roots
僕のルーツには二つがあろう。
先祖といった土着性。家たる祖先。
僕という一人。個人としての起源。
どうも僕は、家というものに呑まれ過ぎていたな、と思う。
それは個人的な経験もあるし、日本人が家という全体性を重視してきたという、文化的な背景もあろう。
どれか一つの責任・原因、という話ではない(が、個人的な事情というのは一旦置いて …… )。
日本人の全体性。
それではよくないだろうということで、全体ではなく人間一人ひとりを見ましょう、という流れが現代に起こってきたということ …… それは分かる。
けれども「昔は嫌だ」という同好の士を集めて気が済んでしまえば、それは伝統的な全体性の向こうに現代的な全体性を築き上げているという、それだけのこと。
個人としての僕。僕自身。たった一人の僕。
それはなんだ?
風変りをやるということ ―― やりたい人はやればいいのだけれど、その風変りさを僕自身とは呼ばない。
一人だけならば、それは独自なものに見えるだろう。だが、同じ風変りさが二人三人と増えていった時、たくさんになってしまったものとは独自さではない。
人数によって見え方が変わるもの。それは僕自身ではないだろう。
僕という存在がたった一つである、ということはわかりきっている。
わかった上で、それでも全体に呑まれる感じがするのであれば、これは外見とか思考法の問題ではない。
自他という存在への、感じ方そのもの。
僕は僕個人として生じた ―― その、起源としての感じ方を探りに行こう。
そして …… ルーツに二つがあるのなら、”母なるもの”にも二つがあろう。
一族。家族。家全体に及ぶ、包み込む母性的な感じ方。
僕という一人を産んだ、個人としての母親。
個たる母親の希求、という言い方はできるだろう。
けれどもそれは、母なるもののイメージとか感じ方とかいったもの。母の身代わりを求めているのではない。
故に、出会った女性をお母ちゃんに仕立て上げてはならないものだ。
祖先的・母性的なものばかりを感じ過ぎるから、反発して嫌い、時には憎む。
僕という独りを強く感じられるようになった時、わざわざ全体性を憎む必要はないのかもしれなかった。
ならどうやって?というと、それは本当にこれからのことだけれども。