「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問にあなたは答えられるでしょうか

※この記事を読む前に必ずお読みください

・はじめに、私は反社会的なことを支持しているわけではない。ということを言っておきます。

・内容を不快に思う方、おこる方もいると思うので、その時は遠慮なく、意見がある方はそれを伝えていただきたく思うこと、嫌だと思ったらすぐに見るのをやめることをお勧めします。

・あくまで哲学的な内容であり、机上の空論に過ぎないこと、私の人格には多少なりとも影響はあるものの、殺人およびそのような願望は現在持ち合わせていないこと。

・ネットにこのような問題を挙げるにあたって、非常に慎重な姿勢であることを私は示しているということ。

これらを理解したうえで、お読みになってください。


「なぜ人を殺してはいけないのだろう」

と一度でも思い悩んだことはあるだろうか。

1997年11月30日の朝日新聞朝刊に大江健三郎という人物がこうコメントした記事が書かれていた。

大江氏は、テレビの討論番組である若者が、「どうして人を殺してはいけないのか」と問いかけたことに対して、こう書いている。

「私はむしろこの質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、せいかくのよしあしとか、頭の鋭さとかとは無関係に、子供は幼いなりの固有の誇りを持っているから。」

と、大江氏はコメントした。

この文章は非常に不愉快だ。なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てる、それこそが悪いのであるといっている。正常な子供ならば、ふつうはそのような質問はしない。お前は異常者だ。そういっているのだ。

私がこの問題を知ったのは永井均著の『これがニーチェだ』という本からの知識であり、受け売りだ。

ただ、この質問自体は小学生のころに一度やったことがある。そう、そこで、私は先生からこの、大江氏と全く同じことを言われたのを今でも鮮明に覚えている。

私は、「なぜ人を殺してはいけないのですか。」といった。

すると先生は。「あなたは人を殺していいという風に教育されたのですか?そのような質問が出てくること自体が、道徳の勉強が足りていないのと同じです。」と答えた。

例えば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対して、

「あなたが殺されて、痛い思いをしたら嫌でしょう。それを人に対してやるというのは、どうなんですか。人にされて嫌なことは、してはいけないのではないですか。」このように答えられることもできるでしょう。

しかし、ここにも問うてはならない言葉が隠されている。「人にされて嫌なことは自分もしない」という部分だ。人は人と、共感する能力があるが故に、痛そうだとか、楽しそう、だとか、その他人が経験しているであろう感情を自分に置き換えることができてしまう。だから、これは非常に説得力のある言い分だと思う。

細かく考えてみると、「人にされて嫌なことはしない。されたらいやでしょう?」というのは、自分がされた時のことを考える=自分に対するデメリットを計算する。ということになる。そしてそのデメリット、ダメージを計算して嫌だなあと思い、それを共感し、やめるということになるのかもしれない。

この、意見がもしも正しいものだとすれば「デメリット、ダメージなどが絶対にないと言い切れる状態」だと、「人がされて嫌なことはしない理論」は。全く無効になってしまう。

思い当たるところでいけばいじめ問題だろうか。いじめっこは権力がある。だから「人にされていやなことは他人にしてはいけない」と教育されてきたとすれば、「自分は嫌なことを絶対にされない」と思ってしまっている子、あるいはそのような、いじめられる経験を持たず、痛みを想像できない子には、先ほど言ったような説得は通じないのではないのだろうか。そもそも、理解、納得できないのではないだろうか。

私はむしろいじめられっ子であったが、この言い分には納得できていなかったので、いじめっ子達が私をいじめていても、何の違和感も持たなかったし、実に小学校低学年から中学校卒業までつらい思いを相当してきたのだが、いじめをよくわからない理論で諭す大人たちが気持ち悪くていじめっ子の肩入れまでしたぐらいだ。それでは誰も納得できないと。

…話を戻す。「人にされて嫌なことは他人にしない」が通じないのはこのような場合もあるかもしれない。それは「もうどうなってもいい人。」吹っ切れてあきらめてしまったひと。自殺志願者などだろうか。あいつを殺す。反撃されても、殺されてもいい。なぜならあいつを殺して自分も死ぬ覚悟でいるからだ。

これは自分に降りかかるであろうデメリットが、結果得られるメリットを上回る、もしくは同じ場合のときに起きることかもしれない。だから「人にされて嫌なことは他人にしない。」理論は全く無効だ。守りたい自分などいないのだから。

このように絶対に守られる自信がある人間と、自分を守る意味を捨ててしまい何をされてもいい人 に対しては「人にされて嫌なことは他人にしない。」という教育は意味を為さない。

…いや、本当はこんなことを言いたいのではない、隠さず究極的な話をしよう。「人にされて嫌なことは他人にしてはいけない」のは、なぜいけないんだ。全く理解できない。別にしてもいいじゃないか。なんでいけないんだ。たとえ自分に、のちのちダメージがあったとしても、いいし、もしかしたらそんなものはないかもしれない。お天様は見ているからそんなことしちゃだめ?

