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【インタビュー企画vol.6】マラウイ事務所長・山本作真さん

【🌏インタビュー企画🌏】
NPO法人で働く多様な人々の仕事や、国際協力のキャリアパスについての疑問を掘り下げる本企画。学生だけでなく国際協力に興味を持つ方々に向けて、ISAPHの活動を紹介し、NGOでの働き方やキャリア形成についてリアルな声や想いをお届けします。

自己紹介をお願いします。

山本作真です。神奈川県に生まれ、父親は機械のエンジニア・母がピアノ教室をやっている家庭で育ちました。基本的に機械や電気が好きだったので、子ども時代は物理・工学系に進むものと思っていました。ピアノは4歳からやらされて、何かを押し付けられることが嫌いになりました。ところが、力学から始まったのがいけないと思うんですけど、あのベクトル線引くのとか、高校の物理が全然面白いと感じませんでした。電磁気学から始めれば人生変わったかもと思ったりもします。一方で、生物が面白いと感じるようになりました。ただ、医歯薬学には興味はなかったので、農学部に進むことを決めました。

国際協力を志したきっかけはなんですか?

多感な時期だったのもあると思いますが、高校が全く楽しくなかったんです。周りとも合わないし、勉強にもモチベーションが上がることもなく、、。ただ、部活は弓道部に所属していて、とても楽しかったので、部活のおかげで不登校にならないような状態でした。そんな高校2年のあるとき、テレビ番組でさだまさしさんの「風に立つライオン」という曲に出会いました。この業界だったらご存知の方が多いと思いますが、アフリカで医師をされていた方の曲なんですよ。それになぜかすごく感動しました。ピアノ教室の子なのもあって、J-POPは全く知らなかったし、ミュージックステーションも観たことがなかったんです。ただ、その時は、すごく感動したんですよね。それにびっくりした母親が「さだまさしベスト」というアルバムを買ってきてくれて、いつも聴いていました。「風に立つライオン」を電車に乗ってても、家で聞いてても、いつも涙が流れてきて、24回目まで毎回泣いていました(笑)今まで、曲や映画で泣くということがなかったので、自分でも驚きました。その曲がきっかけでアフリカに行きたいなと思うようになりました。

大学入学後___

農学部に進学し、青年海外協力隊(現・JICA協力隊)に行きたいというところまでは決めていたので、そのための勉強しかしませんでした。大学3年で派遣が決まったので、4年次は丸々派遣前の訓練に行っていました。
大学の卒業式の1週間後にマラウイに渡航しました。配属先が少年院で、子どもたちに野菜栽培を教えるという要請でした。今は農業隊員は少ないですが、当時はマラウイには10人くらいいました。

初めてのアフリカ・協力隊の2年間はどうでしたか?


配属先が少年院で野菜栽培を教えるという、職種の中でもなかなか変わった案件だったんです。
よくあるパターンは農業普及局の配属になって、バイクでいろいろな所を回って技術を教えに行くみたいなものが多いのですが。新卒で行ったので、野菜栽培も大した能力はなかったのですが、対象が少年だったし、そんなに高度なスキルを要求されないんですよね。どっちかっていうとその子どもたちとうまくやっていくことの方が大事でした。それこそ教育の専門家でもないので、大変でしたが、結果的にはめちゃくちゃ楽しかったです。やんちゃな子どもたちと戯れて仲良くなったあの2年間は忘れられません。今でも、日本でもおバカな男子小学生がいるととても愛おしく感じますね。

協力隊時代でカルチャーショックや驚いたことはありましたか

なんでこんなに待たされることが多いのか、「人を待たせることに罪悪感がない」ということでしょうか。”I am coming.”と言われて5分くらいしたら来ると思っていたら3時間待たされたり、結局戻って来ないことがあったり、それは衝撃的でしたね。

2006年と2024年を比較してマラウイで変化したところ、同じところはなんですか?

