子を「高座扇子」と呼び、落語家と聴衆の間に境界を設ける意味があるらしい。
本来、落語と同様にクリエイターと読者は全く同じ立場にはなり得ない。
与える側と受け取る側には、根本的に相容れない違いがある。
しかし、読者側の目線を失ったクリエイターが、読者からの支持を長く受け続けるのも難しいはずだ。
読者の側とは、世間からは決して注目を集めない、夢を諦めた平凡で無名の、そして大多数の人間である。
つまり、受賞をした貴方は、自分を支持してくれているはずの読者とは、本当の意味で同じ目線で創作をする立場には二度と戻れないのだ。
「フツーの極々一般的な庶民の目線」は二度と得られない。
これは、貴方のクリエイターとしての成長も、可能性も、伸びしろも、それですべて終わったとは言わなけれど、限界が決まって制限されてしまうと思った方が良いだろう。
これを解りやすく例えるのであればば、指を切り落としたらもう二度と生えてこないのと同じであるし、一度ヤッたら童貞や処女には戻れないのと同じだ。
この記事を書いている時点では、まだnote創作大賞2024の応募は締め切られていないし、当然であるが受賞者と受賞作品は決まっていない。
しかし、きっと受賞者は以下のようなコメントを出すはずである。
「まさか、自分が受賞できるとは思っていませんでした。栄誉ある賞を受賞できて光栄です。自分の気持ちを素直に作品に込めました。etc、etc、etc。」
それを読んだ時、きっと私がこう思うように、貴方もこう思えばよいのだ。
「なーにが、自分が受賞できると思っていなかっただ。本当は他の記事を見て俺の方が何百倍もマシだと思ったんだろ、謙遜してカマトトぶってんじゃねーよ。バーカ、バーカ」
有名な作家でも落選して悔しがっている
さて、このような詭弁を弄してみたところで、実際に落選の憂き目にあった方々の溜飲はまだまだ下がらないだろう。
では、歴史を紐解けば、プロとして成功した作家でも、受賞を逃して悔しがり、果てには醜態をさらしてしまった例がある。
これらを見て、留飲を下げていこうではありませんか。
太宰治
これは、日本文学に多少でも詳しい人であれば既知の「事件」であろう。
第一回芥川賞で、太宰治の「逆光」が最終候補に残ったが、受賞を逃した。
それに端に、川端康成に公開で苦情文を寄稿したり、それとは別に佐藤春夫や川端康成に手紙を送ったりした。
この太宰のあまりの醜態に、以後の日本で、落選後に大っぴらに審査員に苦情を申し立てた作家はほとんどいなかったと思われる。
ちなみに、最終候補の「逆光」は短編であるが難易度が高すぎて、現代人が解説や前提知識なしに読んでも、まずこの小説の理解にはたどり着けない内容だ。それゆえに、この小説が読者に投げっぱなしにする謎が解けたときの喜びは大きいだろう。
当時の審査員が「逆光」を理解できたかはわからないが、第一回というまだまだ基盤の薄かった芥川賞の受賞作とするには、やはり冒険が過ぎるものだっただろう。
立川談志
コンテストの受賞ではないが、立川談志は古今亭志ん朝に真打昇進を抜かれたときの屈辱を公言し、弟子の真打昇進結果に反発して落語協会を脱会して立川流を創設した。
他人の評価にくじけず、堂々と抗議をする人間であった。
西原理恵子/清水義範
上記二人ほど大っぴらではないが、サイバラも清水義範との共著のなかで、清水義範の直木賞落選を揶揄したかと思えば、自身の落選を皮肉っている。
この二人の共著は多数あるが、落選について語っているのは、たしか「もっとおもしろくても理科」あたりと思って、近著も含めてKindleで買い直したのだが見つからなかった。
これについての情報を知っていたらコメントをしてほしい。
これらの偉人に共通すること
このように落選の憂き目にあった心情を正直に吐露した偉人たち、クリエイターたちには、共通する事項がある。
まず第一は、彼らは皆、自分の作品に絶対の自信を持っていた。
コンテストに応募して落選するのも、昇進の機会を逃すのも、悔しい感情をあらわにした抗議を公言するのと、ただ悔しがって腐る人たちとは隔絶の違いがある。
このような公言をすれば、「そんなに言うなら、さぞや自信があるのだろう、どれどれ」とスケベ根性剥き出しで彼らの作品を見ようとする人たちが現れる。
こうした人たちは、当然だが普段より数段厳しい目で彼らの作品を見るはずだ。そして、偉人たちは当然それを知っている。
