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どうでもいいコト

こんばんは。堂ノ本です。
この記事は、上京直前に書いては投稿しそびれていたものです。
ここ最近、更新が途絶えていましたが、
また、気ままに再開しようと思います。では本編へどうぞ。

ふと時間が空いたので、少し書いてみようと思う。

2024年を迎え、この3月、ついに上京を控えている現状で、何となく心のどこかで、今この瞬間を蔑ろにしている感覚があって、ある種の戒めも兼ねて、何でもないこの文章を書き始めている。

というよりこの感覚は、上京をしようと決めた夏頃からずっとある感覚で、やはり一旦の区切りのような感覚を持っている。別に、東京に引っ越したからといって、映画監督の仕事が山のように転がってくるわけでもなく、あっちに行けばお金がいっぱい稼げるわけでもなく、単に必要に駆られて行くはずであるのに、なぜか、区切りを感じてしまっている。

思えば、私にとって「上京」というのは憧れの言葉だった。

奈良の吉野の、小さな街で育った私にとって、生まれ育った街が窮屈に感じられた小学校時代、早く都会に出たかった。自宅から毎日電車で二駅先の小学校に向かう日々だった。吉野行きの急行、といっても各駅停車の急行だ。私は、反対側のホーム、大阪阿部野橋行きに乗る高校生に憧れた。あっち側とこっち側、単に大阪に向かうホームと、より奈良の南部に向かうホーム、その差であるはずなのに、小学校の頃の自分には、大きな大きなことのように感じられた。

だから小学校の帰りに、そのまま塾へ通うのが楽しかった。塾は大阪阿部野橋行きに乗って、橿原神宮前が最寄り駅。ある程度勉強のできた私は、そのうち大阪の上本町駅の特進コースにも通うようになった。

奈良の田舎町で育った小学生にとって、それは大冒険だった。そういえば、小学五年生の頃、友達と電車で京都旅行に行った。電車オタクの友達が、色んな駅の時刻表を欲しがって、何度も何度も途中下車して、京都に着いた。私は電車になんて興味はなかったけれど、生まれて初めて自分たちだけで遠出することに妙な興奮があった。京都について、京都タワーに上った。京都の駅ビルでお土産を買った。

で、大きな体躯の男たちが疲れた顔をして土産を選んでいるのに驚いた。「邪魔だ」と言われ、少し肩を押され、子供ながらに怖くなった。あぁ、都会ってのは怖い世界だ、と感じた。

そこから中学生になって、頻繁に難波や梅田に遊びに行くようになった。小学生の頃に憧れた大阪阿部野橋駅は、遊ぶための乗り換え場所に変わった。やがて反抗期に差し掛かり、中高一貫校に通う私は、ろくすっぽ勉強をすることもなく、目下集中事項は、女の子とセックスする事、タバコや酒を友達と楽しむ事、どれだけ向こう見ずな挑戦ができるか、この三件に絞られていた。夜中に友達と溜まって、PSPでゲームしながら、豚メン片手にタバコと缶チューハイ。だいたいパトカーがゆっくり近づいてきて、私たちは三方に別れて逃げた。男3人女3人とかだと、もう逃げる瞬間にお互いの相手を決める。逃げた先でテンションが上がって、そのままセックスする。そんな時間が楽しかった。バカだけど、楽しかった。

けれど、周りの公立校に通う輩たちも、そろそろ高校受験や就職を考え始めた時期、私に大きな転機が訪れた。

詳しくはこの記事に書いてあるのだが、とにかく、私の非行時代は突如として終わりを迎え、高校受験に邁進することになるのだが、久方ぶりの勉強は
楽しかった。親が、家にずっといるのも何だし、近所の塾だと「あの子は私立を辞めさせられる」とか噂が経つのを嫌って、遠くの塾へ通わせた。

私は、塾が開くまでの時間、その遠くの駅まで電車で向かい、図書館で勉強をして、塾に入った。だいたい8:00くらいから図書館で勉強して、10:00に塾に入る。で、22:00くらいまで自習を続ける。本当に毎日続けた。そんな日々を続けられたのも、上の記事の出来事が大きかったのだが、それ以上に大きかったのが、私の個別指導を担当した先生だった。

その先生は確か、大阪市立大学の学生だったのだが、勉強熱心な私を見て「お前、都会に出たほうがいいぞ。東京とかに出たほうが絶対いい」と何度も言ってきたのだ。先生は大阪にいるやんけ、と憎まれ口を叩いたのだが、「俺はそれでいいんだよ」と、笑っていた。先生は、メガネをかけた長身の爽やかな青年で、今までヤリラフィーなダメージジーンズとか、金髪ピアスとかばかり見てきた自分にとっては、新鮮な人だった。普通に格好よかった。そんな先生が、東京を口にするのだから、さぞ面白い場所なんだろうと、期待が高まった。

余談だが、この時の感情を持って、私は実はゲイなんではないかと本気で思った時期がある。今だにその結論は出ないが、この先生の授業を受けていると、何だか胸がドキドキしたのを覚えている。

で、まぁそれだけずっと勉強していると、当然大抵の問題は解けるようになる。私立に通っていた影響と、自分の非行のせいで、内申点がすこぶる低く、「その内申ならここくらいしか」と思っていた志望校も、いつしか4ランクくらい上がっていた。で、私はより自宅から遠くて一番ランクの高い高校を選んだ。

