映画業界 ハラスメント体験記【奴隷日記#3】
2019年秋、J太郎が遂に爆発する。
そろそろ外でダベるのがしんどくなって来た季節の話。この頃、一つ上の先輩、スナフキンと私とJ太郎の三人でよく一緒にいた。スナフキンは卒業後、東映に入社する美術部の先輩で、ポンコツながら愛嬌のある人間で、「飲みに行こうよ〜」と纏わりついてくる姿が脳裏に残っている。いつも木陰から手を振っていた印象があり、私は彼をスナフキンと呼んでいた。見た目は完全にアカルイミライの浅野忠信だが。やはり黒沢清が好きなようで、美術監督の安宅紀文さんを崇拝していた。
スナフキンの登場には”産学協同映画”という企画が関係している。この企画は#0で説明済みなので、まだの方はぜひ。
ちょうどその頃、アキさんのチーフ助手として、J太郎は正式に「手伝え」と頼まれる。基本的に、この産学協同映画『虹の彼方のラプソディ』というのは、参加者自由の志望性なのだが、J太郎は唯一、強制参加させられた学生だ。その美術部でJ太郎の下についたのがスナフキン。そして私はというと、その作品で演出部のいわばサード的立ち位置として、美術・小道具周辺を担当することになり、やや職業的に付き合いが始まった。
その企画が始動し始め、2稿か3稿あたりを受け取った頃、我々は飲み会に頻繁に行くようになるのだが、スナフキンがバイトだか彼女だかで来れなかったときのこと。私はJ太郎と初めて、サシで酒を交わした。ちょうど『濡れたカナリヤたち』が整音を終え、完成したあたりだった。その時の冒頭をよく覚えている。
J太郎「濡れたカナリヤたち、お疲れ様」
私「いや、そちらこそ」
J太郎「大変やったけどやってよかった。ほんまにありがとう」
私「だからこちらこそやって笑」
J太郎「でも、なんであんな殴られなあかんのかな」
私「え?」
J太郎「ああいうの嫌やねん。経験とか修行とか理由つけて、殴ったり怒鳴ったり。俺は絶対上に立ってもあんなヤツにはならん」
私「J太郎が殴ってんの見たらわろてまうわ」
J太郎「殴られんのも嫌やけど、デザイナーのくせに図面も書かへんし。今度見せるからって見せられた事ないし。第一、殴らな理解させられへんってどういうことなんか意味わからんのよ」
ここまでハッキリと、アキさんへの嫌悪感と怒りを口にしたのは、初めてのことだったと思う。この頃になると愚痴の類は浴びるほど聞いていたが、ここまでハッキリと”嫌だ”と話したのは初めてのことだった。
ただ関わりたくなくても関わらないと、大学でロクに撮影できないというジレンマがあった。
その上『濡れたカナリヤたち』での師弟関係のような光景は、周囲の学生や教授陣にも浸透しており、アキさんも「俺の子」と宣言するようになっていたので、余計に関わりを閉ざせなかった。
私とJ太郎は、この産学協同映画(以降、産学と呼びます)が終われば、徐々にアキさんとの関係を薄めていこうと話し合い、「産学が終わるまで」を合言葉にその日は別れた。
怒りのアキさん!「シゴキ宣言」
J太郎は、その頃を境に、やはりアキさんへの嫌悪感を如実に出し、以降の産学の準備作業でも、 アキさんには殆ど頼らなかった。言われた作業をこなしはするが、むしろ反抗的に「どういうことですか、なんでですか」と言ったりすることも多々起こり始める。また、『濡れたカナリヤたち』ではパシリのように、飲み物や弁当を買いに走っていたJ太郎も、この頃はその時間が休憩タイムだとばかりに、ゆっくり向かうようになっていた。
無論、アキさんもその態度に気付き始める。クランクインが近づき、美術部の準備作業が慌しくなってきた頃。
アキさん「あいつ最近自信ついてきたんやろ、俺にもできるって意識が芽生えてきて」
私「まぁそうなんですかね」
アキさん「でもそんなクソみたいな自信、なんの金にもならんって分からせやなあかん」
私「?」
