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中居正広をかばう心理

止めよう止めようと思いつつ、まだフジテレビ騒動で記事に書きたい内容が頭の中で湧いてくるので、これも書いておこうかと思う。

私のフジテレビ騒動に関する記事の数も増えたので、マガジンにもしてしまった。

こうして次から次へと、とめどない感想が湧いてきてしまうのは、フジテレビ騒動とは私個人として、自分と社会の関連に関する問題そのものを象徴しているのかもしれない。

この記事の件名にあるように、中居正広をかばっている人というのがいるらしい。
おやおや、そんな人たちがいるのかい?と、とぼけてみるのもバカバカしく、週刊文春の報道直後から被害者は特定されていたし、インスタやXでの被害者への誹謗中傷があるのは私でも知っていた。

有名人の中居正広擁護では、小林よしのりが有料のnote記事でかなり強く被害者側を責めていると思われる(なんせ有料部分は読んでいないので憶測だが)記事を書いている。
小林よしのりは被害者X子に一体どんな恨みがあるのか知らないが、下記のリンク記事の無料記事部分だけでも被害者X子を大変に下品で醜く皮肉たっぷりに描いている。
有料部分ではさらに被害者X子をけなして、記事の件名にある通りに中居正広を擁護しているのだろうけど、さすがにこれに250円は払えないよなー。
晩節を汚し切ったドルヲタの人品なんてこんなものかなとも思うが、人間を下品で矮小に描くのは、東大一直線からの小林よしのりの十八番だったか。

被害者への中傷はしなくても、noteで中居正広をワードに検索をすれば中居正広を擁護する記事は1件や2件ではない数が見つかる。
全体で見ればマイノリティではあるだろうが、中居正広をかばうグループというのは確かに存在するようだ。
反対に積極的に中居正広やフジテレビを叩いているグループだって、日本全体から見ればおそらくマイノリティなのだろうけど。

そもそも、中居正広って何でそんなに人気あったの?私、ほとんどテレビを見なくなってしまったので、直近の中居正広のテレビでの姿が全然わからないのだけど、芸能人やアイドルとしては、男から見てそこそこ鼻に付く言動の多い人だったという印象がある。
見ていてあまり愉快だった記憶がないんだよな、と。

しかし、中居正広に限らず上田晋也や島田紳助とか、番組の司会者としては少しイラっとさせて鼻に付くくらいの発言をしていた方が良いというのが、テレビ業界の常識なのか。


中居正広のファンは当然かばうでしょ

それにしても、実に30年以上もテレビに出ずっぱりだったのだから、そりゃファンも多いでしょう。
それが、突然のスキャンダルによる引退。
本人が直接カメラの前に立っての記者会見や挨拶は無し。
これでは、ファンであれば納得できないのもわからなくはない。
刑事事件を起こしたのならばパトカーに乗せられた姿を見て、多少は諦めもつくけど、それすら無いものね。

とにかくこの騒動、確定している事項が少なすぎる。
・中居正広が加害者として何かしらの事件を起こした。(手を上げるようなことはしていないらしい)
・中居正広が被害者を自分の部屋に誘ったらしい。
・被害者とは守秘義務をかわして和解済み。
・被害者は誰かわからないが、おそらくフジテレビの関係者。
以上、これだけ。

とはいえ実際には、被害者とされる人物は特定されていて、本人も含めてほとんどの人はそれを否定もしていなければ疑問も持っていない。
事件の内容も噂レベルでは詳細が伝えられていて、その内容と被害者とされる人物が事件後に患った病名に起因するだろうという部分もある。
報道前から事件を知っていたとされる港前社長や大多関西テレビ社長も、この事件を知った当時の感想を「驚いた」と述べていて、テレビ局という一般とは異なる特殊な文化の中でも、そう滅多には起こらない酷い事件だったのだろうと推測できる。
つまり、状況証拠的におおよその内容はほぼ事実であろうとして、この騒動を語る人たちの中で共有されているが、建前として「憶測だが」というラベルだけが付いている。

