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Vol.2『西新宿/掌の記憶』 人生万景

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恩人と西新宿で別れたあと、握手をした手の平を僕は嗅いだ。

恩人が吸った煙草の匂いがした。

煙草の匂いは消えるけど、それ以外は消えない。朝まで手を洗い続けたとしても。

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そのコーチは僕のことを下の名前で呼んでいた。しかも力強く。下の名前で呼ばれるのは初めてだったから。親以外で。最初は抵抗感があった。

ボクシングジムを辞めるとき、お世話になったコーチと最後に握手をした。
握手は気持ちが伝わってくるから。嘘でもいいから強い握手をしろ、そんなことを言われた。それでも気持ちは伝わっちゃうけど、とも。言われたからそうした、そんな握手になってしまった。空っぽな、ただ力任せな握手になってしまった。19歳の僕は心を見透かされないように必死だった。全部わかってるんだからな、そのときのコーチはそういう目をしていた。ジムから出ていくとき、コーチは僕の下の名前を呼んだ。やはり力強く。これからは逃げるなよ。そう聞こえた。そう解釈した。コーチからの最後のご指導だった。

数年後、後楽園ホールでコーチを見かけた。パンフレットに目を落とすと、かつて僕が在籍していたジムの選手の試合があるらしい。失礼なことに僕はそのコーチの名前を忘れてしまっていた。挨拶だけでも、と思ったけど。握手をしたときに全部バレちゃう、と思った。近づけなかった。その代わりに、じゃないけど、かつて僕が在籍していたジムの選手を応援した。隠れるように遠くから。応援した選手は知らない人だった。知らない人でよかった、そう思った。負けちゃったから。知ってる人じゃなくてよかった、そう思った。知ってる人だったら勝っても負けてもどちらでも嫌だったと思う。当時の僕は。

それから数年後、かつて在籍していたボクシングジムのホームページを覗いてみた。これは比喩ではなく、本当に覗くように覗いた。ホームページを見る限りだけど、あのコーチはもういなかった。いたらどうしていたのかはわからない。とにかくもういなかった。残念な気持ちになった。でもなんだか安心した自分もいた。いなくなったから解決、したわけではない。ただ先延ばしにできただけ。

いつか会いたい人、そういう人は僕にもいる。ただ人生にとってそういう人たちはあまり重要ではない。会いたい人には会えるから。

いつかは会わなければならない人、そういう人たちのほうが僕には重要。そういう人たちは、自分から会いに行かないと一生会えない人たち。そういう人たちは、僕がいつかは謝らないといけない人たち。正直に打ち明けて、心から謝罪しないといけない人たち。そうしないと僕が一生前に進めない、そんな気になる人たち。逃げ切りたくない。逃げ切れないのもわかっているから。先延ばしにしても、必ず時々に思い出してしまう。僕は誰かと握手をするたびに、あのコーチのことを思い出す。

名前も憶えていないのに。顔もわからないのに。あの目は忘れていない。最後に僕の名前を呼んでくれたあの声も。

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恩人と西新宿で別れたあと、握手をした手の平を僕は嗅いだ。

恩人が吸った煙草の匂いがした。

煙草の匂いは消えるけど、それ以外は消えない。朝まで手を洗い続けたとしても。

これからも、僕の右手は誰かの右手で分厚くなっていく。




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