そのような厳しい目に自分の作品がさらされても、決して自分の作品は負けない、厳しいハードルでも越えられるという自信を偉人たちは持っていた。
彼らは感情任せに悔しさを吐露しているのではなく、計算でやっている節がある。これはその後の彼らの発言を見るに、おそらく正しい。
彼らは皆、商売人である。
自分の作品を売り込むには賞を取るのはベストだが、賞を取れなかったら作戦を切り替えて、このような抗議や醜態をさらしてでも話題を作って、自分の作品を売ろうとしていたように見える。
そして第二は~この第二の方が重要なのだが~、彼ら偉人は良い作品が売れる作品ではないと熟知していた。
これは、自分の作品が客観的に見ても素晴らしいと断定できた境地にいる人だからこそ、気付くのかもしれない。
消費者というのは、思ったほど良い作品を見分ける力がない。それに時間を割かない。
大多数の消費者は、誰かが勧めていた、テレビで紹介された、そして受賞した作品というものを無思考に受け入れる。
わざわざ、作品の山の中から良い作品を見つけるような、手間をかけて良作を探す良識ある消費者というのは少ない。
加えて、良識ある消費者が良い作品を見つけたとしても、それでその作品がマーケットで注目されるかというと、そうでもない。
感染症が広まるのは、全員が平等に少しづつ広めるものではなく、スーパースプレッダーというごくごく一部の人間が、菌やウイルスを大量の人間にばら撒いて感染が広がっていくものらしい。
良い作品というものも、そのスーパースプレッダーの目に留まらない限り、いくら良い作品であっても、世間に広がってヒットすることはないのではないか。
これは、良い作品のヒットとは対極の、ネット炎上でも同様と思われる。
インターネット時代にあって、ネット炎上というのはSNSを使う人であれば誰でも意識しなければならない問題になった。
しかし、ネット炎上をするような不謹慎であったり不穏であるような発言が、全て拾われて炎上するかといえば、そうではないように思う。
ネット炎上のニュースを目の当たりにする度に、我々はネットで発信されるこれら不謹慎な問題発言の全てを網羅した気になっているが、ネット炎上をして衆目に晒されるのは氷山の一角、ほんのごく一部、裏ではその何倍ものもっと問題のある情報がネットに流されて、その多くはスルーされているはずなのだ。
話を戻すと、受賞や昇進を逃したこれらの偉人たちは、良い作品が売れるまでのプロセスを熟知していた。
プロのクリエイターとして自分の作品を売るのに、作品の品質が高いのは必要条件であるが、十分条件ではないと知っていた。
だからこそ、受賞や昇進を逃したという問題にも敏感であったのではないか。
彼らの価値が世間で認められるには、良い作品を作って発表するだけではダメなのである。受賞や昇進といった、権威あるラベルを付けてもらわなければならない。
受賞や昇進も、スーパースプレッダーの一つなのだ。
彼らは自身の作品に自信があるからこそ、スーパースプレッダーに認めてもらうこと、すなわち受賞や昇進にこだわったのだ。
あなたより優秀なクリエイターがいたのだから、あなたは創作をする必要が無い
貴方はなぜ創作をするのか
このような偉人の例から、コンテストで入賞できずに落選をしたからといって、これで自分の作品は駄作、自分は作家として失格だと断定して唾棄せずに、いつか日の目を見るのを信じて、自信を持って創作活動を続けるのも良いだろう。
一方で、この章のタイトルの内容を受け入れなければならないだろう人もいるのは事実だ。
自分で書いても、何とも絶望的で嫌味なタイトルであるが、note創作大賞に応募した作品が落選し、他のコンテストに応募しても落選が続いているのであれば、そろそろこのオプションも視野に入れるべきだろう。
また、初めてnote創作大賞に応募したとしても、全く歯牙にもかからなかったと実感があれば、貴方の創作活動に意味はあったのかを、改めて問い直す機会でもある。
そもそも、貴方はなぜ創作をしているのか?
誰かに思いを伝えたいから?
誰かに褒められたいから?
有名になりたいから?
作家、あるいはクリエイターという肩書がカッコいいから?
ただ、何となく書きたいから?
今の惨めな状況を一発逆転で取り返したいから?