中居正広を擁護する人たちの多くは、この「憶測」というラベルを利用して反撃しようとしているようだ。
しかし、彼らが中居正広を擁護する根本的な理由が「憶測」で罰するべきではないというものではないはずだ。
私たちは、今まで散々報道で流れた不確定な憶測に従って多くの人を断罪してきたはずで、そこから大した反省も改悛も生まれはしなかった。
中居正広だけは憶測で罰してはならないというのは、あまりに理屈が通らなすぎる。
中居正広というほぼ間違いのない凶悪な犯罪者を擁護するには、その裏の理由があるはずであり、この記事ではそれを考えていきたい。

私としてはテレビはほとんど見ていないから、中居正広が突然引退しても何の痛痒もないけど、毎日テレビを見てテレビの中の中居正広を楽しみにしていた人たちは、建前上の「憶測」に縋りたい気持ちは理解できるし、そりゃあ納得できませんわな、とは思う。

推定無罪という言葉はあるけど、推定有罪なんて言葉はない。
あくまで推定で人を叩いて表舞台から退場させるのが、特にその人が自分がファンという立場であれば、それで良いのかという疑問や怒りはあるのだろう。

ちなみに私は、やっぱり中居正広はおそらく犯罪性の高い酷い性加害をしただろうし、和解も芸能人という立場を利用した圧力があったのであろうし、中居正広の急な引退も妥当だなと思っている。
中居正広は記者会見をしろという意見もあるが、これで何かしらの新事実が明らかになるわけもなければ、謝罪の言葉も形だけのものだろうし、あまり意味はないと思っている。まあ、被害者X子は記者に責められる中居正広を見て、少しは溜飲を下げるかもしれないが。
本来であれば罪に値する刑事罰もきちんと受けてほしいところだが、守秘義務をつけて被害者と和解済の状況では、それも難しいのだろう。
しかし、これはファンでもなんても無い傍観者の立場だからの感想であって、これが自分がファンとして見ている芸能人やら有名人が、このような形で表舞台から退場をさせられたら、やはり悲しい気持ちにはなるだろう。

ファンにも度合いはあるだろうけど、人が誰かのファンになるというのは、極端な言い方をすれば自分の人格の一部をその人に託してしまうということなのだろう。
自分と相手を同一視というと少し違うから、人格の一部を託すという言葉にしてみたが、要は自分が悪いことをしていなければ相手も悪いことをしていないと思えるし、相手が責められれば自分が責められると感じてしまうのだろう。
これは極端だし、中居正広を擁護するファンも「そういうことじゃない」と否定をするだろうが「アタシは悪いことをしていないのに、なんで中居クンが責められるの!」という、論理的に考えれば全く破綻しているのだが、そういう心理になるのがファンというものなのだろう。

このような書き方だと、中居正広のファンをバカにしているようだが、こういう心理で動いてそうな言動って、冷静に考えれば稀によく見るよなと思う。
犯罪を犯した子供を親が本気というか狂ったようにかばうとか、政治的に味方の人間はどんな超論法を使ってもかばおうとするとか。
良い言い方をすれば自己犠牲の精神という解釈もあるのだろうけど、様子を見ると自分を犠牲にしているという悲壮感もないから、自他を倒錯してしまっているのかもしれない。

じゃあ、やっぱり中居正広をかばっている人って、おかしな人だったんですね、ちゃんちゃん。とはならないように思う。
誰かのファンになるというのは、自分の一部を他人に捧げるということなのだから、捧げたと決めた以上は都合が悪くなったり趨勢が不利だと見たら、捧げた自分の一部を引き下げるのも不誠実というものではないかと思う。

新しい権力者は私たちに何も与えないという気づき

では、中居正広をかばうのが中居正広に自分を捧げているファンだけかというと、そうでもないように見受けられた。
では何かというと、今回のフジテレビ騒動そのものを受け入れられてはいないと思われる発言が見られる。

これは、一つには中居正広やフジテレビという権力の崩壊を、彼らは受け入れてないのではという仮説が考えられる。

権力というのは私たちを圧迫して理不尽な破滅へと追いやり得る恐怖の存在でもあるが、一方で私たちは権力に守られているし、権力の源泉そのものにもなっている。
権力を持つ者は地位や名声や富を持っているケースが多いが、これは関連性が高いというだけで権力そのものを表してはいない。
権力とは他人を強制する力であり、勝負に勝利し得る力である。