高校に入ったはいいのだが、想像していなかったのが、周りとのギャップである。ヤリラフィーな輩どもとばかりつるんできた自分にとって、進学校の人間は、本当に話が合わなかった。部活に入っても、何が楽しいのか全く分からず、男友達が恋愛に悩んでいる話も、ままごとのように感じられた。さっさとデートに誘って、セックスしろよ、と言い続けてたら、知らぬ間にクラスでは変な枠になっていった。確かに変やつだ。学年で常に上位の成績を残しながら、一生セックスセックス言ってる狂人だ。頭のいい女の子たちは、珍獣を見るかのように話しかけてくれ、いい思いをさせてもらった。

と、そんな話はさておき、この頃は中学時代の塾の先生の言葉を間に受け、志望校を一橋大学にしていた。理由は、文系のほうが楽そうだし、東京大学って言うよりは、なんか尖ってていい、というだけの話なのだが、学校の先生は、さぞ期待を寄せていた。

そうこうしてるうちに、二年生になり、私の成績はこの頃飛ぶ鳥を落とす勢いだった。というのも受験勉強以来、勉強が楽しくなって、一生塾に通い続けていたからである。当時流行だった東進の東大特進コースにお呼ばれして、全科目無料で受けられるからと、何度も通っていた。単にテレビでよく出ていた林修が見たかっただけで受け始めた授業も、確かに面白く、それから東大を目指す奴らの会話の面白いったらなくて、毎週のように通っていた。で、当然この頃には志望校を東大に変更しており、より先生の期待も素晴らしく(東大はそうそう出ない学校だったので)、私は鼻高々だった。

が、またしても転機が訪れる。それが東進の塾内で募集されていた中国の清華大学への留学に応募したことである。応募要項は、塾内の成績と作文だけだったので、これなら作文には自信があったし、無料で行けるんなら出してみるか、と。そして、無事に通ってしまう。

最後の面接みたいなやつで、東京に出向くのだが、これが人生で初めていった東京への旅である。交通費も宿泊費も出るというから、新幹線で行き、いいホテルに泊まった。この頃には、私の映画熱も爆発していたので、思い当たる限り色んな映画館にいった。ヴェーラとか早稲田松竹とか、ロサやら思いつく限り全て。楽しかった。東京、最高、となっていた。

そして面接も無事に通り、高二の夏、中国に留学する。

中国の清華大学というと、それはそれは大変賢い大学で、世界ランキング的なやつで言うと、東大より全然上だったから、ものすごい期待をしていったのだが、その期待を大きく越える人間ばかりだった。

我々は中国語は話せないので、日本語学科の学生と関わることが多かったのだが、あっちの学生は異常だった。正直、日本人より日本語がうまかったし、見据える先が違った。漠然と東京の大学に行こうか、と思っていた自分とは違い、「中国を出て〇〇という分野に携わりたい」とかほとんどの学生が明確なビジョンを持って、進路を考えていた。

田舎に残って、土木でもやるか〜みたいな人間か、勉強してできるだけいい大学に!みたいな人間ばかりと関わっていた自分にとって、こんなにも明確に自分のやりたいことを語れる人間がいるって、と、感動した。

と同時に、自分も考え込んでしまった。

そうして、私は東大志望をやめた。
東進主催の留学だからきっと、目的はより東大とかそういう大学に志望の目が行くように、みたいな価値観があったのだろうが、私は見事に逆を行った。

「映画がやりたい」
この留学を経て、初めて自分の中に芽生えた感情だった。

で、日本に帰ってから色々調べる。そのまま就職するのもありか、現場に飛び込んで叩き上げで、でも、今の主流は映画祭とかで実績を作ることか、なんて、今まで見ることしか考えていなかった人間が、作ることを考えだした時、可能性は無限大だった。

で、私が選んだのがアメリカのハリウッドの映画を学びたい、ということだった。あっちで学べばどうにかなるだろう。そのためには、まず高校を辞めよう。行っても意味が無い。そんな馬鹿な結論になる。

深く考えていない愚の骨頂のような結論なのだが、大マジだった。すぐに担任に退学の意思を示して、アメリカに進学するには、それに有利なところの方がいいと話すと、大問題になった。そりゃそうだ、向こうからすると寝耳に水なんだから。で、親まで呼び出されて大騒動になる。親からは、頼むからアメリカはやめてくれ、お金がない、と言われる。結局、全員からの猛反対にあい、目論見は失敗するのだが、もう猪突猛進な私は、受験勉強への興味が失せていた。

ちょうど高三一発目の模試で、思わぬ成果を上げる。河合塾か駿台か、何かの模試で、たまたま全国一位の成績を出してしまうのだが、それが鬼に金棒になった。1位を取ったのだから、自由にさせてくれ、と、そこからは映画三昧の日々だった。学校の行き道でも帰り道でも映画館に行って、塾に入れば配信で映画を見まくった。

そして、大学受験を無事に?突破し、色々経て、一年後に大阪芸術大学の門戸を叩くことになる。そして、今、ここに自分がいて、これから東京に出ていく。

東京に行けば、まずは恋人との同棲が待っている。そして近いうちに結婚が待っている。今までの大学の職員というのんべんたらりんな肩書きは捨て去り、遂にフリーランスの荒波の中に入っていく。どんな東京生活が待っているのだろうか。まさに、第二章。ブルージャイアントでいうところの、ここからシュプリームが始まるのだろう。楽しみな反面、不安満点。

そんなどうでもいいこと。

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堂ノ本 敬太
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