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言葉にできないもの

前回は「鉛筆の色は何色か?」の問いから、言葉によって世界が細分化され、解像度があがった原体験についてお話しました。
今回は前回とは真逆に「言葉にできないもの」についてお話したいと思います。

絵は見る人の背景や経験、その時の気持ちなどによって、印象が異なると考えています。
言葉とは異なり、一義的な解釈は難しいです。
もちろん、言葉も文脈やその人の背景に左右されることはありますが、おそらく意味がある程度定まっている分、絵よりは揺れが少ないのではないでしょうか。

さて、私は「言葉にしたらきっと嘘になってしまう、そんな脆くて儚い気持ち」を大切に絵を描いています。
今回は私がこれを根底のテーマとして描くようになった経緯をお話ししたいと思います。

● 「やばい」!

「やばい」「すごい」「萌え」など、自分の受容能力を超えた感情をぱっと表す便利な言葉たち。
最近では「エモい」などもでしょうか。
これらの言葉が多用される現状ををうけて語彙力の貧困だとか、低下を危惧する声だとかを目にする機会は幾度となくあります。

言葉によって表現され、説明され、また理解する。
このいとなみは発する側と受け取る側、双方に(あるいは自分一人での自問自答かもしれません)同等の語彙力(ときに辞書などを用いつつも)があることによって成り立ちます。

なるほど表現・説明・理解に言葉は不可欠でしょう。
しかし、不可欠とならない条件もあります。

それは他者に説明する必要のないとき。
すなわち、自分の中で完結する気持ちです。

●「悲しいというのはどういうことだかわかるかい?」

「悲しいというのは、どういうことだかわかるかい? (・・・)それは悲しいということだ。ほかの何にも言いかえなどできない」

以前読んだ小説の一節です。
(ただ、探しても探してもその小説が見つからないので記憶違いかもしれないです、、、。
記憶のままに書いたので、細部は異なっているかもしれません。
もしピンときた方がいたら教えてください!)

ここで重要なのは、その小説の中で言葉にしなくてもよいと肯定されていることです。
言葉を紡いで編み上げられる小説の中で、全てを紐といていて明らかにする必要はない、というのです。

はじめは、すべてを言葉にしてしまえばガチガチに固められて、行間の「遊び」が失われ、無粋になるからだと考えました。
(そんな小説、ちょっとイヤだなあ、、、笑)

けれど、その言葉をかみ砕いていくうちに、
「すべての気持ちを言葉にしてしまうことは、おそろしく乱暴なことだ」
と解釈するようになりました。

● 気持ちを言葉に表すには

今、自分が知っている言葉のみ、いえ、未知の言葉であってもそのときの気持ちがすべて表せると考えるのは、ある種傲慢なことだと思うのです。
そのとき何を体験し、何を感じたのか。
同じ体験をしても、きっと人それぞれ、そのときどきで感じたことは異なるでしょう。

それを説明しようとすれば、一度この膨大な感情を脇に置いて立ち止まり、体験を見直し、自分の中の言葉を振り返り、そしてやっと表現することができるのです。
けれど、これをすれば、今感じている衝撃を一度手放さなければなりません。

私には、これがとてももったいないと思うのです。
「今」感じていることは「今」でなければ感じられません。

言葉にするのなんて、その衝撃が去ったあとでも十分ではないでしょうか?
無理やり言葉に表す必要なんてないと思うのです。
言葉にまだできないのなら、まだその衝撃が去り切っていないとも言えるでしょう。
衝撃が去り、もし、そのときにまだ言葉に表したいと思えるのならば、そのときまた改めて考えればよいのです。

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「やばい」ものを「やばい」、「エモい」ものを「エモい」ままにすることは、自分の気持ちを大切にすることだと思うのです。