「なぜ創作をしているのか」という問いの回答は、クリエイターによって違うはずだけど、以下に挙げる理由は誰でも首肯するのではないだろうか。
世の中のどこにも無い作品が自分の中にあるから
つまり、オリジナルを自分の中に見出したから、と言っても良い。
オリジナルというのは、他の人の作品に触発されて10%といわず1%だけすり替ええた、ほぼ贋作だったとしてもだ。
作品を作るクリエイターにとっては、その1%が重要なはずだ。
それを見出して、作品として作り上げる行動を始めたとき、人はクリエイターになるのではないか。
逆を言えば、他人の作品に見て触れて、それで関心したり共感して終わりであれば、その人はクリエイターにはなり得ない。
他人の作品をみて「ああ、良いですね」で終われば、創作意欲が生まれる要素がないからだ。
それでもクリエイターという肩書や、実際のクリエイターの姿を真似てみたくて創作活動をしている人、就職した流れでクリエイターになった人、それで成功する人も世の中にはいるのだろうけど、その作品に恒久的な価値はあるだろうか。
それは、どんなに成功しても、商業的に消費された間も無く忘れらるものだろう。
悲しみ、喜び、動揺し、失望し、傷つき、満足し、空虚になり、苦しみ、感動する。
これらの感動体験の詳細が、世の中を見渡しても自分の中で感じたものと全く同じものは誰も表現できておらず、これは自分の中にだけ見出したものだと気付き、それを形にできる道筋が見えたときに、人は創作という行動を起こすはずだ。
仕事系の情報やノウハウのカラムであれば話はもっと単純で、世の中にあふれる情報で満足している人は、わざわざ自分で何かを書こう、作ろうなんて思わない。ただ、入手できる情報を拾えばよいのだから。
自分が情報を発信せねばという義務感が、その人をクリエイター足らしめる。
貴方の創作に意味はあるのか
しかし、そのようにして作られた作品が、クリエイター以外の他の読者が求めているかというのは、クリエイター自身の経験や創作意欲とは別の問題として存在する。
誰の共感も得られない、誰にも求められていない作品を作っても、その創作にどれほどの意味があるだろうか。
他人の共感を得られる作品でも、全く同じ意図でもっと優れた作品を作るクリエイターがいるとしたら、あえて貴方も創作する意味はあるだろうか。
創作活動は楽しいかもしれないが、苦しい。
苦しんで生んだ作品が、誰にも求められない、あるいはもっと優れた作品が既に世にあると知った時、それでも創作を続ける意味は無いのではないか。
芸術は大衆への奉仕だと誰かが言った。そうではないと、プラーテンは言った。
いずれにせよ、誰にも求められない作品を作り続ける行為に意義や意味を見つけるのは、note創作大賞に入賞するよりはるかに困難だろう。
それであれば、note創作大賞とは、自分の作品は誰にも求められていなかったという、現実を思い知る良い機会ではないだろうか。
それは、落選する多くのクリエイターにとって。
貴方がnote創作大賞に応募したのに落選をして、口惜しいやら残念やらで、気持ちに踏ん切りがつかないのであれば、受賞した作品を見てみよう。
受賞作品は、多分(この多分はほぼ100%)、貴方の作品より優れている。
貴方は、貴方の作品が一番優れているはずだと、不安を抱きながらも確信があったから応募したはずだ。受賞作品を見ても、その確信は揺らがないかもしれない。
しかし、現実はそうではない。
受賞作品には、商用メディアに出すのに耐えうる品質がある。
受賞作品には、読者の多くが理解して納得して、何らかの形で金を払っても良いと思わせるものがある。
そして貴方の作品には、それが無かったのだ。
もう、創作はやめよう。それに意味はないのだから
貴方は創作などを続ける必要はないし、そもそも最初から創作をする必要すらなかったのではないか。
貴方の代わりに、受賞者が素晴らしい作品を出して活躍してくれる。
貴方はその読者、聴衆、見物人、そして消費者であればよい。
インターネットはもちろん、テレビやラジオがない時代、さらに言えば出版も貧弱であった時代であれば、コンテンツの供給者とは、近所にいる村一番の喋りが上手い人、ちょっと文章が書ける人、絵が描ける人であった。
そのような人が創作をすれば、近所の人を喜ばせる機会を得られた。
都会に出れば競争にさらされるかもしれないが、地方を回れば、いくらでも注目を得る機会があった。
しかし、今は時代が違う。
テレビや書籍やラジオが、世界レベルや日本レベルでトップのコンテンツを紹介する。インターネットでは、世界でトップレベルの情報を簡単に得られる。
その時代にあって、貴方がコンテンツを発信し続ける理由は本当にあるのだろうか。