目立つ部分で変わったところで言うと、スマホが普及していて、どこにいってもLTEがつながるということですね。みんなが外の世界を知るようになりました。18年前は大人が誰でも”Malawi is the best country.”と合言葉のように言っていましたが、今そんなことを言う人は一人もいません。細かいところで言うと、村人がソーラーパネルを使っていたり、子供が裸足じゃなかったり、色々ありますけどね。
以前と同じところは、時間感覚は相変わらず変わっていないですね。時間がかかるのもそうだし、約束を守ることを全く重視していない。日本人と根本的なところで倫理観が違います。
日本は約束を守らないと社会的に死ぬような印象がありますが、この国だと責任を追及するよりは「その場の空気を悪くしない」といったことを重視しますよね。

その後、ISAPHに入職されるまではどのような経緯だったのでしょうか?

マラウイで2年間過ごした後に、就活を始めようとしたところ、日本に呼ばれていない気がしました。そこで、JICAの雑誌に短期派遣の募集があったので、ネパールに8ヶ月間行きました。村落開発普及員(今でいうコミュニティ開発)という職種ですが、今度は農業普及局に配属になりました。農民グループを作るみたいな案件だったんですけど、行ってみたら既にグループがもうあって、やることがないなと思ってたら、その配属先がコーヒー栽培を普及させたいみたいな事業をやっていたので、それのお手伝いをしてました。
ネパールから帰国した後は2社で会社員をやりました。食品メーカーで商品開発をやって、その後は、農業生産法人で、ホームセンターで売られているポット苗を作っていました。農業の会社で働いていると毎年同じ時期に忙しくて、同じ時期に暇な時期になるんです。私が働いていた会社は1月と7月がとても暇だったので、大学の試験月だなと思って放送大学を受講し始めました。その過程で、勉強の楽しさを思い出し、「協力隊の時にこれを知ってたら色々できたのになあ」と思うようになりました。そこから昔抱いていた情熱を思い出し、国際協力業界にまた戻りたいとJICAの求人サイトを見ていました。そこにISAPHの求人を見つけて、条件がまさに自分にぴったりだったので、自分のための案件だと思いました。そこから、とんとん拍子で面接を受け、ISAPHの職員としてマラウイに行くことになりました。

ISAPHの職員としてマラウイに戻られ、実際の現場での経験から得た気づきはどのようなものですか?


まず、協力隊時代との違いは、裏方に回って持続的な活動をしようと思ったことです。協力隊の広告を見ていただいたら分かると思いますが、日本人の若者と現地人が一緒になって活動してる写真のイメージですよね。あれをやめようと思ったんです。すごくヒロイックなんだけど、そのような関わり方をしていいのは協力隊員までだと考えていました。あくまで自分は裏方に回らないと持続的じゃないかなって思ったんですよ。なのでヒロイックな活動をやめようと思ったのは、NGOで働き始めてから大事にしているスタンスですね。ヒロイックな活動が駄目だというわけじゃなく、自分は向いてない。また、特に前の上司に何度も指導されていたのが、「目標と、そのための指標を設定して、達成できているのかを客観的にモニタリングする」ということです。こういうのって体当たりでやってきた協力隊とはだいぶ違うなと感じました。「何か情熱があれば大丈夫」みたいなのが国際協力じゃないんだ、というのは新たな気づきでした。

また、いわゆる国際機関との違いとして、NGOは何でも自分でやらなきゃいけないんですよね。聖マリア病院の部署で例えると、経理部と人事部と広報部と企画部と資材管理部と情シス部と…、といったような多くの部署の仕事を全部数人でやってるみたいなことが起きるんです。逆に言えば、組織の方針決めや細かいところまで自分の考えでやれるのは小さい組織ならではの面白さだと思います。

仕事でのやりがいや、達成感を感じる瞬間はどのような時ですか?

