思索⑦『定義』
2024/11/14 作成
昨日、ついイライラしてしまった。
ANNのニュース番組で、「悪魔崇拝者の激増」という特集を見てのことだ。
こちら。
要約すると、チリではカトリック教徒が多く、最近信者数が半減、このキリスト教に反発してできた教団「悪魔の神殿」は悪魔を礼拝しているのではなく、「快楽、自由な生活を愛し、人間らしく生きること、人間性を肯定することをキリスト教が悪魔的と呼ぶ」ことから、これらの「悪魔的考え方」を肯定する宗教という意味で「悪魔の神殿」と名付けたそう。
自分が自分らしく生きることを当たり前とする多様性社会ならではの宗教だと思う。この発想や行動力、知性の高さは敵対関係ながらもカッコいいと思う。
それはそれとして、今回、イライラしたのはANNの表記内容だ。もしかしたら、本人たちの言葉をそのまま引用したものかもしれないが、とにかく内容がふわっとしすぎている。
とにかく定義が不確定だった。
「キリスト教は、快楽、自由な生活を愛し、人間らしく生きること、人間性を肯定することを悪魔的としている」とある。
特集内でも、「カトリック教徒」というのを記載しながら話していたが、「キリスト教は」というかなり大きな括りを使っていたことに違和感があった。
「キリスト教」とは何を指すのか?
暗に「カトリック教徒」を指しているようにも見えるが、「キリスト教」=聖書がそう教える、というニュアンスにも容易に取れる表現でもある。
また、「プロテスタントも含む、主にカトリック」という意味合いにも取れる。
もし、本当に「キリスト教がそれらを悪魔だと呼んでいる」なら全く問題のない真理だ。しかし、聖書は「快楽」「自由な生活」を否定しているのか?また「人間らしさの否定」「人間性を否定」しているのか?本当にそうなのか?
これらすべてのワードは、あまりにもふわっとしすぎており、定義が曖昧だ。その結果、どうとでも取れる表現をし、ただただ「キリスト教は人間嫌い」みたいなレッテルをしっかり貼ったにすぎない。
まず「キリスト教」とは?
全世界の「キリスト教会」と謳っている組織のことすべてなのか?それとも「聖書の教え」という意味なのか?それとも「(一部の)キリスト教」なのか?
例えば、僕はキリスト教のプロテスタントのメソジスト系のきよめ派に属すクリスチャンだ。正真正銘のキリスト教であり、三位一体を信じるいわゆる一般的なキリスト教だ。しかし、「自由な生活」は否定していないどころか、キリストによって完全に自由とされたと信じている。また、自分が自分のままで神の前に大胆に出ていくことができている。人間性を否定もしていない。快楽も度を越さない範囲を定めて楽しんでいる。しかし、僕はキリスト教だ。
となると、キリスト教は「自由な生活」を否定しているという話は間違いになる。
確かに今回表記した内容通りの考え方を持っている「一部のキリスト教」は存在する。しかし、これは僕の意見だが、それらの考え方は聖書が言っていることではなく、聖書のことばをかいつまんで作られたその集団独自の「思想」にすぎない。僕の解釈では、聖書の神は人間性を否定していないどころか本来の人間性を回復させていくことを望んでおられる。
つまり、ANNが表記した「キリスト教」というのは「全世界のキリスト教会」でもなく「聖書の教え」でもなく、「ある一部のキリスト教」を指す。さらに言うなら「チリのカトリック教会の一部」とまで言っていいように思う。(カトリックの中にも幅があるという意味で)
また、「自由な生活」とは何か?
たとえば、僕は自由な生活をしている。日本国民として国の法を犯さないことを前提に、自分の考え方、価値基準を持ち、仕事、恋人、友達、食事を自分で選び、楽しいと思うことを日々楽しんでいる。聖書は僕を縛るどころか、力と慰めと励ましを与え、むしろ生活を豊かにしてくれている。僕は自由な生活をしている。
恐らくANNが言いたい「自由な生活」とは、僕のいう「自由」とは違う。
もっと直接的に言うなら「性の多様化」「セックスフリー」「現在の法からの解放」を意味するのではないかと思う。
確かにこの定義なら「聖書はこれらを悪魔的とする」という解釈はかなり王道であり、恐らく多くのキリスト教徒は「その通り」とうなずくだろう。
今回のふわっとワードに対してイライラしたのは、ミスリードをわざと起こすためにしたのではないかと思える表記の仕方についてだ。
「キリスト教は自由な生活や人間性を否定する」と。
これは、定義が曖昧なので、こうも受け取れる。
「聖書やそれを信じる人たちは、くだらないルールに縛られ、本来の人間性、人間としての正しい在り方、より良い生活、人それぞれにある人権を悪魔と呼んでいる、非科学的な、非人道的な酷い宗教だ。」
「キリスト教は全員、不自由で、非人間的、人を人と考えないように教えている」
「だから、悪魔と呼ばれることの方が実は真理であり、救いであり、正義なのだ」
この表記を読んで、全員が全員そんな捻くれた受け取り方をするわけではない。それこそ、一部だろう。しかし、それが火種となり、広がる可能性がある。いや、それ以上に火種製造機としてANNのふわっとワードが今後も横行する可能性がある。
メディアはそもそも正しいことを伝えていないことも多く、誤解を与える表記も今までしてきたと思う。だから、今回もそのうちのひとつにすぎない。ある意味で、もうそういうものなのだろうと思う。
しかし、今回のこの表記を読んで、僕自身「定義が曖昧な主語」を使うのは誤解と不信感を与えることだと学んだ。
できるだけ具体的に、それも指差しで、的確なワードを使って伝えることが余計な被害をつくらないコツだ。
また、今後、誰かに何かを伝えるときに、この「定義の明確化」をすることを心がけたい。