アキさん「3月にな、俺が商業映画で美術をすることになったんや。それにJ太郎もつれて行こうと思う。だから、この産学で色々学ばせてハッキリと助手とはこういうもんやって教えてやろうと思う。んで、3月の現場で、より叩き上げてお前らの卒制までに美術としてマトモにしたるから」
私「J太郎はその現場行きたいって言ってましたか?」
アキさん「俺が連れて行くんやから、聞くまでもないやろ。でもまぁ、この産学で助手の仕事に耐えられたらの話やけどな。終わったら俺の声でイケるようになるんちゃうか(爆笑)」
この日を境に文字通り、アキさんのシゴキが始まる。確かに美術助手としての仕事のやり方も教えてはいた。まず台本を読み込め、スケジュールを把握しろ、演出部の意図を理解しろ、言ってることはごく普通の正しいことなのだが、アプローチがモンスターであった。
エスカレートする暴力
「このシーンの消え物なんや?」
「お茶になってたと思います」
「アホか!ウーロン茶じゃ!書いてあるやろ!(ボコっ!!)」
こんな風に、もはや躊躇なくJ太郎は殴られ始める。どうも納得できず台本を読むと、烏龍茶なんてどのト書きにも書いていない。前の稿を読んでみると、確かに「烏龍茶」と書いてある。おかしい。読み込んでいればその変更には気づく筈だ。読んでないのはどっちだ。
「いついつ何時にどこどこ、この日はあれやって、これやって、次の日までにこれやって、この日までに並行してあれとそれをやっとけ。んで消え物はこれとこれとこれを買い出して云々」
「(慌ててメモを取りながら)確認してもいいですか」
「お前、アホか。甘すぎじゃ」
とまたしても殴りつける。カナリヤの建て込みの頃と同じような状況だ。
ただ、カナリヤの頃より救いがあったのは、愚痴を零す相手としてスナフキンがいたこと。そして、目撃者はスナフキンと私とツイマ君(ツイマ君は特機部だが、人手不足で美術部も兼任)しかいなかったこと。周りの人間の目がないことは、J太郎にとっては惨めさが薄れる要因になっていた。が、これはアキさんにとっても好都合だった。次第に青タンをこさえはじめ、肉体的なダメージは、どんどんエスカレートする。この時期、J太郎はバイク事故で脇腹を怪我していたのだが、アキさんは嬉しそうに、その脇腹を指で押しこむのが日課になっていた。
そういえばこの時期、アキさんに笑顔が生まれはじめる。彼曰く、「慕ってくる学生が久しぶりに現れて、大学が楽しくなってきた」そうだ。「痛いか?」と笑顔で殴り、「でもお前が悪いよな?」「はい、僕が悪いです」と答えさせる姿は、そのエスカレートが如実に見える光景だった。
「訴えてもええけど、お前の人生なんか簡単に潰せる」
これはこの時期に、口癖のように話していたアキさんの言葉である。私やツイマ君やスナフキンは、冗談として捉えていたが、問題しかない発言だと思う。当事者にとっては、どれほど救いのないセリフか。もはやこれは、パワハラ云々ではなく、脅迫である。高等教育機関で、教える側の人間が、まさかこんな発言をするとは。
それから、3月の現場の話もひどい。J太郎は腐っても美術志望だ。商業映画の現場にフル参加できる、正式なスタッフとして参加できる、こういう機会をチラつかせられると、やはり期待してしまう。そんな彼に、殴ったあと、決まって「嫌やったらやめろ」「やめたら現場も連れて行かんけどな」「いつになったらやめてくれんのよ」と話していた。これではやめたくてもやめれない。「自分が耐え切ればいい」こういう思考に陥らせる、最低の言動だ。
もう一点、彼の巧妙な手口がある。頻繁に飲み屋に連れて行ってくれるのだ。「金なんか気にせず食いたいもの食え」とたらふく食わせてくれる。浴びるように酒を飲み、馬鹿話で盛り上がる。貧乏学生にこれほど効果的面の手段はない。こうなると私たちは、なんやかんや学生思いの優しい人、とアキさんを許してしまいそうになる。全く、書いていて惨めな限りだ。