…少し話が逸れるが、考えてみてほしい。人間は幸福な時間など不幸な時間に比べれば短いのだ。幸福であるより、不幸である時間のほうがずっと長い。そういう風にできているからだ。そうは思わないだろうか。

振り返ってみてほしい。自分が、自分を守るためにではなく、自分を肯定するために記憶を改ざんしているのではなく、純粋に、その出来事だけを思い返してみてほしい。幸せな時間と不幸な時間、どちらが長い?なぜしあわせな記憶だけ人は多く残り、ふしあわせな時間は忘却する?…そのような構造に人間の体がなっているからだ。これは科学的にも証明されていることだ。

もしも、それでも、幸福な時間がながいだとか、不幸も幸せも同じように忘却しているという意見を持っている人がいるのならばきっと私の言う話は納得できないだろう。だから、これについては何も言えない。

話を戻そう、お天様は見ているという言い分は、「後々罰がくるから悪いことはどこでも、誰も見ていなくともしてはいけないよ」ということだが、罰が当たった!と実際に感じる人が多くいたからこの言い分は古くから伝わってきているのだろう。私からすれば当たり前だ。

「だって悪いことをしてもしなくとも不幸はいずれ訪れる」

これが私の意見だ。いずれ訪れる不幸を罰とよんでいるだけに過ぎない。不幸な時間のほうが長いのだから、確率的に悪さをした後に不幸なことが起こることが多い。これに気付いた人間は、「人に見られていなくとも悪さはしてはいけない、なぜならお天様が見ているから、のちに自分に罰があたる」と教育された人は、悪いことはしてはいけない理屈が一層わからなくなる。

私が思うに道徳は法である。比喩でもなんでもなくだ。法というのは都合よくできている。正しい者のためにあるのが法である。だが、その正しい者も人間であり、人間は間違いを犯したり、勘違いしたりする不完全な生き物である。その不完全なものが、正しいもの、道徳にのっとり作った法は、本当に正しいのかという疑念がある。

誰かを傷つけてはならないのは、道徳だ。正しい倫理だ。私も同意する。

道徳は正しさの奴隷である。正しく生きるものを守るためにある。みんななぜ道徳を守るのか。そう教育されてきたからだ。反社会的に生きれば淘汰されると。

では、そもそも反社会的とはなんだ?それは道徳にそぐわないもの、法に従わないものだ。

ここで先ほど書いたことが理解できる人は思い返してみてほしい、。絶対に守られる自信がある人間と、自分を守る意味を捨ててしまい何をされてもいい人 は、どうなる?…答えはこうだ。すべての道徳教育、その言い分の外に位置している、道徳を求めないもの、必要としないものは、法などどうでもいいだろう。何の価値もないものだ。

だから法が守るのは、これの逆である。自分が傷つけられたくない、立場の弱い者、そしてまだまともに生きていたいと思う者を守るのだ。

法が適応され、それが正しいとされる世界なのは、立場が弱く、まだまともに生きていたい人が大多数を占めているからにすぎないと私は結論付ける。

法の本質は、大多数のものを守る、道徳に付き従う者を守るものだ。道徳に疑念をもったり、道徳に反感を持ったりするものは危険とみなす。法は社会だ。社会は法によって生かされ、法は社会がなければ成り立たない。それらを形成する重要な要素は道徳だ。道徳は多くの弱い立場の者が作った。この社会は多くの弱い立場の者の物だ。もしかすると、世間の印象とは逆に、強い者にとっては生きづらい世の中かもしれない。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」

考えてみてほしい。世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びを感じられなかった人が、ただ一度だけ、人を殺すことによって、生きる悦びを知ったとする。それは良いことだろうか。悪いことだろうか。

まず、いいことだ。と断言できる人は少ないだろう。それは私もそうだと考える。だけれどなぜだろう。なぜそれは悪いことだと思ってしまうのだろう。

自分がされたらいやだから?命は尊いから?


…人は幸福を求める生き物だ。さて、幸福の基準はどこからくる?すべての答え、意見を書いてしまうのは、今は良くない気がするので書かないことにする。幸福とは何か。人を殺して得られる幸福はなぜ認められられず、違和感として処理されてしまうのか、もしかすると、ここまで読んでくださった方の中には、私の言いたいことがわかる人がいるかもしれない。いや、きっといらっしゃると思う。


私はニーチェという人がとても好きだ。哲学者とか思想家だとか、「超人」だとかって言われている人だ。だけれどあの人は、当たり前の問いを、誰も言えない問いを言っただけの人であり、その当たり前を問うただけで、こんなにも有名になった。当たり前だ。みんな知っていて言わなくて、一人の人間がいったから、そうだそうだと後ろから賛同しただけなのだから。

私にとってニーチェはただの人だ。その苦悩が、常人ではないではないのは認めるが、哲学者でも思想家でもないと考えている。

興味があれば『これがニーチェだ』という本を読んでみてほしい。私が言ったここまでの文章はこれの手助けによってできている。省いた部分も多くある。だから、読んでみてほしい。世界の見方が変わると思う。本当に、そういう本だと私は思う。

この文章が気になったという方には、ぜひ読んでいただきたく思います。


参考文献

『これがニーチェだ』永井均著 講談社現代新書

1998年5月20日第一刷発行 発行所株式会社講談社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?