権力を掌握する手段はさまざまであるが、権力の本質は多数の人間の支持であり、権力者は多数の人間を直接的でも間接的でも命令して動かす能力があるからこそ、権力を持っていると言える。
現代の民主主義の時代において、権力とは有権者の支持を得るための政策であったり人望であったりするが、これは建前上の正当な理想的手段であって、裏では富や地位が必要であることも知られている。
テレビ局に権力があるのは、テレビが発信する言論に大きな影響力があるからで、テレビの発信内容をコントロールする権利を握れば、それがそのまま権力に直結するからである。
人類の過去の歴史では、権力を得るため、言い換えれば大衆を掌握するために暴力が使われたことがあったし、慣習的に大衆を従わせていたこともあったであろう。
権力の掌握とは多数の人間が関わる事態であるから、事は単純ではなく、いつの時代も複合的な掌握手段によって権力が成立していたのも間違いない。

そして、権力というのは私たちに何かを与えている。
古くは国家権力が私たち大衆に安全や文化を与えてきた。
現在の国家権力では、それに加えて福祉サービスやインフラサービスと言った各種のサービスを提供しているし、多額の補助金をはじめ公共自業自体にも富の再分配という機能もある。
テレビ局に権力があるのも、ただ単にテレビが情報操作のツールだけではなく、普段のテレビが提供するコンテンツが視聴者にとって、面白さや有益さに価値を認められておるるからだ。
普段生活しているとあまり気づかないが、私たちは権力に征服を甘んじてでも受けながら、権力側からのなんらかの施しを受けている。

歴史を振り返って見て、権力の構造が壊れて革命が繰り返されたのは、おそらく、この権力を掌握する手法と大衆への施しに緩みが出たところを、対抗勢力なり知恵ものなりに突かれてしまい、大衆の支持を奪い取られたからだと一般化した言い方ができると思う。

今回の中居正広のスキャンダルとフジテレビの騒動も、権力が崩壊してしまったという点で、一種の革命といえるだろう。

フジテレビ騒動は、フジテレビや中居正広という大権力と、彼らに傷つけられた被害者X子を革命の象徴に祭り上げたレジスタンスとの闘争と見るべきだろう。
闘争といっても、武器を持って戦うわけではなく、大衆の支持をどちらが得るかという言論の戦いであり、本来であれば圧倒的に有利な立場であるはずのフジテレビと中居正広が一瞬にして大衆の支持を失い、被害者X子とそれを報道した週刊文春といった週刊誌が大衆の支持を得て勝利した。

ところで、国家や政治の世界における革命であれば、権力の地位を奪い取った新たな権力者が、政治が提供するサービスを支持してくれた大衆に提供する役割を担うことになる。
大衆はこのサービスが向上するから新たな権力者側について革命を後押ししたともいえる。

翻って今回のフジテレビ騒動は、中居正広やフジテレビという権力者を倒すことのみで、この騒動に乗っかって支持している大衆は代替の施しを期待していない。
週刊誌がフジテレビのスキャンダルを報道しては、フジテレビはこんなに酷いところだと騒ぎ、過去の中居正広のスキャンダルを掘り返しては、やはりこいつは酷い奴だったと騒いでいる。
その騒ぎがスポンサー離れを起こし、両者を破滅へと追いやっている。
これは、中居正広やフジテレビの施し、具体的にいえばコンテンツにもはや価値を感じていないか、あるいはその価値は非常に少なくスキャンダルの許容に値しないとされたからこそ起きている現象でもある。

そして、おそらくだが中居正広やフジテレビをかばう数少ない声をあげる人たちとは、この価値の評価を受け入れていない人たちではないのだろうか。
つまり、中居正弘が出演する番組やフジテレビが制作して流す番組には価値があり、これらを破壊することに抵抗感があると考える人たちである。
あるいは、彼らを倒した被害者X子や週刊誌は、彼らを倒した後に彼らと同じものを我々には与えてくれないではないか、と考える人たちである。

