想うというもの
僕は互いを想い合いたい。
想うとは、ジャンルとしての恋愛ではなく、テクニックとしての傾聴でもない。
互いに今まで生き抜いてきたでしょう、ということ。
僕という人間に、生まれた所があって、育った場所があって、人も物も様々があって ―― 好む好まざるとに関わらず、それら全てが僕を形成したはずだ。
今僕のどこまでが生まれ持った性質で、どこからが育ってきた環境という要因であるのか。あるいは、今この環境が思い言わせているものなのか。
それらを明確に区切ることは出来なくて、しかし、自らを形成するそれら全て。背景とでもいったもの。
僕にその様な背景がある。
ならば、あの人にもその様な背景がある。
好きで一緒になって、嫌いになって別れることが人間であるならば、”好み”とはその時の気分なのだ。
もちろん、気分としては確かにある感触で、であれば、気分がその時々で変化することも確かに事実。
良し悪しではない。事実という、ただその所の話をしている。
好きよ嫌いよはもう終わった。
あの人が何によって築かれているのか、今僕はそれが知りたい。
睦言も呪いを吐くことも、一つの口から両者が紡がれることを認めよう。
あの人のその奥には、一体何が在るのだろうか。