● 「気持ち」につけられた仮の名前

さて、それでも気持ちを咀嚼して嚥下し、言葉に消化したいと思っても、今知っている言葉に、あるいは辞書にあたっても、適切な言葉を得られるとは限りません。

気持ちが言葉を凌駕する、そんなのは当然です。
気持ちが先に立ち、それを名付けていったのですから。
まだ名付けられていない気持ちを表現するには、代替する言葉で以て妥協せざるを得ません。
そうした気持ちに仮でつけられた名前が、冒頭に挙げた「やばい」「エモい」であるとも言えるでしょう。

● 人魚姫の涙

アンデルセンの「人魚姫」はあまりにも有名なお話です。
何年か前、私はこの物語のラストシーンを題材にした絵を描きました。

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人魚姫の彼女は泡と消えるその瞬間、何を思っていたのでしょうか?

自らの命が消える恐怖でしょうか?
王子様へ想いが届かなかった無念さや恨み辛みでしょうか?
王子や姫を殺さなかった誇らしさでしょうか?
そもそも陸へ上がったことへの後悔でしょうか?
自らを心配してくれた海の家族らへの懺悔でしょうか?
自らを救おうとしてくれた姉たちへの感謝や謝罪でしょうか?
ただ王子の幸せへの純粋な願いでしょうか?

きっとそれらがない交ぜになって、いえ、もっといろんな気持ちも混ぜこぜにごちゃごちゃになって、判然としない、茫洋とした気持ちだったのではないかと思います。

いえ、これらも私が外から感じ取った推測であって、きっと正解ではないでしょう。
ピントを合わせるべきは、私が外側から観測した推測ではなく、彼女による彼女自身への理解です。
これは他者からは決して見ることはできません。
当人にとっても、襲い来る感情はきっと処理しきれず、また、処理する気さえも起こりえないものであったように思うのです。

気持ちを言葉にしようとしたとしても、恐怖も無念さも恨み辛みも誇らしさも後悔も懺悔も感謝も謝罪も願いも、どれも近いようでしかしぴったりと当てはまらないものだったかもしれません。
それでもその気持ちをこれらの言葉に当て嵌めてしまえば、それは妥協であり、嘘とも言えます。
彼女の気持ちは本当なのに、それを言葉にしたら嘘となってしまうのです。
読者である私は、彼女に嘘をつかせるなんて、そんなことはさせたくはありません。

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しかし、人魚姫の泡となりゆくときの気持ちは、彼女だけのものです。
第三者が憶測し、解体し、彼女以外の者の言葉で語るのは、騙りであり、驕りであるように感ぜられるのです。

余談ですが、「登場人物の気持ちを考えてみましょう」という国語の課題に対して、「その登場人物じゃないからわかんない!」という屁理屈は、こういった意味でどこまでも否定できるものではなく、ある種とても誠実な答えであるとも思うのです。
(無論、わからなくてもわかろうとする努力は欠かしてはならないものです。)

● だから私は絵を描くのです。

それでも私は、人魚姫の彼女(に限らず膨大な)の心境を、私の中で明らかにし、受容し、表現したい。
傲慢にもそう考えてしまいます。

言葉で以て彼女を理解することは、おそらくどんな言語や単語を用いても足りません。

だから私は描くことにしました。

「どんな気持ちだったのだろう?」
とじっくり時間をかけて思いを馳せ、
「私だったらきっとこう思ってしまう」
彼女に寄り添ったつもりで、あるいは自己を投影しながら描きました。

私の絵を見てくれた人も彼女の気持ちを想像してくれることを期待して。
言葉による一義的な解釈ではなく、絵による人それぞれに千変万化する多義的な解釈を期待して。

● 言葉にしたらきっと嘘になってしまう、そんな脆くて儚い気持ち

意識的にこれを根底のテーマとし始めたのはこのころだったように思います。
言葉では表現しきれない心を、私の絵を見てくださる方と一緒に考えたいのです。

人魚姫は、何を想いながら泡と消えたのでしょうか?

おまけ:タイトル使用イラスト

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水彩
紙:Moulin Du Roy(細目)



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