携挙研究③『前後どっちでもいい?』
携挙研究をする中で、度々このように言われることがあります。
①携挙が患難の前なのか後なのか、どちらでもよくない?大切なのは福音を伝えることだ
②患難前携挙が真理であるのは聖霊が教えてくれることで、聖書だけじゃわからない
生意気とは思いますが、ひとつずつ反論します。
①携挙が患難の前なのか後なのか、どちらでもよくない?大切なのは福音を伝えることだ
「携挙が患難の前か後かどちらでもいい、それよりも大切なのは福音を伝えることだ」「携挙が前なのか後なのか、自分たちが理解してなくてもその日になったらわかる。それを知ろうとするのは今やることではない。それよりも、救われるための福音宣教は今やるべきこと。」と言われることがありました。
確かに携挙が前であることを固執するあまり、福音を伝えないのであれば、もはや本末転倒。
でも、逆に「福音(キリストの死と復活)だけ伝えてればいい」は大きく違うかなと思います。
福音宣教で再臨は不可欠のテーマ
パウロはテサロニケの人々に、キリストが私たちの罪のために死んだこと、復活したこと、私たちにも永遠のいのちが与えられることを伝えました。
それだけではなく、同時に再臨についても伝えていたことがテサロニケの手紙を読む中でわかってきます。
"人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。"
テサロニケ人への手紙 第一 1章9~10節
テサロニケ教会の人々が、周辺の地域にもその信仰によって影響を与えていたようです。その結果として、影響が影響を呼び、彼ら自身がパウロたち使徒のことを知らせていました。
何がその地域一帯に知らされたかと言うと、以下の通りです。
①使徒たちがどのようにテサロニケ教会の人々に受け入れてもらったか
②テサロニケ教会の人々がどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったか
③テサロニケ教会の人々がどのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったか
使徒たち、すなわちパウロとシラス(使徒17:1〜)はテサロニケ教会の人々から受け入れられ、罪の悔い改め、キリストの贖い、まことの神に仕えること、そして再臨をテサロニケ教会の人々に伝えたことがわかります。
パウロは確実に福音宣教の際に、再臨を伝えています。
ちなみに、パウロが、テサロニケ教会に宛てた手紙は、彼らの再臨理解を修正するためのものでした。
テサロニケ教会の再臨理解は、生きている間にキリストをお迎えしなければならない、死者がキリストを迎えることができないというものだったと言われています。
それに対して、パウロは「むしろ死者こそ再臨の時によみがえり、先にキリストを迎えるのだ」と手紙で彼らの考えを修正しました。(第一テサロニケ4:13〜)
パウロは、テサロニケ教会の人と福音を語ったはじめの数週間だけしか面識がありません。手紙を書く時点で再臨理解の訂正をしているということは、当然、その数週間で再臨が語られたことを意味します。
やはり、パウロははじめに再臨を語っていました。
福音宣教において、パウロでさえも再臨を欠かさず伝えていたのなら、死と復活だけ伝えて、再臨は伝えないというのは聖書的に「福音宣教」と言えないと思います。
そもそも福音理解が、キリストの死と復活だけ伝えるというのは、福音の大きな一部だけしか語られていないと僕は思います。
福音とは何か。端的にいえば「神の国の到来」です。
"イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。"
マタイの福音書 4章23節
イエスキリストも、福音宣教をしていました。その中心は「御国(The Kingdom)」についてでした。そして、これを「福音」と呼んでいました。恐らく十字架の死と復活もどこかで語ってはいたと思いますが、どこにおいても必ず語っていたのが、悔い改めと神の国の到来についてでした。
私たちが神の国の到来を伝える上で、最低限、語るべき項目がいくつかあります。キリストが私たちの罪のために十字架で死に三日目に復活し、信じる者に永遠のいのちを与えるということについてはもちろんのこと、聖霊降誕、花嫁の装いを整えること(聖化といやし)、そして、再臨まで含めなければ、神の国を語り尽くすことはできません。
神の国は、花婿キリストが再び来て世界の王となることで実現します。なので、「福音だけを伝える」という言葉の中には、当然、再臨も含まれているはずです。
患難の前か後かはどちらでもいいのか?