これは功利主義的な考え方であり、ある種の合理性のある考え方だとも言える。
彼らから見ると、この騒動は大衆のルサンチマン、大物芸能人やテレビ局という上級国民が集う組織への醜い嫉妬というように映っているのかもしれない。

変わらない日常を破壊された怒り

テレビがかつてほど日本人への影響力は無くなったとはいえ、まだまだ高い影響力があるし、テレビ番組というのが生活のかなりの重要度を占めている人というのは多いのだろう。

であれば、中居正広をテレビで見れなくなった、フジテレビが番組を制作できなくなったという今回の騒動を、純粋に迷惑で許せないものとして声をあげている人もいるように思える。

テレビの視聴が生活の一部となっていて、その生活になんの不満も感じていなかっった人たち。この人たちはまだまだ数は多いと思うが、そのような人たちから見れば今回のフジテレビ騒動は、確かに性加害は許しがたいかもしれないが、それよりも自分の楽しみを奪われたことの方が重大な問題だと捉えるだろう。

この考え方は極めて自己中心的な考え方であり、自己中心的に生きること自体は悪ではないが、中居正広やフジテレビを責める側があげる正義の論理には到底勝ちようがない。
それであるからかもしれないが、このように考える彼ら彼女らの声は被害者とされる女性、つまり最も力が弱いと思われる者に対する怨嗟の声として自然と向かっているのではないだろうか。

一人の犯罪被害者の影響力が強すぎる恐怖

今回の中居正広のスキャンダルとフジテレビの騒動は、一人の女性の性被害を発端にしている。
この被害者の同情が大衆を動かし、中居正広という大物芸能人とフジテレビという巨大テレビ局を破滅へと追いやっている。

一方で、日本では毎年平均して1,000件程度の殺人事件があり、4,000件程度の強制わいせつ事件がある。
これは、年間で最低でも5,000件以上の、今回の被害者と同じような悲劇が日本では起こっているということである。
ついでに言えば、死亡交通事故は3,000件程度、自殺は20,000件程度発生していて、やはりこの件数分の悲劇も起こっているのだろう。
その一部は報道を通して私たちの目にも入っている。

これらの悲劇は、当事者にとっては重大なものであるだろうが、社会はこのような悲劇とは関係なく営まれている。
いちいちこのような悲劇を取り上げて大騒ぎなどする事はないし、悲劇の当事者を積極的に救おうなんて運動は滅多に起こらない。
多くの人は被害者救済は国家の仕事だろうと言い訳を述べて、同情から発生した義務への逃避感情を自分の中で許している。
これは非常にまともな判断で、毎年数千件、数万件は発生している事件の悲劇をいちいち取り上げて騒いでいては、一般の人たちの生活が成り立たないからである。

それであればである。
今回の中居正広の引退劇やフジテレビのスポンサー離れについて、一人の被害者の影響としては大きすぎじゃね?という疑問は普通に成立するだろう。
スキャンダルで芸能界を去っていく芸能人は過去にもいただろうから仕方ないにせよ、フジテレビのスポンサー離れが今後も長期化すれば、フジテレビの関連会社を含めて大量の失業者が発生するはずである。
たった一人の被害者、たった一つの犯罪のために、そこまで多くの人間の生活に支障が出るような影響があって良いのかという疑問はある。

もちろんこれには、これまで散々テレビ局はこうやっていくつもの企業、人物を潰してきたではないかという反論があるのだが、一方でお前の悲劇にそこまでの価値はないから黙っておけという、被害者へ向けた声も数は少ないが挙がっているようだ。

確かに被害者の声が強すぎる社会というのが危険だというのは想像に難くないが、おそらくそのことに社会全体として気づくのは、今の社会が壊された後のことなのだろう。

あと、他にも中居正広をかばう心理として「女なんてやっちゃえばいいんだ」という、旧時代的な男女関係の価値観を支持している人もいるのかもしれないが、これは論じる価値もないので、わざわざこの記事で分析する気はない。

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