死者が生きる体としての自分
前学期にプールで泳いでいたら偶然横のレーンから「あんたどこから来たの?」とアジア系のおばあさんに言われて、「日本です」というと「あら私もよ」と。
もともと僕が通う大学で教えられていた指導員の方で、縁あって彼女の持っている大量の日本語の本をもらいました。
その中で偶然見つけた高村光太郎の「智恵子抄」を読んでいて面食らった詩があります。
高村光太郎の「亡き人に」という詩です。
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雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙って咲く
あさかぜは人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎える
今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ
私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となって私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
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智恵子抄という詩集は高村光太郎が妻の智恵子への思いを綴った作品です。
精神病にかかり体を病んでいき、ついには亡くなってしまった智恵子の死を彼はとても強く悼みます。
彼女の不在が彼にとてつもない悲しみをもたらすのですが、この「亡き人に」という詩は彼が死に正面から向き合っているものなんじゃないかと思いました。
高村光太郎のことも文学作品の批評にも全く詳しくない人間の勝手な解釈ですが、この詩はとてもロマンチックなのと同時にとても物理学的だなと思いました。
「あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となって私に満ちる」
彼女はどこかに行ってしまったのではなく、まだ其処にいる。実際に人間を粒子レベルまで落としていくと、私たちの体は常に粒子が流動し変化し続けています。智恵子の体を構成していた原子はこの空間の中に今も存在していて、なんならそれが彼自身の中にあってもおかしくない。
彼を取り巻く万物の中に、文字通り死者だったものたちはまだ存在している。
だから「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」んだと思います。
彼が望むか望まないかを無視して、細かい物質となった彼女の存在はこの世界そのものになり、物理的にも彼をつつんでいる。
そう考えると全く異なる死者との関係性や身体の認識を築いている詩にも思えてきます。
愛する人は死んだが、その存在はこの世界の中にあり続ける。そして自分自身の中にもあり続ける。
もはや自分自身は自分一人の命や体でもなく、愛していた死者が存在し続ける場所になる。
だからこそ生きて自分自身を大事にする、ということ自体が今まで生きていた人々をケアすることににもなると思うんです。
今までの世代はその時その時でベストだと思う選択肢を取ってきた。あとの世代が健やかに過ごせますように、という祈りを私たちは今の社会において恵として受け取っています。
この「亡き人に」という詩は、それをさらに超えて循環する粒子レベルでも今まで生きていた存在たちの祈りが私たちを常に満たしていると認識することを可能にします。
私たちが生きているのは、私たちのためだけではない。
過去の世代との連続性の中に、今も私たちは存在している。
私は、今まで生きていた人々、でもある。
そんなことをまたふと思っていました。