会社員から放送大学の机上の勉強に一回戻ったからこその視点だと思うのですが、大学で学んだ理論などが、NGOのフィールド活動をしているときに理論通りにいく時があるのは、とても面白いです。学生からそのまま社会人になっていたら分からなかったと思いますが、理論と現実が合致するという体験はとても興味深いですね。NGOだと現場の方針は自分に主導権があり、1から考えて自分で実行するというのはとても面白いです。

大変だったことは、立場をマラウイの現地の人に理解してもらいづらいことです。協力隊は国にすごく守られていたのを、今の立場になって感じます。協力隊の頃は警察などにも隊員証など証明書を見せれば話が通りましたが、今は「何者だ」と聞かれることもしばしばあります。

国際協力に対する敷居が高くなっている中で、国際協力の重要性はどのような点だと思いますか?

医療職の方だと「現地の人を助けたい」っていうモチベーションが強いと思うのですが、そのモチベーションは自分にはあまりないと思います。というか、「してあげたい」というモチベーションだったらどこかで諦めてしまったと思います。ここ数年間で強く思っているのは、高校が嫌で仕方がなかった”違和感”を大切にしようということです。日本の当たり前が自分には合わないという感覚があったおかげで今があると思っていて、マラウイに来てみて、自分の想像以上に世界の常識がかけ離れていることに気づいたんです。自分のためと言うか、好奇心のままに、やりたいと思えること・自分がエネルギーを全力で出せるフィールドが国際協力だったのだと思います。その結果として誰かの役に立てるのであればいいなと思っています。

日本人は国際協力にどのように関わっていくべきだと思いますか?

少子高齢化が進む中で、日本でしか通用しない産業にいると椅子取りゲームになるのは当たり前ですよね。日本語話者だけを考えた産業だと、実力とは無関係に椅子が減っていく。「国際」をフィールドにしないと不利なのは間違いないと思います。BOPビジネスでも、一般的な企業のCSRでも良くて、協力・支援というサイドに立つか、ビジネスサイドに立つかはあまり関係なく、「国際」というものを当たり前の選択肢にしていた方が良いかと思います。

国際協力の分野で必要なスキルや能力はなんだと思いますか?

正直、自分は国際協力に向いていないと思っているんです。コミュニケーション能力や語学能力が特別高いわけではないですし。その割に周りと並んである程度やっていけているのは、やはり専門性だと感じています。だからこそ、どの分野でもいいと思いますが、なんの専門家でも、自分自身が情熱を持ってできると思える分野を伸ばすことが重要だと思います。

もし20歳に戻れるとしたら、何をしますか?

国際協力以外でしたらエンジニア系にいく可能性もあり得たと思いますが、そうではなかったら国際協力ですね。自分の進路選択は間違っていなかったと思っています。
エリートの友達たちが椅子取りゲームに参加しているのを見ると「大変そうだな」と感じる時もあります。国際協力よりも情熱を注げた分野が自分にあっただろうかと思うと、かなり疑わしいですね。

世界に貢献したい、国際協力を目指す若者へのアドバイスやメッセージをお願いします!

「正解のルートなんてない」ということです。私は新卒で協力隊を選びましたが、もっと中高年になってから国際協力に興味を持つ人もいるし、色々な関わり方があります。語学は若いうちからやってきた方が有利です。でも、それ以外はいつでも参入できる業界だと思います。この業界はどんな専門家も必要です実際の現場は本当にいろんなことが絡んでいて、栄養の話だけでなく、ジェンダー、インフラ、教育…と、複雑に絡んでいる。「ありとあらゆる分野の専門家がうちの村に来れば良いのに」と思います。あとは、人の個性を作るのは挫折だと思っているので、たくさん失敗して、色んなことをその過程で学んでいければいいのだと思います。最近の若い子の親を見ていると、我が子に失敗させたくないという方も多いと思いますが、若いうちに色んな挑戦をして、たくさんのかすり傷を負っていく中で、色んな成長をしていければいいんじゃないでしょうか。

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