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日々の断片

8月にビザの申請に通って、ビザセンターからパスポートが返却された。パスポートにはビザ申請に通過しましたよみたいな証明書が貼ってある。昨年も同じような証明書を貼ってもらっていて、見てみたら着ている服が同じだった。でも、今年の証明書に載っている顔写真の方がきりっと、しっかりとした顔だちをしていた。何個もあるパスポートの顔写真、ビザの顔写真を年齢別に並べて思う。私はこんなに大きくなりました。


インターンの服装がオフィスカジュアルなので、別にハイヒールじゃなくてもいいかと思い、パンプスで通っている。私の足は背丈の割に大きくて、女なのに25cmある。なのに、パンプスは足がより一層大きく見えるポインテッドトウの形のやつを履いている。購入したパンプスが若干大きかったのだろう。パカパカする。たまにうまく歩けずに蹴つまずくことがある。月曜日の朝に、ただでさえ不機嫌なのに、蹴つまずいてパンプスの先っちょの布が破れてしまい、一層不機嫌になりながら電車に乗った。電車は予想通りの満員電車で、人を潰し、人に潰されながらインターン先の最寄り駅まで行った。身体じゅうから殺気と不機嫌さをまき散らしながら地上に出たら、風がふわっと吹いてきて、入道雲が出ていて、空は青くって、一気にご機嫌になった。私はそこまで上手ではないけれども、ご機嫌取りはうまいに越したことはないなと思った。


沢山の友達と会っている。海外の大学に進学した友達とも、日本の大学に進学した友達とも。人と会うことを億劫に感じる人間だけれども、会った後は会ってよかったなと感じるのだから、不思議な人間である。


国際関係論を日本語で読んでいて、'人間は「労働力」ではなく、政治的、文化的な存在である。'(中西、石田、田所. 2013)と書いてあった。まさにその通りだよなと思った。経済学とかだと、人間は労働力として数えられるそうだけれども、人間とは生物であり、且つ、文化を持つ生物だ。陳腐な言い方しかできないけれども、はっとさせられる一文であった。


なんであんなことしちゃったんだろうと思うことがある。なんで、こんなものに申し込んでしまったのだろう。なんで、このアルバイトを選んでしまったんだろう。なんで、将来への影響を考えなかったんだろう。よく考えて行動しなさいと言われてきた。これは難しいことだ。小さいときは親が危険なものから守ってくれた。物理的にも、社会的にも。成人したいまは違う。自分は生身の人間として社会に曝け出され、自分のとった行動は自分にダイレクトに返ってくる。それが良いにしろ、悪いにしろ。成人する。言い換えれば、自由になるものが多くなるということは、その分、責任が大きくなったり自分でどうにかしなくてはいけないことが幼少期とは桁違いに増えたりするということだ。

大人になる。私は19で、法区分的には歴とした成人だけれども、社会的には大人じゃない気がする。安室奈美恵が平成に19歳を大人と子供の中間と置き、令和には、28歳の森香澄が、自らの年齢のことを、大人とも子どもとも言えない年齢と称したのだから、19歳の私はまだ大人と子供の間を彷徨っていてもいいと思う。だけれども、社会では大人として扱われ、山程ある手続きを自分でこなさなくてはいけなくなった。入学手続き、履修手続き、ビザの申請、銀行口座の開設、家の契約、授業料・家賃の支払い、航空券の購入。昔は両親がやっておいてくれた。今では全部私がやっている。当たり前なんだけど、一気にやるべきこと、責任を負わなくてはいけないことが増えて、責任の海であっぷあっぷしてる。


箱根駅伝の5区は2度目の方が1度目よりもタイムが悪いと言う。1度目は何も知らないからがむしゃらに登っていけばいい。2度目は違う。1度目のキツさを知っているから体が無意識のうちに走りをセーブしてしまうらしい。2度目の渡英もそうなのだろうか。不安だけが渦巻いている。

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