そして極め付けが、彼が学内で教鞭を執っているということだ。正確には講師でもなく、技術指導員なのだが、縁を切る=大学での生活が不安定になるのは目に見えている。現にアキさんに嫌われた学生はロクにスタジオを使えなかったし、スタジオ周辺に来る事さえ憚られていた。こと産学においても、「美術部」で届出を出した学生が、「こいつは嫌い」というだけの理由で「撮影部」に回されていた。これは他の教授陣も共犯の行為と認識している。無論、美術部志望のその学生は、カメラの知識など当然ない。結果、産学にはロクに参加できなかった。一人の学生の学びの機会の損失、これは由々しき事態だ。
これらの一連のパワハラを見ているからこそ、余計に「逃げ出す」選択が取りにくい。
事実「もう産学をやめたい」と口にするJ太郎も、これが要因で、結局その選択を取れなかった。私自身やツイマ君も、後の大学生活を考えてしまい、J太郎に「耐えてくれ」と言ってしまっていた。救いがなかったと思う。本当に後悔している。
ハラスメントの告発、不発
実は、準備段階でのアキさんの暴力を、私は演出部に告げ口していた。演出部の後輩にせよ、先輩にせよ、それが教授陣のいる前であっても。出来る限り大きな声で、逐一話すようにしていた。誰かが注意してくれればという思いだったのだが、そのすべての場面において「まぁアキさんはそういう人だから」「美術部はそういう部署だから」「皆そうやって成長して行く」と笑い話になるばかり。この段階で、これはアキさんの問題ではなく、学科全体、映画界全体での空気感なのだろうと理解し始める。
同時にこの頃、私は頻繁に教授陣の飲み会に参加するようになる。おそらく、演出部として、準備の段階から殆ど全ての工程に関わっていたからだろう。自ずと、教授との会話が増え、脚本の改稿の打ち合わせなど、他の学生が参加できないものにも参加した。一度教授会みたいなものに出席したのは、非常に面白い経験だった。
まぁ、とにかくそういう飲み会の機会で、機を見計らって、アキさんの行動を直接伝えたり、ごくまれにアキさんが参加した時は、「あの時のJ太郎はだいぶ辛そうでしたよ」と周りに聞こえるように、アキさんに話していたのだが、いずれの機会でも問題にされることはなかった。
「改善してください、対応してください」とは言わなかったが、当然何かしらの行動はあるものだと思っていた。なぜなら”産学”という企画は、「学生が主体となって映画を作る」と宣言された物で、当然その主体の学生に、何か問題を抱えている者がいるなら、組織として是正するのは当然の理だと信じ込んでいたからだ。そもそも大学という場を抜きにして考えても、権力のある人間が、下の人間に日常的に「暴力」を振るい続ける、そういう状況は異常でしかない。それが大学であれば尚更である。普通の人間ならJ太郎を心配するのだが「映画ってそういうもんだから」と、結局話は流され続ける。
その頃の私のスケジュール帳を見返すと、おびただしい数の「正」の字が記されている。これは、私がアキさんの暴力を目撃した数をメモしていたものだ。私は、この期間、演出部で作業している時間が大半だったが、数えてみると109回あった。2020年2月、約1ヶ月の数字だ。私が美術部に会うのは昼と夕方の二回程度なので、その殆どで目撃した計算になる。そしてこれほどまでの日常的な暴力を、誰も問題にしない。映画という代物がいかに異常なものか、いや私は映画とは全く関係ないと思うが。
とにかく正気の沙汰ではない。
ここからは、今回の大幅な加筆に合わせて、これまでJ太郎と話した生の声を、まとめます。今回は、『濡れたカナリヤたち』に関しての感想や想いを会話形式で進めます。アキさんとの出会いを詳しくまとめたり、映画制作に向かう学生の生の姿がわかります。ここでしか聞けないリアルな言葉があります。ぜひ、購入検討してみてください。
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