「まぁ、わかった。再臨を語るのは大切だ。でも、患難前なのか後なのか、そんなことはどちらでもいいんじゃない?」
と思ったかもしれません。しかし、聖書が前か後かについて明言しているのであれば、読者はよく読み取るべきだと思います。
仮に前か後かについて聖書が明記していないのだとすれば、「どちらでもいい」ではなく「わからない。そこは神が語っていない」と言うべきです。
「どちらでもいい」というのは、明記しているかしていないかさえも確認していないことを意味します。
「そんなムキになって、細かく調べる必要ある?」
と思ったかもしれません。
この「前か後か論争」をしているのであれば、どちらの立場にあるにせよ、よっぽど聖書主義に立っていると思います。
聖書主義に立っているのであれば、聖書は付け足してもダメ、削ってもダメというのは当たり前だということはわかってもらえると思います。
また、「神の語ってないことは踏み込まない」と「神の語ったことはしっかりと一言一句受け止める」という姿勢もわかってもらえると思います。
であるなら、語られていないことについては「わからない。そこは神が語っていない。」と明確に言い、語られていることについても然りは然り、否は否、と明確に言うべきだ、ということもわかってもらえると思います。
「どちらでもいい」と評価するのは、神のことばを一部聞く必要がないと言っていることと同じではないでしょうか。
神の言葉をひとつも聞き漏らさないという姿勢は、私たち聖書主義者であるなら、あるべき姿だと思います。
確かに細かいことだと思います。面倒だと思います。しかし、私たちはその細かい教理、面倒ごとをしてくれた人たちの土台の上に立っていることも思い出さなければなりません。
私たちは三位一体を信じています。この教理は本当に細かく、患難前携挙説でさえ到底及ばないほどに細やかな話題です。
三位一体を明記したアナタシウス信条は42箇条あり、その最後に「これが公会の信仰であり、これを心から忠実に信じなければ救われることはありえない。」と書かれています。
クリスチャン歴30年経ってから、42箇条を読みましたが、正直はじめて読みました。今まで救われていなかったのか、と頭を傾げました。
しかし、私たちはこの土台の上に立っています。この細かすぎる教理を、最も大切なものとしてそして、掲げています。
それゆえ、それを一つでもズレてしまう立場にある人たち、特に今ではエホバの証人を、私たちプロテスタント教会は「異端」と呼んでいます。
過去において、この三位一体論の論争の中で、キリストは父なる神と同質(ギリシャ語:ホモウシオス)なのか、相似(ギリシャ語:ホモイウシオス)なのかという、二つの細やかな違いで大きく争ってきたそうです。
ギリシャ語だと「イ」があるのかないのか論争なわけです。
「どっちでもいいじゃん!」と思いたくなる気持ちも山々ですが、僕ら三位一体を正統とする立場であればそんなことは言えないはずです。
例えが極端にはなってしまいましたが、三位一体の理解が一つ違うだけで、聖書理解も大きく変わってしまいます。聖書理解が大きく違えば行動も考え方も変わってくるはずです。
パウロはテサロニケ教会の誤った再臨理解を訂正しました。その誤った再臨理解のせいで、彼らは生活が破綻し、落ち着いた生活ができなくなってしまいました。死んだ人のことでひどく落ち込んでもいました。そして、最終的には「キリストは私たちを見捨てたのか」と信仰さえも危うくなっていきました。
誤った再臨理解が、「今の私たち」の行動、考え方、信仰に危険を晒していたのです。
三位一体論においても、私たちが、キリストが神かどうかどちらでも良いと考えていたり、または神ではないと結論付けてきたのなら、もしかしたら「今の私たち」の行動、考え方、信仰は危険に晒されているのかもしれません。
パウロでさえも、再臨理解を正しく伝えようと努めました。であるなら、僕らも神に語られている中で正しく、細やかに、聖書を理解していくべきではないかと考えます。
②患難前携挙が真理であるのは聖霊が教えてくれることで、聖書だけじゃわからない
まず、「聖霊が教えてくれる」にはアーメン。次に「聖霊抜きで聖書は理解できない」もアーメン。
ただこの発言の「聖書だけではわからない」というのは「聖書には明言されていない」ということを暗に認めてしまっています。
キリストを信じる者は永遠のいのちを持つことができるというのは聖霊によって、恵みによって信じることができます。
しかし、聖書にはハッキリと「キリストを信じる者は永遠のいのちを得る」と書いています。
書かれていることを素直に受け入れること、それが聖霊の力です。
もし、書かれていないことを理解しようとするなら、それは一種の啓示、預言だと思われます。66巻とは別の何か預言が必要ということになります。
再臨理解は聖書に書かれている範囲内で十分です。そして、前なのか後なのかについても、書かれている範囲で信じるべきです。
患難前携挙説は「奥義」と言われることがあります。つまり、聖書の明記されているがベールに隠されていることだということです。
特にこの説を紐解く時に「ヨハネの黙示録」を根拠として語られます。
黙示録は多くの比喩があり、ダニエル書を中心として、多くの書簡を跨ぎながら、聖書全体を眺めて、ようやく景色が見えてきます。
ある意味、ぼんやりしているようにも見えます。聖霊から受ける知恵なしにはわかりにくいかもしれません。
ただし、聖書には明記されていることと思います。もし明記されていないなら、患難前携挙説は神が語られたことではなく、今、僕らはこの話題について「わからない」とハッキリ言い続けるべきです。そして、信じるべきものでもなくなります。
患難前携挙説が確かに「神の計画である」のなら、聖霊に教えてもらいながら、聖書だけでハッキリと伝えることができるはずです。
まとめ
患難前携挙説については、あまりにも細やかなテーマだけに、「もうどうでもいいよ」「調べるだけ時間の無駄だ」「もう面倒だからそういうことにしちゃえよ」と投げやりにしたくなる気持ちが沸いてきます。
しかし、神の言葉であり、神の計画であるのであれば、僕らはよくよく注意して、細かく調べる必要があると思います。
昔の預言者たちも、これから起こるキリストの来臨について細かく調べました。ベレアの人々もパウロとシラスの語る福音も素直に受け入れつつも、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べました。
"この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。"
ペテロの手紙 第一 1章10節
"この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。"
使徒の働き 17章11節
患難前携挙説が本当に神の計画なのか、僕は信じてはいますが、はたしてそのとおりなのかどうかは、まだ調べているところです。
もしかしたら、神が語られていないことかもしれない。であれば、もうこの話題は永遠に封じるべきだと結論がでます。
または、もしかしたら本当に神が語られていることかもしれない。であれば、聖書で明確に説明ができるはずです。
何よりも、すべてを理解することができるようにと、助け主である聖霊が私たちとともにいて、すべてを教えてくださると信じます。
"私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。"
テモテへの手紙 第二 2章7節