往時の勢いはないとはいえ、テレビは相変わらず貴方が創作した作品より良質なコンテンツを発信して、多くの視聴者はそれを鵜呑みにしている。
インターネットで検索をすれば、貴方の作品より良質なコンテンツはいくらでもある。
わざわざ貴方のコンテンツを読む時間など、ほとんどの人には無いのだ。
だから、貴方はnote創作大賞に落選しても、落ち込む必要はないのである。
貴方は創作をする必要なんて、元々なかったのだから。
それが解ったのだから、これからは誰にも賛同されない作品を作るのに時間を割くのではなく、もっと他のことに時間を使おう。
他人が挙げた看板に集まる客をさばく仕事をしよう。
誰かが作ったマニュアルやルールに沿った作業をこなして、日々の生活を乗り切ろう。
人生に与えられらた時間は、思ったより短いのだから。
note創作大賞の応募作品からイケてる記事を探す
この記事は、そもそも「創作大賞感想」タグをつける記事であり、記事タイトルは「イケてる応募作品」とした。
ここからは、イケてる記事を紹介していきたい。
イケてる応募記事を探すのに、紹介数の10倍程度の記事は読んでいる。
実際のnote創作大賞は、受賞までには10,000倍近いの競争率があるはずだから、ゆるい選定であるし個人的な好みで選んでいるから、イケてるというにはおこがましいように思えるが、それでも紹介したいと思う。
ビジネス部門
ビジネス部門の記事の需要とは何だろうか。
真っ先に思いつくのは、仕事上のノウハウやナレッジであるけど、どうも応募記事を見ているとそうでもないように思える。
まずは、テメーの知識や経験を自慢したい系の記事が目立つ。
ゴルフ練習場で、頼んでもいないのに、勝手に教えようとするお節介なオッサンのような記事である。
私もそういう記事をエントリーしようとしているから、あまり偉そうなことは言えないが、これは文章として読みやすくても、そもそも需要があるように思えない。
あとは、成功体験談である。特に経営者。
これは、内容の有用性や、実際の活用度に関わらず、需要があるように思う。
成功体験の記事を読むことで、読者はビジネスの成功を追体験できるからだ。一種のファンタジー体験でもある。
これは「闇金ウシジマくん」でも、こんなエピソードがあったように記憶している。
このように考えてみると、中々評価軸の定まらない部門であるが、その中でも、読んでみて個人的に関心した記事をピックアップした。
「読みづらい文章を書く人」が無意識に使っている言葉とは?
この方は編集者というだけあって、文章作成に関して全体的に良質な記事を上げているが、その中でも良い記事。
この記事は、学校の作文の授業にも取り入れたい内容だし、note記事を書くのにまずは読んでおきたい内容でもある。
"やりたいことをやる"という罠
一段落が長く改行を入れないのに、文章は読みづらくない。
この人はきっと、文章が上手いのだと思う。
内容的にも、肩を張った内容の多いビジネス部門の中で、軽い感じで、かつなんとなく考えさせる感じの、程よい重さが良い。
#294 居場所のある職場とは
結論を出すまでのプロセスが詳しく解りやすかったのが、好印象の記事。
私も立食パーティは嫌いです。
こうしてイケてる応募作品や良作記事を探している中で、スキの数が一桁台の記事から良作を探そうという裏の課題を私自身に課しているのだが、ビジネス部門ではどうにも見つけられなかった。
これは、再度チャレンジしたい。
コミックエッセイ部門
コミックエッセイは、本来絵が上手い人がラフな絵を添えて、近況や心情を描くのが基本だと思う。
絵が重厚過ぎると記事全体の印象が重くなるし、絵が下手だとただただ悪印象だけ残してしまう。
絵も内容も、何を書く(描く)かより、何を書かない(描かない)かの方が重要でセンスが問われる部門だろう。
そういう意味では、参入できるクリエイターを最も選ぶ部門ではある。
【同棲&同性の彼氏との日常】寝る前の会話(エッセイ漫画#204)
LGBTQのカップルについての記事であるが、LGBTQを重く捉えない内容が好印象だった。
【日常漫画】宝くじを買った話
コミックエッセイ部門で重い話題を扱った記事を取り上げたくないのは、私の好みなのだろう。
それよりも、何気ない日常を切り取るセンスを重視したい。
その中でも、バランスの良い内容だなと思った記事。
『パン屋さんには"すき"がいっぱい』|コミックエッセイ②
食べ物の絵に背景が黄色というのは、とりわけ美味しそうに見える。
この表現は絵じゃないと無理だなと思う。
さいごに
今回の記事では、note創作対象の応募者、落選者に対して随分と酷い内容となったが、これは他人を揶揄したかったわけではない。
将来の自分に対して語っているのだと、ここまで読んでくださった読者様には理解してほしい。