マックス・ローチ / Max Roach 多くのドラマーに影響を与えたレジェンド

 ドラマーのマックス・ローチ。
 私はドラムを始めた当時、彼の音楽を研究した"あるドラマー"をシンボルとしたドラム教室に通っていました。
 そのなかでマックス・ローチの名前を良く耳にしていたので、彼の事は「ドラムを教える為のなにか」だと思っていました。

 今思い返せばなんと無知な事かと呆れと恥ずかしさがありますが、時が経ち彼のドラミングとリズムに強く惹かれる様になりました。

 今回はドラマーのマックス・ローチに迫ってみようと思います。

Max Roachとアメリカの1920年代

 マックス・ローチのフルネームは ”Maxwell Lemuel Roach” 。
なるほど。マックスウェルさんだったんですね。
 1925年、日本で和暦で言うと大正14年にアメリカ合衆国のノースカロライナ州で生まれました。

 ジャズドラマー・作曲家として活動。 ジャズのビバップと呼ばれるスタイルの音楽の先駆者であり、他ジャズスタイルの演奏も残したドラマー史上重要なドラマーの1人です。

 1920年代のアメリカでは様々な出来ごとがありました。
このnoteの趣旨はあくまでもドラマーのマックスの事なので、ざっくりと触れてみましょう。
 アメリカ合衆国の1920年代を現す言葉に「狂騒の20年代」があり、これは社会・芸術・文化の力強さを強調するものである。
 ジャズ・ミュージックが花開き、最後は1929年のウォール街の暴落がこの時代の終わりを告げて世界恐慌の時代に入ります。
 さらにこの時代は広範な重要性を持つ幾つかの発明発見、前例の無いほどの製造業の成長と消費者需要と願望の加速、および生活様式の重大な変化で特徴付けられています。

・自動車、映画、ラジオおよび化学産業が1920年代に急成長。
・フォードは1,500万台のモデルTを販売。

・ラジオは最初の大衆放送メディアとなり。ラジオは誰でも購入できるようになる。
・都市化は1920年代に頂点に達し、ニューヨークとシカゴはアメリカ一の都市を目指して競い合った。
・テネシー州が合衆国36番目の州となる。
・1920年代の初めの映画は無声で白黒だった。1927年にワーナーが初めてある程度のセリフを含む音声を入れた "Jazz Singer (ジャズ・シンガー)" という映画を公開した。

・アフリカ系アメリカ人の文学と美術の文化が、ハーレム・ルネサンスの旗の下で1920年代に急速に発展。

ジャズ・エイジ

 1920年は合衆国社会の中でジャズが広まったとされ、ジャズ・エイジと呼ばれる10年でもあります。
 アメリカ合衆国で最初の商業ラジオ放送局 "KDKA" が1922年にピッツバーグで放送を開始を皮切りに、ラジオ局は急増。
 ジャズは現代的で洗練された音楽として、ラジオ局と共に人気がひろがりました。
 皆さんが "Jazz (ジャズ)" と考える音楽は社会的に少数だった者によって演奏され、20年代の終わりにデューク・エリントンがビッグバンドが人気を集めるようになった時代でした。

マックス・ローチの主な共演者

・Coleman Hawkins (コールマン・ホーキンス)
・Dizzy Gillespie (ディジー・ギレスピー)
・Charlie Parker (チャーリー・パーカー)
・Miles Davis (マイルス・デイビス)
・Duke Ellington (デューク・エリントン)
・Thelonious Monk (セロニアス・モンク)
・Abbey Lincoln (アビー・リンカーン)
・Dinah Washington (ダイナ・ワシントン)
・Charles Mingus (チャールズ・ミンガス)
・Billy Eckstine (ビリー・エクスタイン)
・Stan Getz (スタン・ゲッツ)
・Sonny Rollins (ソニー・ロリンズ)
・Eric Dolphy (エリック・ドルフィー)
・Booker Little (ブッカー)
・Clifford Brawn (クリフォード・ブラウン)

 などの多くの有名なジャズミュージシャンと演奏をしました。 彼は1980年にアメリカ合衆国のジャズ専門誌「DOWNBEAT (ダウンビート)」の殿堂入りを果たし、1992年に同国のドラム専門誌「Morden Drummer (モダンドラマー)」の殿堂入りを果たしました。

マックス・ローチの生い立ち

 マックス・ローチは、ノースカロライナ州パスクォタンク郡ニューランドで、1925年1月8日に、父アルフォンスローチと、母クレッシーローチの間に生まれました。彼の出生証明書では彼の生年月日が1924年1月10日と記載されていますが、彼と彼の家族は1月8日に生まれたと信じていると述べています。

 ローチ家は1929年、マックスが4歳のときにニューヨークのブルックリンに引っ越しました。この年はニューヨークのウォール街で株の大暴落があり、これをきっかけに世界大恐慌が始まったとされています。
 このノースカロライナからの引っ越しには、どのような事情があったのか。
 彼の幼少期には、教会のゴスペル歌手らと一緒に育つ環境がありました。
 マックスは幼い頃からパレードでラッパを演奏し、10歳の時にはいくつかのゴスペルバンドでドラムの演奏を始めます。

 1942年、マックスは高校を卒業した18歳の時に、マンハッタンのパラマウントシアターで公演する "デューク・エリントン・オーケストラ" と一緒にソニーグリアの代理を務めるように呼ばれました。
 この頃、同級生だったサックス奏者の Cecil Payne (セシル・ペイネ)と 52nd Street, 78th Street&Broadway にある "Georgie Jay's Taproom" というジャズクラブに行き始め、演奏をはじめました。
 最初のプロのレコーディングは、サイドマンとして参加した1943年12月に行われた Coleman Hawkins (コールマン・ホーキンス) の録音でした。


ビバップを代表するドラマーの一人 マックス・ローチ


 彼は Kenny Clarke (ケニー・クラーク)と並んで、ジャズのビバップ・スタイルで演奏した最初期のドラマーとして活躍しました。


 マックスはジャズ史のターニングポイントと呼ばれる1945年11月のサヴォイレコードセッションを含む、パーカーの最も重要なレコードの多くで演奏しました。

この録音に関しては下記のnoteで詳しく触れています。


 マックスの録音で特に高い評価を受けたのは、パウエルのトリオでの速いテンポでのブラシを用いた録音でした。

 ドラマーが使うブラシはこの様な道具です。

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 マックスはドラマーとしてのキャリアを積む中で、アフロ・カリビアン音楽への関心と尊敬を持つようになり、1940年代後半にハイチを訪れ、ハイチのアフロ・カリビアン音楽界の巨匠打楽器奏者である Ti Roro (チ・ロロ)に師事しました。


 素晴らしいリズムが聞けます。体が揺れ動くリズムとは正にこの事だと感じます。


おわりに

 ドラマー、マックスローチの生い立ちから初期キャリアまでをまとめて来ましたが、いかがでしたでしょうか。
 幼少期から音楽に親しみ、恐慌・戦争を潜り抜けてドラマーとして活躍を始めるマックス・ローチ。
 次のnoteでは彼のドラマーとしてのキャリアを掘り下げてみようと思います。

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