猿真似で始めた無言日記
『無言日記』というタイトルを聞くと、voidマガジンで連載されている三宅唱監督の『無言日記』が想起される人が多いだろう。
三宅唱監督の簡単な紹介
三宅監督は、最近『きみの鳥はうたえる』と言う映画で、ようやく多くの世間の目に触れたけれど、映画好きの間では知っていて当然の日本を代表する映画監督だ。私は彼のフィルモグラフィのほとんどを、というか、Wild Tour以外の全てを見ているが、なかなかレンタル化されていなかったり、配信も少ない監督なので、ぜひ近くの劇場で上映の機会があれば見に行って損のない監督だ。
中でも『THE COCKPIT』という作品は、ヒップホップ界ではお馴染みのOMSBやBim、VavaやHi'spec、Heiyuuという豪華メンバーの作曲、レコーディング風景をただ記録した最高の映画がオススメ。夜に一人で彼らの曲に乗りながら、酒を飲むのが尚おすすめだ。
本題の無言日記について
で、本題の無言日記について。これは三宅監督が2014年くらいに突如始めたもので、別に企画でもなければ、ハッシュタグのように使われるものではない。ただ、定期的に監督が自身の日常風景をスマホで撮影し、切って貼って、繋げただけの映像日記。いわゆるVlog的なものだ。
ぜひ、一度見てみてほしい。彼がどういう感覚で初めて、どういう映像を撮っているのか、非常に面白いので。
なんとなく気分的に、気軽にビデオを回したいと思っていた。正確にいうと、回しといたほうがなんとなくいいかも、というかんじ。
ひとまずiPhoneで、なるべくテキトウなときにまったく無理せず、気の赴くままに撮影をしてみた。
私の無言日記
三宅監督自身は、こういう風に記事にも書いている。つまるところ、本当に私的な映像日記なのだろう。けれど、私はこれを見て、すぐに自分でもやってみたくなった。
で、三宅監督がやっているように、テキトウに全く無理せずに、赴くままに日常を切り取ってみた。一応毎週毎週、撮るたびにInstagramのストーリーで共有しながら、なんやかんやで2年間続けた。もちろん、その間にも忙しくて取れなかった時期や、面倒でやめていた時期もあったり。けれど、見返してみるとなかなか興味深くて。例えば、夜に撮影してることが多いなぁとか、誰かが近くにいるときにとっている事が多いなぁとか、そんな他愛もないことから、例えば、親子が横断歩道を渡る瞬間、それに男同士の友人たちが駅で別れる瞬間、そんなどうでもいいけれど、何か大事なものを見てしまった瞬間が収められていて、思わずエモくなった。
やっぱり大阪芸大に通っている間は、大学のスタジオでタムロしていた時期や、映画制作の準備の時の映像が多くて、この時はこんなことをしていたんだな、とか、こういう奴と関わって、多分こういうことを思っていたんだな、と思い返されて、意外と映像日記になってるじゃないか、と面白かった。
一つ一つのショットは、数秒間しかないけれど、人というのはその数秒だけでいろんなことを思い出せるものなんだ、と不思議な気持ちになった。私の無言日記はともかく、三宅唱監督の映像は、実際に映画館で上映されているように、まさしく映画として成立している。そう思うと、例えば、今長ったらしく書いているこの文章も、例えば、こないだ公開された70分の映画も、本当に必要なものなんだろうかと思える。もし本当に、たった数秒の映像で、「映画」というものが成立するのだとすれば、そして全く関連のないバラバラのパズルのような映像の集積が、ドラマを生み出すのだとしたら、一体「映画」とはなんなんだろうか。
ふとそんなことを考える。
数秒の映像が起こす奇跡について
私はたった数秒の映像が、脈絡なく編集され繋がれた、あの『無言日記』を見て、涙してしまったタチだ。それは、どう考えてもジョン・フォードのソレと変わらぬ感動だったし、無言日記を眺めながら、これは私が見たかもしれない日常だったのかもしれないとさえ思う瞬間があった。
私は猿真似で始めただけの映像日記なので、例えばこれを劇場に、なんてことは考えもしていないし(無論、三宅監督も当時はそんなこと考えてやっていなかっただろうが)、これからも続けようか悩んでいる(三宅監督は連載のためにある程度義務感めいたものはあるかもしれない)。けれど、本当に”映画”監督なのであれば、ソレがたとえ飾り気の無い、単なる日常の風景であっても、その切り取り方、切り取る場所や時間など、その全てを無意識に選択してしまい、そして”映画”にしてしまえる。
たった数秒間の映像が奇跡のように”映画”になるのだ。
ソレは始める前から思っていたことだけれど、いざやってみると、私にはまだできなかった。生来の映画監督では無いのだろうと思う。けれど、続けていれば、いつか”映画”というものを掴めるのではないか、と思う。そんな簡単なものではない、と怒られるやもしれないが、テキトウに無理なく、赴くままに撮った、ただの大学生の日常風景であっても、何らかの起伏を私自身は感じた。その証拠に、Instagramでは数人の友人が楽しみに待っているなんて言ってきた。それは少なくとも、その人たちには私の日常が心の何らかに刺さって、「楽しみに待つ」という選択をさせたということに他ならない。掴めるやもしれない、そういう曖昧な希望が見えただけでも、やった価値はあったと思う。
それに何より今回、自分で見返していて楽しかった。だから、これからも無理なく、赴くままに続けようと思う。やらねばなんて意識を持たずに、月に一回でもここに放り投げてみようかと思う。毎度毎度、映像とともに少しだけ文章をつけて。まぁ、「新人映画監督の次回作までの日常」と考えれば、少しばかりは需要もあるのでは?
まあとにかく、そんな感じだ。ぜひ、これを読んだ誰かも、三宅監督の連載記事を見て、やってみてほしい。彼も第一回の記事書いているように、
そのときやらその合間やら、仕事したり遊んでいる間にちょこまかと撮ったり、うっかり撮り忘れたりした。一番愉しい瞬間にはカメラなど出さないし、面倒なときもわざわざ撮らない。みなおしてみると、女性、こども、動物、動くもの……くらいしか映ってなかった。天気とか。
いざやりはじめると、やはりいちいち抵抗感もあった。隠し撮りみたいになるし。正直、予想以上になにもないし。
本当にとっている間は意外と何もない。それをまとめて編集してみると、面白かったりする。興味深い体験だった。