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冷却装置
部長『最近、調子がいいじゃないか』
いさお「いや、たまたまで」
部長『おいおい、いさお。そんなネガティブな言葉はいらないんだよ。絶好調です!とかもっと景気のいい言葉は出ないのかね。ポジティブな言葉じゃないと聞いているこっちもちょっと損した気分になるだろう』
こんな会話を部長とした。
部長はおじいちゃんである。時々ジェネレーションギャップを感じるときがある。
『調子はどうだ?』『絶好調です!』という部下との会話が好きな部長である。体調が悪くても「絶好調」と返すと部長は喜ぶ。
最初は「この気持ち悪いコミュニケーションの仕方は何なんだ!?」と思ったが、気付けば心の中は無表情になりながら「ぜっこーちょーです」と答えることができるようになっていた。
慣れっていうのは本当に怖い。
話を元に戻す。
今は部長に調子を聞かれたら「ぼちぼちです」と答えるようにしている。
体調が良いときなんてほぼない。毎日、少し吐き気がするし、胃腸の動きも鈍い。気持ちよく1日を過ごせた日を思い出すことが難しいくらいだ。
元々ストレスに弱い性質で、すぐ体調に現れる。朝起き、少し経ったくらいに症状が現れる。「はいはい、今日もきましたね」と思いながら、気分はどんよりと曇る。そんな日々を過ごしている。
仕事は体調に反比例してなぜかうまくいっている。特段頑張っていないのに、なぜか調子が良い。そんな気持ち悪い状況に陥っていることは、他人には知る由もない。
自意識過剰で、空回りしやすい。僕の性格には今の状況はしくじりやすい期間なのである。
訳が分からずうまくいく→自分って意外とできる人かも?と勘違い→さらに頑張る→気合が空回り→沼に落ちていく
落ちるときは一瞬で落ちる。焦れば焦るほど沼にはまったらなかなか抜け出せない。そんな絶望的な状況に社会人になってから何度も陥った。
「自分はできない子」と思い込むことにした。
この考えに辿り着いたのは小学生の習い事でやっていた、スイミングスクールでの出来事からだ。
数ヶ月に1回、進級テストがあった。基準のタイムを更新したら進級ができるシステムだった。
毎回タイム計測では更新できるあと一歩で基準を超えられなかった。泳ぐことは別に嫌じゃなかったから、心が折れたり辞めるつもりはなかった。でもタイムは1度でいいから更新してみたいよなぁと漠然と思っていた。しかし向上心がなかった僕はその後もタイムを更新できずにいた。
小学校を卒業するタイミングでスイミングスクールを辞めることにした。進級できるチャンスがあと2回と迫った。
もう、ここまできたら進級できないだろうなと諦めていた。周りの同世代の子たちはタイムに一喜一憂している。喜んだり悔しがったりする気持ちはもうない。タイムは期待しない。どうせ僕なんか……そう思いながらプールへ飛び込んだ。
好きだった平泳ぎを50m泳いだ。なんとなく体が軽く感じた。スピードもいつもより心なしか乗っている。ゴールをし、タイムを確認する。なんと、更新していた。
喜びよりも唖然としてしまった。できっこないと思っていたのにできてしまった。頑張らずして結果が出てしまった。
頑張れば頑張った分だけ結果が出ると、学校で教わってきたのに真逆の成果が出てしまった。小学生の自分にとってそれは衝撃的なことだった。
うまくいかないだろうと思うことは、自分にとって冷却装置のようなものだ。
調子に乗りやすい自分を客観的に見るために、自分に期待しすぎないための一種のおまじないのようなものだ。
暴走をしないように自制をかけるため、心のどこかにしまっている言葉だ。
他人が聞いたら、しっかりせえ!弱気になるな!と思われるのだろう。
打たれ弱い自分は、ほんの些細なことで凹む。だから弱気になったら、さらに深い闇に1人取り残される。
言葉だけを切り取れば、うまくいっているのに何をそんなにネガティブなんだ?って感じだろうが、ネガティブというストッパーをかけなければ自分を見失ってしまうのだ。
口では「絶好調です!」と言い、心の中では「たまたまうまくいってるだけで、この先はどうなるか……」と思えばいいだけの話なのだ。
しかし、そんな器用に過ごせれば、こんなことで悩まなくてもいい。